唯の言葉に私は即座に頷いた。
ここで言う唯の『変態さん』は露出狂という意味だろう。
露出狂の変態は長いコートや白衣の下に全裸の肉体を隠している。
当然ながら、下着も何も着用せずにだ。
肉体の様々な部分が厚い生地に擦られる痛みを気にせずに……。
純粋に凄い事だと思う。
自分の歪んだ快楽のためとは言え、私にはそこまで出来る自信が無い。
と。
「おいおい、二人して何沈んだ顔してるんだよ」
不思議と元気そうな澪の声が聞こえた。
私と唯は澪の方に視線を向けてみて、思わず苦笑してしまった。
誰かがやるとは思っていたけれど、まさか澪が真っ先にやるとは思っていなかった。
他にもYシャツやダッフルコート、柔道着などの色んな衣装があるのに、澪はそれを選んだのだ。
エプロンを。
うん、エプロンをね。
勿論、エプロンの下は澪も全裸だ。
俗に言う裸エプロンだった。
誰に言われずとも真っ先にその恰好を選んだという事は、
つまり、律に見せたい一番の恰好が裸エプロンだという事なのだろう。
夫婦漫才と称される事の多い律と澪だけど、
まさかその内の片方が既にお嫁さんのつもりだったなんてね。
「変……かな……?」
私達が苦笑した事を不安に思ったらしく、澪が暗い声を出して目を伏せる。
澪の中では会心の出来だったのかもしれない。
唯が戸惑った表情で、澪の両肩に手を置いて目を合わせた。
「そ、そんな事無いよ、澪ちゃん!
裸エプロンは男の人の夢って聞いた事があるし!
りっちゃんもきっと喜んでくれる……かな……?」
言葉の最後で唯が私に顔を向けた。
だけど、向けられても困るわ。
裸エプロンは男の人の夢かもしれないけれど、残念ながら律は男の人じゃない。
むしろ女の子らしい所を多く持った子だと言えるだろう。
まだ一年少しの付き合いだけれど、
たまに見せる律の笑顔は間違いなく可愛らしい女の子だった。
大雑把で適当に見えるけれど、律も女の子なのだ。
そんな律が澪に限らず誰かの裸エプロンを喜ぶものなのかしら……?
喜ばない気がするわね……。
「なあ、それにしても、和……」
澪が純粋な疑問の表情を浮かべて首を傾げた。
私はとりあえず自分の疑問を捨てて、澪の疑問に向き合う事にした。
「どうしたの、澪?」
「あ、うん、ちょっと疑問があってさ……。
男の人ってどうして裸エプロンで喜ぶんだろう?
セクシーな恰好だって事は分かるんだけどさ、
それなら最初から真っ裸の方が男の人は興奮するんじゃないか?
結局、裸が一番見たいわけなんだからさ」
「それは難しい問題ね……。
私にも完全に理解出来ているわけではないけど、こういう話を聞いた事があるわ。
男性は視覚的な性的興奮に弱く、女性は概念的な性的興奮に弱いらしいの。
読む人が居ないというわけではないけれど、女性で成人向け雑誌を読む人は少ないでしょ?
それは女性の性欲が弱いからではなくて、視覚的な性的興奮に食指が向かないかららしいの。
逆に男性は視覚的な性的興奮が大好きだから、
視覚的な物に様々な工夫を凝らすんじゃないかしら。
裸エプロン、エロティックなコスチューム、穴開きのショーツなんかにね」
「な、なるほどな……」
澪がまだ分かってない様子で首を傾げながら、私も一緒に首を傾げた。
私だって男性の事を深く分かっているわけではないものね。
でも、そんな風に男の人は女の人とは全然違うけれど、
それを理解出来ないと悩むよりは、多少なりとも学んでおくべきでしょうね。
「ねえねえ、だったらこの恰好は男の人に人気出るかなあ?」
不意に唯が場にそぐわないお気楽な声を上げた。
肩を竦めて視線を向けてみると、
いつの間にか白衣を脱いでいた唯が楽しそうに両手でピースサインをしていた。
私のスクール水着を着用して。
私は若干呆れた表情を浮かべながら、唯に向けて呟いてみる。
「人気はそれなりに出るでしょうけど、あんたどうして水着を着てるの?
裸のコスプレ大会じゃなかったの?」
「裸だよ?」
「……?」
「だから、ほら、水着の下は裸でしょ?
これこそ究極の裸のコスプレだよ!
裸エプロンに対抗した裸スクール水着だよ!」
ふんすっ! と唯が鼻息を荒くする。
スクール水着を裸で着用するのは当然なんだけど……。
そう私が言おうとした瞬間、唐突に澪がその場に倒れ込んだ。
熱中症で倒れたのかと思って、
その肩を叩こうとした瞬間、澪の押し殺した声が私の耳に届いた。
「ぷっ……くくっ……。
裸スクール水着……ぷくくっ……、当たり前の事なのに……。
くくくく……っ、あはははははははっ!」
最後には大笑いになっていた。
どうやら澪の笑いのツボに入ってしまったらしい。
笑い所がよく分からない子だけれど、
もしかしたら、その辺も律の教育の賜物なのかもしれないわね……。
昔は笑顔もそう見せなかった子だと聞いた事があるし……。
それからしばらくの間、澪は痙攣するみたいに笑い続けていた。
唯もそんなに受けるとは思っていなかったらしく、
戸惑った表情で私に助けを求めていたけれど、
放っておくのが一番だと諭して、二人でドクダミ茶を飲んで時間を潰した。
笑い終わったら、プーアル茶でも飲ませてあげる事にしよう。
∴
「それじゃ、今日は私が怖いと思う話をするわね。
前回お休みさせてもらった分、ちゃんと怖い話を仕入れて来たから安心して」
「そういえば、和の怖い話を聞くのは初めてだな……。
一体、和はどんな怖い話をするんだろう……」
「ふっふっふ、覚悟しといた方がいいよ、澪ちゃん。
和ちゃんの怖い話は、いつも冗談にならないくらい現実的に考えて怖い話だよー?」
「げ……、現実的に怖い話なのか?
私、そっちの話も苦手だ……。
幽霊やお化けの話なら普段意識しなきゃいいんだけど、
現実的に怖い話って事は日常生活の中で起こり得る怖い話って事だろ?
そんな話を聞いたら、つい意識しちゃうようになっちゃうじゃないか……。
和って……、意外と人を追い詰める事が得意な奴なんだな……」
「そうだよー?
和ちゃんは怖い子なんだよおー?
澪ちゃんも二年の残りの二学期と三学期、
和ちゃんに追い詰められないように気を付けるようにしなよー?」
「随分な言われようね……。
まあ、別に構わないけれど。
それじゃ私、今から仕入れて来た怖い話をするわね。
二人とも、冬虫夏草の事を知っているかしら?
冬の間は虫なんだけど、夏になると植物になってしまう摩訶不思議な生物の事よ。
私も最近知ったんだけど、あれはキノコとかの菌類が昆虫の幼虫に寄生し、
成長になるために幼虫が蓄えたその養分を利用して、菌糸を成長させる寄生植物らしいのよね。
植物ともまた少し違うけれど。
寄生生物が一番正しい呼称になるかしら?
寄生生物……。
他の生物の養分や行動を利用して成長、増殖、進化、分布をする生物の事ね。
その中には元々は外の世界で自由に生きていた生物も多かったらしいわ。
最初こそ人の世界で生きていたけれど、
他の生物に寄生する方が効率がいい事に気付いて、寄生生物になったらしいのよ。
それもその寄生生物の選択肢だったんでしょうね、苛烈な生存競争を生き延びるための……。
寄生される事には私だって流石に抵抗があるわ。
自分の中に得体の知れない生物が存在していて、
その生物に自分の内臓や養分を利用されているなんて、嫌な気分にならない人はいないと思うわ。
でも、寄生生物も、種類によっては私達の役に立っている種類も多いわ。
例えば寄生生物とは少し違うけれど、二人ともミトコンドリアの事くらいは知っているわよね?
真核生物の細胞に含まれる細胞の器官の事よ。
実はね、ミトコンドリアは正確には細胞の器官ではないらしいの。
遥か昔、真核生物の細胞がミトコンドリアと共生する事を選択して、
それ以来、私達は様々な系統に進化する事が出来るようになったらしいのよ。
何故かと言うと、真核生物の細胞は単独では上手くエネルギーが生産出来ないからなの。
その点、ミトコンドリアはエネルギーの生産に優れた構造を持っていた。
だから、細胞とミトコンドリアは共生を始めたのよ。
ある意味、最初の寄生生物と言ってもいいでしょうね、お互いに。
そのミトコンドリア以外にも、私達は様々な細菌や微生物と共生してるわ。
私達の身体は私達だけで保てているわけではないの。
それはもう寄生と言うよりも、共生と称しても問題無いでしょうね。
だけどね、共生と呼べない、呼びたくない関係性の寄生生物も多数存在しているわ。
サナダムシやカイチュウもそうだけれど、冬虫夏草なんかもまさにそうでしょうね。
これらの寄生生物は確実に片方を利用しているだけと言っても過言ではないわ。
特に私が一番恐ろしいと思うのは、ロイコクロリディウムね。
あんた達もテレビで一度くらいは観た事があるんじゃないかしら?
ロイコクロリディウムはカタツムリに寄生する寄生虫の名前よ。
この寄生虫のする事は寄生なんて生易しいものではないの。
ロイコクロリディウムはね、カタツムリの脳を操作する事が出来るらしいのよ。
勿論、脳を操作すると言っても、完全に意のままに操作するわけじゃないわ。
カタツムリは鳥に捕食されないために暗い所を好むけれど、明るい所を好むように脳を操作するの。
する事はそれだけだけれど、ロイコクロリディウムにはそれで十分なのよね。
何故ならこの寄生虫の目的は、カタツムリを鳥に捕食させる事で、
カタツムリに寄生するよりも遥かに広範囲で自らの種を分布する事なんだから。
宿主に寄生するどころか、宿主の命すらも利用して自らの種を反映させる……。
まさに最も怖い寄生虫の一種と言えるでしょうね。
ねえ、唯、澪?
突飛な考えだけど、ここで想像してみてくれるかしら?
人間……、ヒトに寄生して、思考を操作する寄生生物が存在していたとしたら?
自分の意思で行動しているつもりが、体内の何物かにその思考を操作されているとしたら?
もしそんな事が現実に起こっていたとしたら……、この世界はどうなってしまうのかしらね……?
ひょっとしたら、今こうして話している私ですら、寄生生物に操作されている可能性も……。
これで私の思う怖い話は終わりよ」
「う……、うわあ……。
和ちゃんったらまた現実的に怖い話をしてくれるよね……。
寄生虫怖いよう……、下手に食べ物を食べられなくなっちゃうよう……」
「そうよ、唯。
寄生生物は怖い物なのよ。
だからこそ、将来ニートになんてならずに、両親に寄生しないよう頑張るのよ」
「寄生虫の話のはずがいつの間にかまたお説教になった!
和ちゃん、怖いよ……。
何でも私のお説教に繋げて話をする和ちゃんは本当に怖いよう……!」
「なるほど、そういう意味で和の話は怖いのか……。
私も今度同じ話で律にお説教してみようかな……」
「お説教好きがまた増えちゃったっ?」
∴
【ひきこもりの末期】
お昼過ぎ。
私達は扇風機の風に当たりながら、汗まみれでテーブルの上に寝込んでいた。
何か特別な事があったわけではなく、
単に今日がこの夏最大の猛暑日だったというだけの話だ。
テレビの天気予報の話だと、軽く三十五℃は超えるらしい。
暑さにそんなに弱いつもりはないけれど、
三十五℃を超える気温を密閉された空間で感じるのは流石に辛い。
「あっついねー……」
唯が冷凍庫の製氷機で作った氷で自分の頬を冷やしながら呟いた。
涼しくなるにはいい方法のように見えたけれど、実はそうでもなかった。
氷が溶ける度に冷凍庫に取りに行かなければいけないから、
その労力を考えるとあまり利口な方法とは言えないんじゃないかしら。
勿論、他に涼しむ方法があるわけでもないのだけれど。
正直、そろそろクーラーを使ってもいいんじゃないかとも思う。
でも、実は唯と澪には一つだけ言っていない事がある。
私の家のクーラーって壊れてるのよね……。
壊れて以来、扇風機だけの生活に慣れていたから、すっかり忘れていたけれど。
クーラーが壊れている以上、クーラーに頼る生活を送る事も出来ない。
扇風機だけでこの猛暑を乗り切るしかないのよね、結局……。
「でも、猛暑のおかげでダイエットの心配はしなくていいよな。
唯はいくら食べても太らない体質らしいけど、私としては助かるよ。
夏痩せだけが私の夏の楽しみなんだよな……」
気に入ったのか、澪がドクダミ茶を飲みながら軽く笑った。
そうとでも思わなければ、この猛暑を乗り越えられないというのもあるかもしれない。
だけど、それ以上に本当に喜んでいるようにも見えた。
豊満な乳房を持っている事だし、自分の体重についてかなり気にしているのかもね。
形はどうであれ、澪が前向きになれているのはいい事だと思う。
けれど、私は気付いてしまった。
澪の二の腕やお腹の周辺が、私の家に来た当初より膨らんで来ているという事が。
当然だけれど、妊娠と言うわけではない。
妊娠するような事をしたわけでもないでしょうし、
何より前に念の為確認してみた時、生理は私の家に来る四日前に終わったと言っていた。
つまり、生理周期的に妊娠はありえない。
という事は……。
正直、この事実を澪に伝えるべきか迷った。
この事実を知ってしまったら、澪は深い絶望に陥ってしまう事だろう。
猛暑を乗り越える気力すら失ってしまうかもしれない。
澪にとっては残酷過ぎる現実よね……。
けれど、私は澪にこの事実にして現実を伝える事に決めた。
いつかは分かってしまう事だし、やり直すなら早い方が澪としても望む所だろう。
私は二度大きく嘆息してから、お風呂場から体重計を持ち出して居間の床に置いた。
床に平行に置いて、目盛りをちゃんと正常な状態に直す。
「……何をしてるんだ、和?」
事態を呑み込めていないらしい澪が首を傾げて私に訊ねる。
その表情にはまだ少し微笑みが残っていた。
きっと自分の夏痩せを期待して、最近体重計にも乗っていなかったのだろう。
このひきこもり生活が終わった時、どれくらい痩せたのかを実感するために。
でも、それは……。
「ねえ、澪、最近体重計に乗ってないんじゃないの?
折角だし、夏痩せの結果を確認してみましょうよ」
「夏痩せの結果……か。
本当はこの生活が終わってから確認したかったんだけど、そうだな。
今後の方針を決めるためにも、体重の確認くらいしておいた方がいいよな……。
分かったよ、和、久し振りに体重を計ってみる。
あ、恥ずかしいから体重計は見ないでくれよな?」
「了解よ、澪。
私も唯も目を閉じておくから、確認してみてちょうだい。
どれくらい変わったのかだけ教えてもらえれば十分よ」
言い様、私はテーブルの上に横たわる唯の目元を手で押さえる。
その後、私自身の目元も眼鏡の上から隠した。
私の動きに安心してくれたのか、
すぐに澪が体重計に乗ってくれる音がした。
これで……、よかったのよね……。
「な、なななななななな、何でっ?」
数秒後、予想通りの澪の叫び声が室内に響いた。
やっぱり、真実は澪にとって非常に残酷だったらしいわね……。
私は唯と自分の目元から手を離すと、
驚愕の表情で体重計の目盛りを見つめる澪の肩に手を置いた。
「澪」
私の声に気付いた素振りも見せず、澪は呆然と体重計の目盛りを見つめ続けていた。
大きく息を吸い込んで、私はもう一度澪の耳元で「澪」と囁く。
それでやっと私の存在に気付いたらしく、泣き出しそうな表情で私の方に視線を向けた。
「こ、ここ、これは何なんだよ、和っ?
どうしてなんだ?
どうして体重が減るどころかこんなに……っ!
そ、そうか……!
和が体重計に何か細工をしたんだな? したんだよな?
はっははは……、いやだなー、和。
こんな事されたらびっくりするじゃないのよ、もう!
びっくりするから、こういう冗談はやめてほしいわよ、和」
あまりに衝撃的だったのか、普段の口調も見失ってしまっているようだった。
残酷だと思ったけれど、私はそれに首を横に振る事で応じた。
「違うわよ、澪。
体重計から降りて、ちゃんと目盛りを見てみなさい。
何処にも細工されてないし、細工しようもないでしょ?
それがあんたの今の体重なのよ、澪……。
現実から目を逸らしても、何かが好転するわけではないわ」
「で、でででで、でもっ……!
あ、あんなに汗掻いたのに……、夏痩せの効果が出てるはずなのに……!」
「残念だけど、澪は夏痩せについて一つ大きな誤解をしているわ。
夏痩せというものはね、現実には存在しないのよ。
汗を大量に掻くから、痩せているような気がしてしまうだけなの。
サウナと同じと言えば分かるかしら?
水分を大量に失うと人体の体重は確かにあっという間に減るわ。
けれど、人体は同じくらいあっと言う間に水分を吸収してしまうの。
体重だってあっという間に元通りなのよ。
そこにダイエット初心者の陥りがちな失敗があるって聞いた事があるわ。
夏は大量の汗を掻いてしまう。
汗を大量に掻くから、ちょっとくらい多めに食べても大丈夫のはず。
体力を付けるためにも、水分をたくさん取って、スタミナ料理も食べておこう……。
そうして過剰に摂取されたカロリーは、脂肪として人体に蓄えられていくのよ。
現実に夏に痩せる人も居るけれど、それは夏の暑さで汗を掻いて痩せたわけではないの。
単に夏バテで食欲を失って、結果的に体重が減ってしまっただけの話なのよ。
澪は私の家で汗こそ掻いていたけど、
直射日光を浴びてないからか、夏バテはしていなかったでしょ?
失った水分もお茶を飲んで補給していたし、ごはんもきちんと食べていたわ。
だからね、澪。
認められないかもしれないけれど、その体重計の目盛りは現実なのよ……」
「そんな……っ」
私に言われるままに体重計から降りた澪が、
何の細工もされてない体重計の目盛りを見ながらうつ伏せに崩れ落ちた。
一縷の望みすら失ってしまった澪の衝撃はどれくらいなのだろう。
私もそう体重が増えた事が無いから、澪の苦しみを完全には分かってあげられないと思う。
こんな時、私は澪に何をしてあげる事が出来るのだろう……。
刹那。
唐突に澪がうつ伏せの姿勢から仰向けの状態になると、
頭に両手を回してから膝を立てて、物凄い速度で腹筋運動を始めた。
「や、痩せなきゃ……!
律に会う前に少しでも痩せておかなきゃ……!」
鬼気迫る表情で澪の腹筋運動は続く。
絶望に陥るだけでなく、改善に向けて行動出来ているのは何よりだけど、
澪の今の行動は、物凄い勢いの腹筋運動のやり方は、大きく間違ってしまっていた。
それを指摘するべきだったのだろうけれど、私にはそれが出来なかった。
呆然と澪の動きを見守る事しか出来なかったのだ。
「す、凄いね……」
傍から澪の行動を見ていた唯も呆然とこぼしていた。
今回ばかりは私も唯と同じ意見だった。
この澪の動きは凄過ぎる。
具体的に言うと、澪の乳房の動きが凄過ぎる。
まさに千差万別の動きで縦に横に大きく揺れていたのよね。
元々乳房の大きな子だと思っていたけれど、
ブラジャー無しで動かすとここまで大胆に揺れる物だったなんて……。
頭の悪い表現だけれど、ぶるんぶるんぶるん、と言う音が聞こえて来そうだ。
これが俗に言う巨乳と言う物なのね……。
数分、唯と二人で呆然と澪の乳房の動きを見守っていると、
不意に澪がその場に胸元を押さえて倒れ込んだ。
急激な運動で体力を使い尽くしてしまったのかと思ったけれど、そうではないみたいだった。
胸元を押さえながら、澪は辛そうな表情で呻くように呟いていた。
「に、肉離れ……。
胸の下と間が……、肉離れを起こした……」
「ええーっ……」
呆れたのか、それとも羨ましかったのか、唯がとても複雑な表情で小さく言った。
私も何とも言えない気分で、苦しむ澪に駆け寄る。
乳房の肉離れ。
乳房の大きな子には起こりがちな症状だと聞いた事がある。
筋肉で自在に動かせる部分ではないだけに、肉体を操作し切れず肉離れを起こしてしまうのだ。
スポーツブラの存在理由も、その点が大きいらしい。
乳房を揺らし過ぎる事は、女性にとって大きな負担になってしまうのだ。
「言うのが遅れてしまったけれど、無理をしたら駄目よ、澪。
特にダイエットには継続した運動が必要なの。
そんなハイペースで運動を行っても、筋肉が付くだけでダイエットには繋がらないわ。
協力するから、落ち着いて運動なさい。
ね?」
「う、うん……、分かったよ、和……。
でも、とりあえず、悪いけど今は肉離れを何とかして……」
「分かったわ」
とは言ってみたものの、私も乳房の肉離れの対処法を知っているわけじゃない。
肉離れした時の一般的な治療法と言えば……、そうね……。
結局、私は澪の乳房の肉離れの症状が軽くなるまで、
唯に見られながら澪の乳房の周辺を揉み続ける事しか出来なかった。
「変な光景だね……」
「それは思っていても黙ってなさい、唯」
唯の言う事はもっともだったけれど、
私はそれを気にしないように澪の乳房を揉み続けた。
救いと言えば、澪が変な反応をする事が特に無かったという事かしら。
一般的に誤解されがちではあるみたいだけれど、女性の乳房に性感帯はほとんど無い。
くすぐったさこそ感じる事はあるけれど、逆に言えばそれ以上の感覚は無いのだ。
私も何度か自分の乳房を揉んだ事はある。
でも、たまにくすぐったいと感じただけで、それ以上の感覚は湧き上がって来なかった。
澪の特に何も感じていない様子を見る限り、やはり私が異常というわけではなかったらしい。
よかった……。
ちょっと不安だったから、結構色んな本で調べたりしてたのよね……。
それで逆に変な知識が増えてしまった事もあったのだけれど……。
とにかく、その日はそれから澪のダイエットに付き合った。
律が細身な方だけに、澪も律に相応しい体型を保ちたいのでしょうね。
それにしても、このひきこもり生活が終わって、
律の姿を目前にした時、澪は一体どんな反応を見せるのだろう。
その日が楽しみ……なのだけれど、……あら?
お父さんとお母さんが帰って来る日っていつだったかしら?
確かもうすぐ帰ってくるはずだけれど、そもそも今日は何日の何曜日だったかしらね……?
∴
「私の怖い話の番だよね!
うーん……、どの話にしようかな……。
そうだ、これにしようっと!
ねえねえ、澪ちゃん、和ちゃん、二人は夜って怖いと思う?
私は半々かな?
夜だから楽しい事もあるし、夜だから怖いって思う事もあるし……。
でも、夜ってやっぱり怖い所もあるよね。
暗いし、静かだし、変な空気を感じる事もあるし、
茂みなんか見かけると、裏に何かあるんじゃないかって思っちゃうもん。
暗い夜の時間には、何かが居そうな気がするんだよね……。
今から話すのは、そんな夜の時間に起こった話なんだ。
去年の合宿でムギちゃんの家の別荘に泊まった夜にね、
皆で布団を並べて寝てたんだけど、私ね、急に目が覚めちゃったんだよね。
何でかは分かんないんだけどね。
おしっこに行きたくなったわけじゃないし、
暑苦しかったわけでもないし、本当に何でか急に目が覚めちゃったの。
しかも、妙に目が冴えちゃってて、
もう一回目を瞑っても、全然眠くならなかったんだ。
仕方が無いから、買い置きしておいたジュースでも飲もうかな。
って思って起きようとしたんだけど、その時になって初めて気付いたんだよね。
私の身体が全然動かないって事に。
これって金縛りって言うんだよね?
私、金縛りなんて初めてで、びっくりしちゃったんだけど、
でも、金縛りって単に自分の身体が動かなくなるだけだよね?
だから、別に他に怖い事も無いし、すぐに退屈しちゃったんだ。
早く終わらないかな、って心の中でずっと思ってたくらい。
それから十分くらい経った頃かな?
そろそろ本当に退屈になって来たし、
このまま目を瞑って寝ちゃおうかなって思った時、目の前に急に変な乗り物が出て来たんだ。
ううん、乗り物なのかどうなのかは分かんないんだけど、とにかく居たの。
UFOみたいな形で、光りながらふわふわ飛んでる二十センチくらいの何かがね。
宇宙人の乗り物なのかな?
って、不思議と怖い気分にもならないで、
そのUFOを見てたんだけど、急に私のおでこの上に降りて来たの。
それは別に痛くなかったからよかったんだけど、驚いたのはその後なんだ。
UFOの中からね、降りて来たんだよ、小さな生き物が。
ちょっとだけ宇宙人かと思ったけど、そうじゃなかったんだ。
私、びっくりしちゃった。
だって、そのUFOの中からね、
私と憂にそっくりな顔をした二人の小さな女の子が降りて来たんだもん。
その二人は五センチくらいの大きさで、
ミニチュアサイズの私のお気に入りの服を着てたの。
和ちゃんも知ってるでしょ?
ハネムーンって書いてあるあのシャツだよ。
憂にそっくりな方はアバンチュールってカタカナで書いてあったな……。
私、何が起こってるのか分からなくて、
凄く不安になって来たんだけど、その子達が私の鼻の頭に立って笑顔で言ったの。
「大丈夫だよ、すぐに直してあげるからね。
ちょっと故障してるだけだから、心配しなくてもいいよ」って。
最終更新:2013年02月20日 22:41