私には友達が居る――。
「ねえ、澪。
ちょっと生徒会室に来てみない?」
雨の日の放課後、その友達に不意に申し出られた時、正直、ちょっと驚いた。
まさか和がそんな申し出をしてくる事があるなんて、思ってもみなかったから。
和――唯の幼馴染みで生徒会に所属しているしっかり者の私の友達。
短く整えられた髪にボーイッシュさを感じさせられる事も何度かあったけど、
チャームポイントと言っても過言じゃない赤いアンダーリムの眼鏡と、
もしかするとムギ以上に丁寧な言葉遣いから、その私の認識が間違っていた事はすぐに実感させられた。
外見以上にずっと女の子らしい――じゃなくて、女性かな?――内面を持ち合わせる和。
ううん、ひょっとすると、私の友達の中で一番女性らしさを兼ね備えた子なのかもしれないな。
しっかりしていて、穏やかで、気配りも出来るママみたいな和――。
今まで口に出して言った事は無いけど、私はそんな和にかなり憧れていたりする。
だからこそ、驚いたんだよな。
和はしっかりしている子で、分別もあって、公私混同をしない子だったから。
今まで、律と唯が我儘を言って、生徒会室を見せてもらった事は何度かあった。
でも、和の方から私達軽音部の中の誰かを生徒会室に誘う事は一度も無かった。
頼まれれば見せるけれど、自分から進んで招いたりはしない。
和にとって生徒会室はそういう聖域みたいなものなんだな、って私も思ってた。
私達の前で見せる顔と生徒会で見せる顔は別の顔だって事なんだろうな、って。
「どうしたの?
ひょっとして今日は軽音部に早く顔を出さなきゃいけない日だったとか?」
私が何も言わないのを怪訝に思ったんだろう。
和が私の顔を覗き込んで、もう一度訊ねた。
凄く意外なんだけど、その和の瞳は少し残念そうに見えた。
和の残念そうな顔なんて滅多に見た事無い――。
そう思った時には、私はいつの間にか首を大きく横に振っていた。
「いやいやいや、そんな事無いよ、和。
和も知っての通り、軽音部は基本的にのんびりまったりした部だから早出とか無いしな。
ちょっと驚いちゃっだけだよ。
だって、和が生徒会室に私を誘った事なんて今まで無かっただろ?」
「そうだったかしら?」
和が平然とした表情で首を傾げる。
どうやら、和は別に生徒会室を聖域だって考えてるわけじゃなかったみたいだ。
単に私達を誘う理由が今まで無かっただけだったのか……。
ははっ、妙に遠慮しちゃってたのは、私の方だったのかもな。
「うん、そうだよ、和。
じゃあ、急ぐ理由も無いし、部室に顔出す前に生徒会室に寄らせてもらおうかな。
実はさ、一度、生徒会室の中をゆっくり見学してみたいって思ってたんだよな」
私は胸の中だけで苦笑しながら、机の横に掛けている自分の荷物を持った。
善は急げ、だもんな。
わざわざ和が生徒会室で私に用があるなんて、どんな用なのか凄く気になるし。
「わざわざ悪いわね、澪」
和も自分の荷物を手に持って軽く笑った。
さっき珍しい残念そうな顔を見たせいか、その和の表情は普段よりも輝いて見えた。
何の用があるのかは分からないけど、何だか嬉しいな。
私を生徒会室に呼べた事を喜んでくれるなんて、こっちまで嬉しくなっちゃうじゃないか。
和の笑顔が見られるだけでも、生徒会室に行ってみる価値はあるよな。
それにしても、生徒会室か。
一体、どんな所なんだろう?
何度か訪ねた事はあるけど、真面目に見学してみた事は一度も無い。
放課後、部室に向かう私と別れて、和が滞在している生徒会室。
和は何を考えて、何を思いながら生徒会の活動をしてるんだろう――?
うん、すっごく興味が出て来たな。
生徒会長になった和が生徒会役員とどんな会話をしてるか、とかもさ。
って、あっ……。
私は不意にとんでもない事に思い当たって、和に縋る様な視線を向けた。
それだけで分かってくれたのか、和がまた軽く苦笑して返してくれた。
「大丈夫よ。安心して、澪。
今日は生徒会がお休みの日だから、今、生徒会室には誰も居ないと思うわ。
勿論、溜まってる仕事をしてる子は居るかもしれないわ。
でも、今は特に忙しくないから、溜まってる仕事も無いはずよ。
間違っても生徒会室で澪に急にベースを弾いてもらう事になるとか、そういう事は無いから」
よかった――、と私は自分の胸を撫で下ろす。
そんな事があるはずないって分かってるんだけど、
人が集まる場所を想像すると、どうしても緊張しちゃうんだよな……。
この性格も治さなきゃ、って思ってはいるんだけどさ……。
とにかく、今日は生徒会室に私達以外に誰も居なさそうで、一先ずは安心だ。
それにしても、和は私の事をよく分かってるな、っていつも思う。
今だってそうだし、二年のクラス替えで同じクラスになって以来、私が困った時にはいつも助け舟を出してくれた。
二年生で律と別のクラスになって、知ってる子が和以外に誰も居なくて、私は凄く不安だった。
このクラスでどうやって過ごしていけばいいのか、途方に暮れてた。
和はそんな私の世話を焼いてくれた。
自分でも面倒臭いと思う性格なのに、嫌な顔もせずに私を助けてくれたんだよな。
おかげさまで無事に高校二年の生活も、何事も無く三学期を迎える事が出来た。
和繋がりではあるけど、新しい友達も少しだけ増やせたんだ。
本当に和のおかげだよ……。
和とは三年でも同じクラスになれたらいいよな。
いや、そうじゃないな。
もし和と別のクラスになっても私は――。
「ありがとな、和」
「どうしたのよ、急に」
不意に私の口から出て来た言葉に面食らったのか、和はきょとんと首を傾げる。
私はお礼を言いたくて仕方が無いんだけど、
和にとってはお礼を言われるような事をしてるつもりは無いんだろう。
それも和の凄い所だと思う。
無自覚に誰かのために動く事が出来る和――。
私はそんな和に、いつか本当の意味で、心からお礼を言いたい。
「ははっ、何となく思い付きで言ってみたくなっただけだよ。
それじゃあ、早速生徒会室に行っちゃおう、和。
のんびりした部って言っても、あんまり遅れると律が怒るかもしれないしさ」
「何なのよ、澪ったら。
そういう思い付きで動く所、唯に似て来たんじゃない?」
「うっ……。
それは無い……と思いたい……」
肩を落として、私は何となく和から視線を逸らして窓の外に向けてみる。
朝から相も変わらずそぼ降る小雨。
生憎の雨模様だけど、別に私は雨が嫌いじゃない。
雨って何処か切なくて胸を揺さぶる気がするもんな。
振り出す雨――Raindrops――。
なんてさ。
あ、このフレーズ、いいかもしれない。
今度、雨が関係する歌詞でも書いてみようかな。
「どうしたの、澪?
律に怒られたくないんだったら、早く生徒会室に行かないと駄目じゃないの?」
気が付けば、和がいつの間にか教室から出て廊下で待っていた。
いつの間に……。
せめて一声掛けてくれればいいのに……。
でも、そんな和が私は嫌いじゃない。
そういう何処かずれたマイペースな所があるからこそ、
和はあの唯とずっと幼馴染みの親友で居られたんだろうから。
私の大切な仲間の唯と親友で――。
少しずつでも、私はそんな和に近付きたい。
*
和の言った通り、生徒会室の中には誰も居なかった。
真面目に仕事をやってるって証拠なんだろう。
だからこそ、休日にちゃんと休めてるんだよな、生徒会役員の子達は。
「やっぱり新鮮だな、生徒会室って」
「澪も何度か来た事あるじゃないの」
「それもそうなんだけど、やっぱりイメージ的にさ」
生徒会室の雰囲気に呑まれてしまったのか、私はついありきたりな会話をしてしまう。
我ながらすっごくお約束な事しちゃったな……。
今日、ここに律が来てたら、絶対言ってる気がする。
「その台詞、律が居たら言いそうよね」
苦笑しながら和が呟く。
どうやら和も私と全く同じ事を考えていたらしい。
そこは笑う所なのかもしれなかったけど、その時、私の胸はいっぱいになっていた。
和の胸の中にも律が居るんだって事が実感出来たから。
私の胸の中に律が居るみたいに、和の中にも――。
それは律の事を話す私が和の中に居るって事でもあるから――。
「律って言えばさ」
気が付けば私は自然に律の事を口に出していた。
私の元気で騒がしくて面倒臭くて一番の親友の律の事を。
「律、部長としてちゃんとやってる?
生徒会に迷惑とか掛けてないか?
前の学祭の時だって迷惑掛けちゃったみたいだし……」
「そうね……。
まあ、確かに律ったら困った子よね。
書類は出さないし、部長会議にも顔を出さないし、
たまにさわ子先生と一緒になって悪ふざけしたりするし……」
「ご、ごめん、和。
私も律にちゃんと部長やらせなきゃとは思ってるんだけど……」
思わず私が頭を下げる。
律の奴、やっぱり部長会議に顔出してなかったのか。
ちゃんと参加しろよ、ってあれだけ言っておいたのに……。
でも、それは律を管理出来なかった私の責任でもある。
だったら、今は私が和に謝っておかないといけない。
――って、そう思ってたんだけど。
和は頭を下げる私の肩に手を置いて、優しく微笑んでくれた。
「いいのよ、澪。
別に澪が謝る事じゃないでしょ?
それに私、律の事、別に迷惑だとは思ってないもの」
「そ……、そうなのか?」
「ええ。
確かに律は困った子で、とても手が掛かるわ。
でもね、生徒会的にはともかく、あの子は立派な部長だと思うわよ、澪。
こう言うのも変かもしれないけど、
軽音部って唯やムギみたいな一風変わった部員が所属してる部じゃない?
まとまりなんてとても出来そうにないのに、何だかんだとちゃんとまとまってると思うわ。
それって凄い事よ?
私も生徒会役員になって――、生徒会長になってよく分かったわ。
人をまとめるのって本当に大変。
今までは唯の事だけ考えていればよかったけど、
唯じゃない生徒達の事を考えて、まとめるのってとても大変なの。
だからね、私、律は立派な部長だと思うのよ。
たまに律と二人で話す事があるんだけど、いつも貴方達の事を気に掛けてたしね」
「そうなんだ……!」
そう返しながら、私は多分、満面の笑顔を浮かべてたと思う。
どうしよう……。
私の事じゃないのに、すっごく嬉しい……。
笑顔になっちゃうのが止められないよ、律……。
律は――。
律はあんな性格だから、たまに誤解される事がある。
騒がしいだけで何も考えてない子だって思われてしまう事がある。
本当は違うのに。
律は優しくて思いよりのある子なのに……。
そう思いながらも、私は口下手と臆病で反論出来なかった事が何度もあった。
律の誤解を解けなかった私を悔しく思った事が何度もあった。
凄く……凄く悔しくて、辛かった……。
でも、和は律の事を分かってくれていた。
分かって、褒めてくれた。
律の理解者がここにも居たんだ……。
やだな……、泣いちゃいそうそうだよ……。
だけど、私は泣かずに和の瞳を正面から見つめた。
私の満面の笑顔に気付いたらしく、和も柔らかな笑顔になって返してくれた。
「まあ、書類を早めに出してくれるに越した事は無いけれどね」
軽口っぽく言ったのは、私の思っている事に気付いたからだと思う。
その和の選択は正解だった。
これ以上、和に律の事を褒められると、私、本当に泣いちゃうかもしれないしな……。
「そうだな」と笑顔で返しながら少しだけ心を静めていると、また和が続けた。
「ねえ、澪、一つ訊いてもいいかしら?」
「いいよ。何だ、和?」
「私の前での律は貴方達の事を気に掛ける部長だったわ。
唯は……、どう?
貴方達に迷惑掛けてないかしら?
あの子、いつもあんなだから、ちょっと心配で……」
そう言った和の表情は本当に心配そうだった。
唯は大丈夫だって安心させてあげたかったけど、先に私は思った。
私達、二人で居ても自分以外の話ばかりしてるな、って。
私は律の話を。
和は唯の話を。
今日に限らず、私達はいつもお互いの幼馴染みの話ばかりをしてる。
勿論、私達の共通の話題がそれだったから、ってのもあるけど――。
何より私は和と律の話をしたかった。
和も私と唯の話をしたかったんだと思う。
お互い、大切な幼馴染みを持つ身だから、
自分の幼馴染みの話をしたかったし、相手の幼馴染みの話を聞きたかったんだ。
それが同時にお互いの事を深く知る事にも繋がるから――。
何処で聞いたかは憶えてないけど、こんな言葉を聞いた事がある。
『誰かの事を知りたい時は、その誰かの好きな物をよく知るといい』って言葉を。
多分、私と和はそういう関係なんだ。
お互いの大切な幼馴染みの話はしたいし、聞いてもらいたい。
でも、本当はそれだけじゃなくって――。
「安心してくれ、和。
唯は確かに天然で遅刻しがちで色々分かり難い所もあるけど……、
でも、やる時にはちゃんとやるし、唯が居ると部室がパッと明るくなるんだ。
律だけでも明るいんだけど、それに唯が加わると嬉しくなるくらい明るくなるんだ。
キラキラ眩い感じになるんだ。
って、何だか変な事言っちゃったみたいだけど、でも、安心してほしい。
唯は和が自慢してもいいくらい楽しい幼馴染みなんだよ。
だから――」
私は伝える。
上手く言葉に出来なかったけど、とにもかくにも伝える。
和が私の大切な物を大切に思ってくれてるように、
私も和の大切な物を大切に思っているんだって。
その気持ちが少しでも和に伝わっていたらいいな――。
と。
不意に和が私の手を強く握って言った。
眼鏡越しの瞳は潤んでいるようにも見えた。
「ありがとう、澪。
これからも唯の事、よろしくね」
「あ、ああ……」
突然の和の行動に私は少し口ごもってしまう。
和に手を握られるなんて、今までほとんど無かった事だったから。
たまに手を握る事もあったけど、それはいつも私の方からだったはずだ。
和も自分が取ってしまった行動に自分で驚いているみたいで、軽く頬を染めた。
「あっ……。
急にごめんなさい、澪……。
私、気が付いたら思わず……」
「い、いいよ、和。
別に私も手を握られて嫌なわけじゃないからさ。
ううん、逆に落ち着くな。
ほら、律が結構くっ付き虫だろ?
誰かにくっ付かれてる方が安心出来るようになっちゃったみたいなんだよな……」
「澪も?」
「和も……、なのか?
あ、そっか、唯なんか律以上のくっ付き虫だもんな。
それで和も誰かにくっ付かれてる方が安心するようになっちゃったんだな」
「ええ、私の場合、唯だけじゃなくて憂もだったから余計にね……。
ねえ、澪? 本当に迷惑じゃない?
私に手を握られてても……」
「勿論だよ、和。
実を言うとさ、私ももっと和と手を繋ぎたかったんだ。
律や唯達と同じくらい、和の温度も感じてみたかった……。
って、何か恥ずかしい事を言っちゃってるみたいだけど、そうじゃなくて……」
「ええ……、分かってるわよ、澪……」
話しながら、何だかどんどん恥ずかしくなってきたな……。
すっごく顔が熱い。
ああ……、和も今まで見た事が無いくらい顔を赤くしちゃってる。
二人っきりで生徒会室で顔を赤くしちゃうとか、何をやってるんだ、私……。
でも――。
私達は手を握り合ったまま離さなかった。
もっと和の事を知りたかったから。
友達の事をもっともっとよく知りたかったから、近付きたかったんだ、ずっと。
照れ臭くてそれが出来なかっただけで。
不意に。
私はとてもらしくない事を考えてしまっていた。
もしかしたら――、もしかしたら和もそうだったのかもしれないって。
和は大人びていてしっかりしていて、凄く頼り甲斐がある。
それは確かなんだけど、でも、和だってまだ高校二年生なんだ。
そういえば、二年生のクラス替えの時、和はこう言ってた気がする。
『よかった。
唯とクラス離れちゃって、知っている人が居るか心配だったの』
って。
あの時は社交辞令みたいなものだと思っていたんだけど、
今考えてみると、本当に和の本音だったのかもしれない。
少しずれてるように見えるけれど、普通の高校二年生なんだよな、和も――。
また二人で視線を合わせる。
頬の赤みと潤んだ目はまだ治らない。
でも、何処か心地良かった。
今日、また私は和との距離を近付ける事が出来た気がするから――。
「今がいい機会よね……」
和が何かを決心したみたいに大きく頷いて、また私の瞳を見つめた。
一度深呼吸すると、満面の笑顔で言ってくれた。
「突然だけど……、誕生日おめでとう、澪」
「えっ? 誕生……日……?」
「あ……、あれっ?
間違ってたかしら?
唯に今日は澪の誕生日だって聞いていたんだけど……」
「いや……、確かに今日は私の誕生日だけど……。
あっ、だから、今日は生徒会室に行こうって、和……」
「ええ、間違ってなかったみたいでよかったわ。
教室で大勢の前で言うのも野暮だと思って、生徒会室で伝えたいと思ったの。
突然、ごめんなさいね、澪」
「う、ううん、謝らないでよ。
私、嬉しい……、嬉しいよ、和!
私の誕生日……、憶えててくれたんだな」
「勿論よ、澪。
先月、澪も私の誕生日をお祝いしてくれたでしょ?
お返し……ってわけじゃないんだけど、二人きりでおめでとうを伝えたかったの。
実はね、プレゼントもあの棚の中に用意してるの。
ちょっと大きい物だから、後で見せてあげるわね」
最終更新:2013年01月15日 01:46