しかし明石さんは別段なんともないように話を続けた。
「流石に一日で五、六缶も飲み干せば具合も悪くなります。それほどあのお酒は強力なのです」
「私もそれくらい飲んだんだけどなぁ」
「……それは紬さんがぽわぽわしているからでしょう」
「そうなのかな~?」
ぽわぽわしていることと冷え性をこじらせないことに何の因果関係があるのか分からなかったが、
琴吹さんが体調を崩す姿が想像できないことから妙に納得してしまった。
「そういえばさっき小津が私の所に訊ねてきたぞ。極寒麦酒を返せだの言っていたが……」
私は布団からもぞもぞと顔を出すと、思い出したように会話に割って入った。
「きっと余った麦酒を売りさばいて資金にするつもりなのでしょう。
小津さんならやりかねません」
「資金とはなんだ?」
「自虐的代理代理戦争の軍資金だと思います」
訳の分からない単語を聞いた途端、私は考えるのを止めた。
小津の意味不明な日常的非日常生活に触れたら大やけどするに決まっている。
私はなるべく首を突っ込まないように再び布団に首を引っ込め、話題を絶とうとした。
「なんだか面白そう!」
布団を隔てた向こう側で琴吹さんの楽しそうな声を聞いた。
私は嫌な予感がした。
そして琴吹さんが何に期待しているか察すると、心臓が飛び出るほど危機感を感じた。
「駄目だッ」
私は跳ねるように飛び起きると、その場にいた二人を一喝した。
急に私が大声をあげたので、驚いた琴吹さんはビクッと体を強張らせた。
「な、何がですか?」
「琴吹さん、絶対に小津と関わってはいけない。そんなのは言語道断だ」
ぼさぼさの髪で喚き散らす私を琴吹さんは困ったように見つめ、
明石さんは呆れたようにため息をついた。
「先輩、まだ紬さんは何も言っていません」
あいつは人の皮を被った悪魔だの妖怪だの悪態をつきまくる私を、
琴吹さんは「まあまあまあ」となだめるように床に押し返した。
興奮しすぎたせいか吐き気と頭痛が再び私を痛めつけ、うーんうーんと唸りながら横になった。
「気にしないで下さい」
明石さんは憐れみを含んだ言い方をすると、琴吹さんの方へ向き直った。
「先輩は恐らく誰よりも小津さんの影響力を知っているのでしょう。確かに小津さんは
底抜けの阿呆ですが、腰が据わっています。生半可に関わるのは止した方がいいと思います」
いよいよ明石さんにまで真剣に忠告されたとなれば琴吹さんも考えを改めるに違いない。
私は明石さんグッジョブと心の中で親指を突き立てた。
「とは言っても小津さんがこだわっているのはあくまで先輩に対してだけです。
つまり先輩に関わることは間接的に小津さんとも関わるということにもなります」
明石さんはさりげなくとんでもない事を言ってのけた。
まるで私が小津に執拗にストーカー行為を受けているかのような言い草である。
運命の黒い糸でボンレスハムのようにぐるぐる巻きにされて暗い水底に沈んでいく男二匹の
恐るべき幻影が脳裏に浮かび、私は戦慄した。
「そうですか……」
琴吹さんは憮然とした表情で呟いた。
違うぞ琴吹さん。いや、小津が危険な事は違わないが、私は至って清廉潔白なのだ。
むやみにアナタを腐れへっぽこ妖怪に近づけるような真似はしない。
私がそのような塩梅で紳士的説得を試みようと再び亀のように顔を覗かせたところ、先に琴吹さんが
口を開いた。
「でも私、今学期を終えたら海外に留学してしまうので、
今の内に出来ることをやっておこうかなと思ったんです。
英会話教室で先輩のお話を聞く限りでは、小津さんという方は非常に愉快で面白い人だと……。
せっかくなら会ってみたいな、なんて思ってたんですけど」
琴吹さんはしょんぼりしたように言う。
そして私はというと、喉まで出かかっていた説得を思わず呑み込み、ぽかんとしていた。
何か今、とても大事なことを聞いたような気がする。
小津が愉快で面白い人間だという事だろうか?
しかし私は英会話教室であいつの都合のいいようにスピーチした記憶はない。
出来る限り憎しみと卑下を込めたつもりだったが伝わっていなかったのだろうか。
そうではない。
私が琴吹さんの台詞で強烈な違和感を垣間見たのは、小津の人間性の解釈の相違ではない。
彼女は「今学期を終えたら海外に留学」すると言った。
海外に留学とはどういうことだ?
「そういえばそうでしたね」
明石さんは表情一つ変えず言葉を添えた。
「か、海外に……留学……?」
つっかえながら琴吹さんに聞き返す。
彼女は微笑みながら首をかしげると、残酷な事実を私に告げた。
「あれ?先輩にはまだ言ってませんでしたか?
私、前期終了後にアメリカに留学するんです。ついこの間決定したんですけど……」
アメリカに留学。
前期終了後。
私は返す言葉を失い、舞台が暗転するような感覚に包まれた。
もし本当に海外に発ってしまうなら、私が琴吹さんと会えるのもあと数週間である。
まずもって喪失感。
そして認めたくないものの、失恋の情。
人によってはこう言うだろう。
あと数週間でもチャンスはあると。諦めるには早すぎると。
あるいは私を情けない奴と罵るであろう。
断言しよう。
私は生来の腰ぬけであり、諦めの早さにおいて並ぶ者はいないと自負している人間である。
あと一ヶ月と少しで居なくなる人に思いだけでも伝えよ、と甘ったるい思想の持ち主なら
闇雲に駆け出し玉砕を良しとするかもしれない。
しかし現実主義かつ小心者の私にとってそんな色恋劇場の役者のような真似が出来るはずもない。
クララの馬鹿、いくじなしとでも罵倒されてもなお石橋を叩き壊す勢いでリスクを回避する
この性格だけは治せず、だからこそ堅実な道を何よりも求めたのである。
私は新たな人生へと踏み込む琴吹さんを前に、もはや何も求めることは叶わなかった。
始まってもない恋の行方を案じた私がただ一人、道化を演じていたようなものだ。
私の心はその場で真っ二つに折れてしまった。
後悔する暇もなく、私は失意のどん底に勝手に落ちて行った。
じつに、生き方に工夫が足りなかった。
私はなんて不器用だったのであろう。
――――――
――――
――
それから先のことは良く覚えていない。
いつの間にか琴吹さんは帰っていて、明石さんが私の看病をしてくれたことはなんとなく記憶に残っている。
次に意識がはっきりとしたのは翌日の朝だった。
気だるい体をむりやり起こし、何も考えずにトイレへ向かった。
昨日の琴吹さんの言葉は幻だったのではないか。
この期に及んでそんな妄想にすがるほど私は狼狽していた。
しかし次第に昨日の記憶は鮮明に思い出され、同時に絶望感で全身の力が抜けていく。
頼りない足取りで我が四畳半に戻ると、
この二週間足らずの出来事がまるごと夢だったのではないかと錯覚する。
私はそれっきり英会話教室には行かなくなった。
琴吹さんと顔を合わせる勇気がない。
私は再び、大学と家を往復する生活に戻った。
○ ○ ○
海外留学の話を持ちだしたのは他ならぬお父様でした。
それは私が先輩を部屋に招いた少しあとのことです。
お父様から直接電話をいただくことは珍しい事ではありませんでしたが、
まるで週末の予定を聞くような調子で海外留学の話をし始めた時は驚きました。
琴吹財閥の跡取りとして様々な経験を積んで欲しいと大学に行かせてもらい、
事実私はお父様のサポートだけでなく自らの意志でも色々と積極的に活動してきました。
そこにお父様の意志が無かったとも言い切れませんが、、
少なくとも私の自由をそれなりに尊重してもらい余計な指示や口出しは一切しませんでした。
その代わりプライベートには斎藤を介して何度もお節介を焼かれましたが……。
お父様の口から直接、具体的な提案が持ちだされることは今までなかったのです。
私は海外留学の提言に驚くと共に、複雑な心境に至りました。
まず、これは願ってもいないチャンスだという希望のような思いがにわかに浮かんだのです。
以前から私は海外留学に大いに興味がありました。
旅行で何度も海外へ飛ぶことはありましたが、本格的に日本を離れて勉学に勤しむことに憧れていたのです。
しかし私は、きっとお父様は許して下さらないだろうと思っていたのです。
自由を許された言っても、お父様は基本的に親馬鹿といいますか、私のことを大事にし過ぎる節がありました。
友達の家でお泊りするというだけでもお叱りを受けるのです。
ましてや私が留学したいなどと言ったら猛反対されるに決まっているのです。
それが何の心変わりかは存じませんが、
まさかお父様から話を持ちだされるなんて思ってもいなかったのです。
私は二つ返事で進言を受け入れようとしましたが、ふと別の考えが浮かびました。
何故お父様はこの時期にそんな話を持ちかけたのでしょうか?
私は何か裏があるのではないかと勘繰りました。
そして思い至ったのは、私の部屋に先輩を招いたことがばれてしまったのではないかということでした。
斎藤が言及したのかも知れません。例えそうでなくても、タイミングとしては十分考え得ることです。
もしかしてお父様は私がこの大学での交友関係をあまり快く思っていないのではないかしら。
それで海外に住まわせ、更に私の行動を制限するつもりなのでは……。
一概に先輩が原因とは言えませんが、何か裏があるのではと感じ取った私は、
お父様の意見に素直に賛同するわけにもいかず、しばらく返事を待ってもらうことにしたのです。
ところが一週間ほど考え抜いた結果、結局私は海外留学することに決めました。
理由は単純でした。
留学という未知の体験を想像し、その未来像が私の興味を余すところなく刺激したからです。
いつしか私は、自分の中に目覚めつつある好奇心への抗えない欲求に呑まれていました。
こうやって書くとまるで快楽に溺れる狂人の風に皆さんの目に映るかも知れませんが、
私はそれこそ無我夢中で大学生活を過ごして来たのです。
すでに私は顧みることを忘れ、ただただ現在と、その先にある未来を見ることしか出来なくなっていたのです。
あるいは視野が狭いと思う方もいらっしゃるかもしれません。
どこまでわがままな娘なのだと責める方だって居ると思います。
過去、私は自分本位になることを否定し続けていました。
身勝手な振る舞いで他人を傷つけることを極端に恐れていたのです。
けれども私は、桜ケ丘高校の軽音部を経て自らの意志の価値を知りました。
私はその意志でもって、海外留学することを肯定したのです。
心残りなのは今まで私と知り合ってきた友人たちでした。
私が留学を決意した時、お世話になった人たちにまず知らせました。
その中には明石さんも居ました。
そして先輩にも、あの日、先輩の部屋にお邪魔した時に話をしようと思ったのです。
思いがけずお酒を飲むことになり、その場では留学の話などつい忘れて楽しんでしまいましたが、
しばらく経ったあと私は思い切って打ち明けたのです。
ところが先輩は直後に意識を失い眠ってしまったのでどうやら覚えていない様子でした。
わずか数回会って話をしただけですが、先輩には家まで送り届けてもらったという恩があります。
それに私の知らない色々なことも教えてもらいました。
先輩にはきちんとお話したかったのですが、
なんだか中途半端に告げる形になってしまったのは悔やまれるところです。
そして何故か先輩はあの日以来、英会話教室に来なくなってしまいました。
メールによる連絡も何もありません。
私の方から連絡することも考えましたが、
何か事情があるのかもしれないと思い、迂闊にお節介を焼くのが躊躇われたのです。
先輩のことも気になりましたが、私はかつての軽音部のメンバーと連絡を取ることを考えました。
唯ちゃん、りっちゃん、澪ちゃん、梓ちゃん……今となってはあまり会うこともなくなっていましたが、
私にとっての大事な転機を知らせない理由にはなりません。
久しぶり、と挨拶を添えて、
この度海外に留学することにしましたと4人にメールを送ると、返信はすぐでした。
本当に!?すごいじゃん!と驚きと感嘆を素直に言ってくれたりっちゃん。
久しぶりだな、おめでとう、と感慨深げに私を祝ってくれた澪ちゃん。
おめでとうございます、と丁寧に称賛してくれた梓ちゃん。
そっかぁ、寂しくなるね、と別れを惜しんでくれた唯ちゃん。
そして誰もが言ってくれたのは、旅立つ前に会えないかという言葉でした。
私はみんなのメールを読みながら、高校を卒業して離ればなれになっても会いたいと思える友人がいることに
心の奥から暖かいものが込み上げてくるような気がしました。
これが最後というわけではありませんが、日本を出発する前に放課後ティータイムのみんなと会うことが
色々な意味で人生に区切りをつけるために大事なことだと、私は感じました。
かくして私たちは再会することにしたのです。
それは7月に入る前、日差しが眩しく照らす休日の、桜ケ丘高校の音楽室でした。
○ ○ ○
私の心に負った傷はかつてないほど深刻を極めた。
たかだか数日、それも熱烈な恋に身を焦がしていたわけでもないのに、
琴吹さんとのわずかな想い出が時と場所を選ばず甦るのだ。
私はその度に盛大なため息をつき、肩を落とし、頭を垂れ、
そのまま地面に埋もれてしまうほど気分を落ち込ませた。
あの日から私は無気力に一層磨きがかかり、何をするにしても上の空、虚ろな目線は定まらず
意識は体から解き放たれたように宙をさまよっていた。
荒涼たる四畳半を精神的にさまよい続け、時はいつしか7月の終わりに差し掛かっていた。
もうすぐ大学も前期の修学期間を終えようとしている。
このまま夏休みに突入すれば、琴吹さんはすぐにでも海外へ旅立ってしまうだろう。
心の傷は時間が癒してくれるという人生の真理も、今の私には当てはまらない。
時間が経てば経つほど私は目の前の好機から逃げている自分自身を客観的に見えてしまう。
なんと情けない人間なのだろうと自己嫌悪に陥る。
乙女のように恋焦がれるむさ苦しい男の姿を想像してぞっとしたりもした。
しかしそんな私の傷心の日々にも救いの手は差し伸べられた。
まことにやるせないことながら、それは小津を伝わって私の元に舞い降りてきたのである。
小津は相変わらず良からぬ妄念を腹に溜めながら、常に周りに災厄をまき散らすという
不毛なキャンパスライフに憂き身をやつしていた。
まさにホモサピエンスの面汚しである。
私が失意の波動に目覚め静謐な四畳半に籠るようになってから小津は以前ほど頻繁に訪れなくなった。
私としても自分の魂が彼によって汚染されることを危惧していたので願ったり叶ったりである。
ところが彼は私の部屋に顔を出さないものの、
二階の師匠と呼ばれる人物の元には毎日のように訪問しているようだった。
たまにドタバタと天井を揺らし、私の部屋を埃まみれにしたが、
私はその師匠とやらに関わりたくなかったので騒ぎが収まるまで縮こまっていたりした。
そんな孤高の生活も長くは続かず、いい加減琴吹さんとの淡い思い出、
しかるに苦い思い出を忘却の彼方へ押しやらなければならぬと思う。
でなければ人として生きる術すら見失いかねない。
しかしそう簡単にも忘れられるほど小回りの利く私の性格でもない。
悶々と袋小路に嵌りかける私に、時を見計らったかのように小津が訊ねて来たのは
八月に入ろうかという暑い夏の日だった。
「おや、顔色がすぐれませんな。いまだに籠って無駄な水分を垂れ流しているんですか?
こんなに天気がいいんだから外で気持ちよく汗を流せばいいのに」
「黙れ。心頭滅却すれば火もまた涼しいのだ。だいたい外に出て日向ぼっこでもしてみろ。
水分をあらかた吸い取られてカラカラに干からびるのがオチではないか」
「せっかく健全な生活習慣を提案してあげたのに」
「そもそも何の用だ」
どうせ冷やかしにでも来たのだろうと思ったが、
小津は何やら神妙な顔つきで「ちょっと」と口を手元で覆い隠した。
その仕草が彼をより一層邪悪な人相たらしめていた。
その名を聞いたとき、全身に電流が走ったような衝撃に見舞われた。
何故小津が琴吹さんを?
もし琴吹さんに小津の魔の手が忍び寄ったら由々しき事態である。
「何故きさまが彼女の名を知っている!?」
「あら、ということはお知り合いなんですね」
「彼女に手を出すことは私が許さん!」
「あなた琴吹紬の何なんですか。そんなにはりきっちゃって」
ぐうの音も出ない。
私と琴吹さんはもはや何の関係もないのだ。
「まさかあなたがあの琴吹紬とお知り合いだとは思いもよりませんでした。
てっきりあのメールアドレスも妄想かと」
「貴様、彼女をどうするつもりだ!」
「別にどうもしません」
小津がにやにやと悪魔のような笑みを浮かべた。
私は直感した。
小津は何かを企んでいると。
「……それで、私が彼女を知っているから何だというのだ」
私は努めて冷静に小津と対面した。
「いえ、なんでも彼女、今学期いっぱいで大学から去るらしいじゃないですか。
それにつけて友人を招いて盛大に門出を祝うなんて噂を耳にしたもんで、
あなたなら知ってるんじゃないかなぁと」
私は小津の情報収集能力に改めて驚愕し、戦慄した。
小津の閻魔帳には様々な人物のあらゆる秘密が
平凡社世界大百科事典のようにみっちりと書き込まれているらしい。
私はそのことを考えるたび、こんな歪んだ人物とは
一刻もはやく袂を分かたねばならぬという焦燥に駆られるのだった。
「そんな話は知らん。そもそもお前がそれを知ってどうしようというんだ」
「秘密です」
不敵に笑う小津を廊下の外へ蹴りだし、私は再び四畳半に閉じこもり思案した。
とうとう小津が琴吹さんに目をつけた。
非常に危険な状況に刻一刻と近づいていくようで気が気でない。
私は一人作戦会議を開いた。
まず考えたのは小津が具体的に何をやらかそうとしているのかということである。
しかし小津の行動原理を自分の物差しで測るなど愚行も甚だしい。
今までもいったいあの男は何がしたかったのか、解き難い謎であるが強いて解く必要もなかった。
そしてもう一つ、小津の話の中で留意すべき言葉があったはずだ。
どうやら琴吹さんは最後のお祝いをするつもりらしい。
一体何をどのようにしてそのパーティが行われるのか私は知る由もない。
だが小津の口ぶりからして、その場で良からぬことを働くのは容易に想像できた。
もし琴吹さんが小津の毒牙にかかり清らかな魂を汚されでもしたら世紀の大事件である。
私と小津をまとめて珈琲挽きにかけて粉々にしても神は決してお許しになられないだろう。
これは私一個人の問題ではない。琴吹さんの将来に関わることだ。
決断は思いのほか早かった。
私は念には念を入れて、まず明石さんに連絡をとることにした。
もしかしたら彼女もそのお祝い行事に呼ばれているかもしれない。
明石さんに電話をかけると、しばらく待った後に凛とした声が聞こえた。
『はい』
「明石さんか?」
『そうですが、どうかされたのですか?』
私の突然のコールにも彼女は落ち着き払った態度を維持していた。
携帯越しに明石さんの端然とした表情を想像する。
「小津から聞いたのだが、琴吹さんが日本を発つ前に友人を招いてパーティをすると」
『パーティではありません。紬さんがライブハウスで演奏するので、チケットを友人に配っているのです』
「ライブハウス?」
『京音堂という割と大きめのハコです。私も何度か行ったことがあります。
先輩は呼ばれなかったのですか?』
明石さんのさりげない言葉がぐさりと私の心を突き刺した。
私はなんとか平静を保ちながらライブの詳細を質問した。
『日時は八月○日、放課後ティータイムという紬さんの高校時代のバンドの単独ライブだそうです。
紬さんはライブの直後に日本を旅立つようですね『
「そうか……ちなみに明石さんは小津がそのライブに関心があるということを知っているか?」
『小津さんがですか?』
「あの腐れ変態妖怪は私に琴吹さんの事情を聞いてきたのだ。
絶対に何か企んでいる様子だった」
『それは初耳です』
「私は何としてもそれを阻止せねばならない。しかし琴吹さんにそんな事を洩らして
余計な不安を与えたくはない。明石さんよ、せめて小津の動機に心当たりはないか?」
私は自分ですら計りしれなかった小津の目的が明石さんに分かるだろうかと聞いておきながら思った。
しかし明石さんはしばし黙った後、ぽつりとつぶやいた。
『もしかしたら……』
「もしかしたら?」
『いえ、根拠はないのですが、小津さんは単純に紬さんの財力が目当てなのではないでしょうか』
「誘拐して身代金でも要求するつもりか」
犯罪者になるつもりであろうか。落ちるところまで落ちてしまったと言わざるを得ない。
『小津さんは最近取り憑かれたようにお金に執着しています。
今では師匠の貢物とは無関係にどこからともなく紙幣を溜めこんでいるらしいのです』
「そこで琴吹さんに目を付けたのか……しかしなぜ琴吹さんなのだ?」
『先輩御存じないのですか?紬さんは旧日本財閥琴吹商社の御娘です。紬さん自身ならいざ知らず、
実家の規模を考えれば彼女にすり寄るメリットは想像に難くありません』
明石さんはあくまであっさりと答えた。
なるほど、手段を選ばない小津のことだ。
ライブにかこつけて琴吹さんと彼女の背後にある巨大な財源に急接近するつもりであろう。
「ならば尚更、小津を琴吹さんに近づけるわけにはいかない」
私は意気込んだ。
しかし意気込んだはいいものの、どうすればいいのか皆目見当もつかない。
『何か策があるのですか?』
「……今のところ考えられるのは、私もそのライブ会場に行き小津の動向を見張ることくらいだ。
しかしチケットは持ってないし、もし見張ったとして、未然に防げるとも限らない」
私は自信なく言った。
『チケットなら丁度一枚、私の手元に残っていますが』
「私にくれるのか?」
『相応の金額を支払ってもらえば別にかまいません』
なんと都合の良いことだろうか。
電話の向こう側の明石さんに敬意を払い、ありがたくチケットを売ってもらうことにした。
「明石さんも手伝ってくれないか?」
『遠慮します』
明石さんはにべにもなく言った。
「明石さんは小津と兄弟弟子だろう。奴を更生させたいとは思わないのか?」
『小津さんは私たちが何をしたところで
改心するような融通のきく人間ではありません。横槍を入れたところで無駄でしょう』
「師匠とやらは何もしてくれないのか?」
『師匠は弟子の素行を正そうとするほど配慮の足りる人でもないですし、
そんなことに動じないところが師匠が師匠たるゆえんなのです』
つまり何もしていないに等しいではないか。
師匠と名乗るだけの説得力が微塵もない。
或いは、このあまりにも説得力のない感じが、逆に説得力があると言っても、説得力に欠けるのだろうか。
「……分かった。小津は私のほうで何とかしよう」
明石さんには明日チケットを持って来てもらうと約束して電話を切った。
今にして思えば、何故そんな師匠の元に明石さんまでもが師事しているのか甚だ疑問である。
○ ○ ○
先輩の語りの途中ですが失礼します。
補足説明も兼ねて、このイベントに至るまでのいきさつを少しばかりお話させてもらえば幸いです。
さて、私たち放課後ティータイムが京音堂にて単独ライブをすることになったのは明石さんの説明で
既にご存知かと思いますが、一つ付け加えたい事があります。
私は先輩を誘うつもりが無かったわけではありませんでした。
単に先輩に対して負い目といいますか、
私が先輩の重荷になっているのではないかと……そのように思えたのです。
言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、
先輩にチケットを渡す踏ん切りがつかなかったことは事実でした。
あの日――私が先輩の部屋に遊びに行った日から、先輩は英会話教室に来なくなりました。
初めは先輩も何か事情があるのだと余計な詮索はしませんでしたが、
いよいよ一ヶ月も姿を見せないとなると私も心配を隠せませんでした。
そして最後に先輩にお会いした日まで記憶を辿ると、私はまさか、という焦燥にも似た胸騒ぎがしたのです。
最終更新:2016年12月28日 08:09