「すっかり遅くなっちゃったなー……」
ムギを駅前まで送った後、周りがかなり薄暗くなったのを感じながら私は呟いた。
街灯も所々点き始めてる。
こりゃ家に着く頃には辺りが真っ暗だろうな。
「でも、最近は結構陽も長くなって来たよな」
私の隣で肩を並べて歩いている澪が軽く微笑んだ。
薄暗くなってはいるけれど、まだこいつの微笑みが見えなくなるほどじゃない。
その澪の頬が何処となく紅くなってる気がするのは、気のせいだろうか。
いや、きっと気のせいじゃないな。
澪の頬が紅く染まってるのは、さっきまで頑張っていたからだ。
寒いからってわけじゃない。
今、澪が言った通り、最近はかなり陽が長くなって来たもんな。
何でかって言ったら――
「もうすぐ、春だからな」
私は澪の横顔に軽く微笑み掛ける。
私が微笑えだのを見ると、また澪が優しく笑った。
寒かった冬が終わって、もうすぐ春がやって来る。
春――。
色んな事が始まる季節――。
たくさんの出会いと、たくさんの別れに溢れた新しい季節――。
私達にとっては、卒業の季節でもある――。
そう。
私達は今春、高校を卒業する。
受験も無事に終わって、入学する大学も決まって、
卒業旅行も楽しんで、教室での最後のゲリラライブも終わった。
今はもう後はほとんど卒業するだけ――って時期だ。
卒業式まで、残り数日も残ってない。
楽しかったなあ、と思う。
高校生活が終わる感想がそれってのも我ながらどうかと思うけど、
でも……、本気ですっげー楽しかった。
軽音部を設立して、大雑把かもしれないけど部長をやって、
ムギや唯みたいな新しい友達も出来て、梓っていう生意気な後輩も出来た。
勿論、名残惜しさはあるけれど、このまま卒業したって私は結構満足して大学に進学出来ると思う。
だけど、このまま満足しちゃうには早いんだよな。
私には――、私達にはまだ心残りとやり残した事がある。
それをきちんと終わらせるために、私達は今日も唯の家に集合したんだもんな。
今日、唯の家、それと河原でやった事に、私は軽く思いを馳せてみる。
四人で肩を並べて練習していた事を思い出す。
「うっ……」
私はすぐに変な声を出して呻いてしまった。
今日も楽しかったんだけどなー……。
でも、流石にあれはなー……。
顔を向け合ってたせいで澪がそれに気付いて、軽く首を傾げる。
「急に変な声を出してどうしたんだよ、律……」
「いや、今日の練習の事を思い出してたんだけどさ……」
「練習がどうかしたのか? 何も問題は無かったと思うけど」
「あー、うー……っと、その……さ……」
「うん」
「私の歌声……、変じゃなかったか……?」
言い終わった瞬間、私は澪から目を逸らしてしまう。
我ながら情けないと思うけど、思い出すとどうしても顔が熱くなっちゃうんだよな。
本当にこれでいいのか、って不安になっちゃうんだ。
今日――、だけじゃなく、結構前から、私達は梓に贈る曲を練習している。
タイトルと歌詞はまだ完全には決まっていないけど、大体は完成している私達の答辞の歌。
卒業式の後の放課後――って言うのかどうかは微妙だけど、とにかく――、
私達はその歌を来年から軽音部を盛り立てる梓に贈る。
それは私が心からやりたい事だし、梓が少しでも喜んでくれると嬉しいと思ってる。
だけど……、な……。
私は夕方まで河原で練習してた自分の歌声を思い出して身悶える。
ああいう歌い方でよかったのか、正直、自信が持てない。
ドラムの練習は終わってるし、演奏だけなら問題無く梓に贈れるはずだ。
でも、歌はなー……。
私はライブでコーラス以外で歌った事が無い。
ボーカルは澪と唯に任せっ切りだったし、
自分がボーカルを担当する歌を作ろうとも思わなかった。
別にそれに不満も疑問も無かったし、それでいいんだって思ってた。
だけど、梓に贈る歌の練習を始めた瞬間、唯が急におもちゃのマイクを向けた。
何の相談も無く、何の疑問も無く、とても自然に私にマイクを向けていた。
澪もムギもその事に対して、不思議に思ってなかったみたいに見えた。
皆、私も歌うのが自然だって思ってたんだ。
思ってくれてたんだ。
出来る事なら私だってそうしたい。
でも、私には歌の実力も経験も全然足りないんだ、って感じてる。
ボーカルをやってくれてた澪や唯は勿論、
一曲だけメインボーカルを務めた事があるムギの歌声も見事で綺麗だった。
そんな皆の中に私が混じってもいいのかな、ってどうしても思っちゃうんだよな。
梓に贈る大切な曲を失敗させちゃうんじゃないかって、……さ。
「うん、まだまだだな」
意外にもあっさりと澪は私の疑問に応じた。
はっきり言うなよー、とはちょっと思ったけど、何となくそれが嬉しかった。
うん、やっぱり私の歌声はまだまだなんだよな。
それを自覚させてくれただけでも、澪はいい奴だ。
少しだけ落ち込んで、少しだけ肩の力が抜けたのを感じながら、私は逸らしていた視線を澪の方に戻した。
「まだまだだぞ、律」
また手厳しい事を澪が言ってくれる。
でも、視線を合わせた澪の顔は優しく微笑んでいた。
私と二人きりの時、ごくたまに見せてくれる優しい笑顔だった。
いつの間にか私も軽く笑顔になりながら返していた。
「ひっでーな、澪。
私だって、まだ歌の練習を始めたばっかりなんだぜ?
もうちょい優しい言葉を掛けてくれたっていいんじゃないか?」
「そうしたいのは山々なんだけどさ、卒業式まであんまり時間が残ってないだろ?
ビシビシスパルタ方式でやらせてもらうぞ?
大体、歌の練習を始めたばっかりって言うんなら、
一年の学祭の頃の私だって同じ状況だったんだからな?」
「あー……、確かにあれはそうだったな……。
学祭の三日前に唯が喉を嗄らしちゃったんだよなー……。
それから澪の歌の練習が始まったわけだし……。
今、考えると、あれはちょっと無茶させ過ぎだったかもな。
あの時はお世話になりました、澪しゃん……」
「やっと分かってもらえて嬉しいよ、律。
それに比べれば律の場合はまだ時間もあるし、
私達も一緒に歌うわけなんだから多少は気が楽じゃないか?」
「どう……かな……?」
私は呟いてから考えてみる。
澪の言ってる事は全面的に正しい。
二年前の澪の状況に比べれば、私は相当恵まれてるって言ってもいいだろう。
だけど、そう考えても、全然気は楽にはならなかった。
観客は梓一人なのに、学祭とは比べ物になんかならないのに、私は緊張しちゃってる。
学祭より、梓一人に贈る曲を演奏する事に緊張しちゃってるんだ。
梓は大事な後輩だから。
生意気で私の事を敬ってる様子も一切無いけど、だからこそ、大事にしたい後輩だから。
梓には安心して高三の生活を楽しんでほしいから――。
不意に。
澪が笑顔で私の手を取って、着けていた手袋を外した。
そのまま自分の胸元に私の手を置かせる。
澪の大きな胸の柔らかさを感じる。
勿論、澪は私に自分の胸を触らせようとしたわけじゃない。
正確には澪の左胸の鎖骨寄りの方――、
心臓がある位置に私の右の手のひらは置かれていた。
澪の心臓は今の私より――
ずっと早い速度で動いていた――。
「すっごくドキドキしてるだろ?」
心臓を物凄い速度で動かしながらも、澪は笑っていた。
私だったら、息をするのも辛いくらいの鼓動のはずなのに、
それでも――。
「私だって同じだよ、律。
梓に贈る曲の事を考えるとさ、
今までやって来たどのライブよりも緊張しちゃってるんだ。
やっぱり梓には何の心配も無く進級してほしいもんな。
そのためにもいい曲を贈って、笑顔で卒業式を終わりたいもんな。
だからさ、不安ならもっと練習しようよ、律。
勿論、練習には私も付き合うから。
一緒に出来る限り精一杯の練習をしよう?
梓のためにも――、やり残しなく私達が卒業出来るためにも――」
澪はとても優しい笑顔を見せる。
私と同じくらい――、いや、私以上に緊張してるくせして――。
でも、そうだよな……。
澪は恥ずかしがり屋で怖がりで赤面症で、
だからこそ、誰よりも緊張や不安をずっと目前にしてたんだよな。
不安以上の――、勇気を持てるんだよな――。
だったら――、
私はここで緊張してるわけにもいかないよな――!
「また胸がでかくなりやがったなー、澪」
「……えっ?
えっ? いや、そんなつもりじゃ……!
ただ私は自分の心臓の鼓動を律に知ってほしくて……!」
私が軽口を叩いて意地悪く笑ってやると、澪が顔を真っ赤にさせた。
ははっ、こんな時でも、恥ずかしがり方は変わらないな。
何だかそれが嬉しい。
私達はもうすぐ卒業する。
これから色んな事が変わっていくのかもしれない。
でも――、
とりあえず今は、私達は変わらず私達のままだ――。
「真面目な事を言ってる時にふざけるなよ、律ー!」
「あははっ、悪い悪い。
分かってるって。私ももっと練習しなきゃな!」
澪が拳を振り上げて、私に拳骨を落とそうとする。
すかさず私は澪から離れて、軽く駆け出して行く。
胸の鼓動は相変わらず鳴り止む気配が無い。
でも、さっきまでより、多少は落ち着いてその鼓動を感じられた。
ありがとう、澪。
面と向かって言った事はそう無いけど、でも、ありがとな。
歌声に自信が無いんなら、緊張で震えが止まらないんなら、
『練習しよっ、それしか無いわ!』だもんな。
私以上に臆病な澪は、いつもそうやって色んな事を乗り越えて来たんだから――。
「……あっ」
澪の拳骨から少しの距離を逃げた頃、私は急に足を止めた。
すぐに澪も追い付いて来たけど、私に拳骨を落とす様な事はしなかった。
私が急に足を止めた理由が気になってるんだろう。
澪は少しだけ不安そうな表情を私に向けて訊ねた。
「どうしたんだ、律?
何かあったのか? ……唯の家に忘れ物をしたとか?」
「何かあったって言えば、確かにあるな。
いや、忘れ物をしたわけじゃないけどさ」
「えっ?」
澪が外したまま持っていた私の手袋を受け取ってから、私は澪の左手を強く右手で掴んだ。
突然の事に澪がまた動揺した表情を見せる。
だから、私は澪に笑い掛けてみせた。
別に澪が不安になる様な事を思い付いたわけじゃなくて、
単に懐かしくなっただけなんだ、って事を伝えるために。
「ここさ、ちょっと懐かしい場所じゃないか?
結構暗くなって来ちゃったけど、少しだけ私に付き合ってくれよ」
「懐かしい……?
あっ……、そう言えば……」
澪も私に言われて辺りを見回して思い出したらしい。
さっきまでの不安そうな表情は崩れて、笑顔になった。
今までの優しい笑顔とはまた違った、子供の頃みたいな可愛らしい笑顔に。
駅と私達の家の中間地点にある小高い丘みたいな山。
それが私――、いや、私達の懐かしい場所だ――。
最終更新:2013年02月11日 22:37