「うー……、さみー!」


凍えるような冬の風に吹かれて、私は思わず叫ぶみたいにこぼしてしまっていた。
二月も下旬になったってのに、相変わらず手袋を付けてマフラーを巻いてもまだ寒い。
久し振りの地元だけど、寒波は私に容赦してくれなかった。
冬は寒いのが当たり前。
なんて前に誰かに(聡だっけ?)自分で言った気もするけど、分かってても寒いものは寒いんだよな。


「母さんもここぞとばかりにお使い頼むんだもんなー……」


寒さにやられちゃって、ちょっとだけ愚痴をこぼす。
大学一年の試験も全部終わって、バイトのシフトも丁度空いてて、
ちょっと時間が出来たから何となく帰省してみるか、と家に帰ってみたのが運の尽き。
久々に見る娘の顔を懐かしむ様子も無く、母さんは毎日私にお使いを頼んで来る様になった。


『どうせ宿題も無くて暇なんでしょ?
働かざる者、食うべからず。帰省してる間はお使い当番ねー』


とは母さんの言い種だ。
確かに暇は暇なんだけど、体良く使われてるだけの気もするぞ……。
まあ、家事をやる事自体は、結構好きな方なんだけどさ。
面倒臭くはあるけど、聡や母さんが私の料理を美味しそうに食べてくれるのはやっぱり嬉しいし。
特に最近は成長期なのか、聡の奴がとんでもない量のごはんを平らげやがるからなあ。
いくら作っても足りなくて、でも、美味しそうに食べてくれちゃって、
それが姉冥利に尽きると言うか何と言うか……で、私って意外と専業主婦向きだったりして。


「……なんてな」


つい自分で自分に乗り突っ込み。
専業主婦なんて、我ながら似合わない想像をしちゃったもんだ。
就職してる自分の想像なんてまだ全然出来ないけど、
少なくとも専業主婦だけはどうやったって私には似合わないよな。
勿論、働くって事がどういう事なのか、今の私にはまだよく分からない。
でも、折角働くんだったら、バリバリ働ける女になってやりたい気もする。
それが音楽関係の仕事だったら万々歳なんだけどな。

それにしても、就職かー。
もうすぐ二年に進級する事だし、そろそろ考えなきゃいけないんだろうか?
私の事はともかくとして、澪達は就職についてどう考えてるんだろう?
皆揃ってミュージシャンになれるといいんだけど、
澪達だってそれ以外の未来を想像してなくもないはずだしな。


澪――。
澪はどんな職業に就きたいんだろう?
小学生の頃には『夢はりっちゃんのお嫁さん』って言うような奴だったけど、流石に今は違うよな?
と言うか、今も同じだったら色々と困る。
何で私が澪の旦那さんにならなきゃいけないんだっつーの。
私だって一応女なんだから、旦那って立場は勘弁してほしい。

……まあ、それはおいといて。
うーん……、やっぱり澪が働いてる姿なんて想像出来ないな。
いや、澪だけじゃない。
唯やムギ、菖や幸、晶達にしたってそうだ。
皆、何処かで働いてる姿なんて全然想像出来ない。
もうほんの数年先には就職してるはず(……出来るよな?)なんだけど、少なくとも私にとっては遠い未来だ。
そんな先の事なんて、考えようって思う事すら出来ないよ……。
本当はもっと考えてみるべき事なのかもしれないんだけどな……。

それでも、一つだけ言える事がある。
それは私達の誰にも専業主婦なんて似合わないって事だ。
私は勿論、唯や澪、恩那組の皆も専業主婦なんて柄じゃない。
強いて言えば、ムギが専業主婦に似合うかもしれないけど、何だかそれも違う気もする。
ムギはああ見えて積極的で、色んな事に挑戦する奴だもんな。
きっと専業主婦に納まらず、私達が驚くような仕事をやっちゃうはずだ。

私の周りで専業主婦に似合いそうなタイプって言ったらそうだな……。
しっかりしてる和――もちょっと違うか。
お母さんはお母さんなんだけど、バリバリのキャリアウーマンになりそうだもんなあ、和は。
私のイメージするお母さんとはちょっと違うかもな。
となると、私の知り合いの中で一番、専業主婦って言葉が似合いそうな子は――。


「居るじゃん」


その子の顔を思い出して、私はつい笑顔で呟いてしまう。
そうだ、確かに居る。
考えてみればみるほど、その子は主婦と言うかお母さんの鑑みたいな子だった。
その顔がすぐに浮かばなかったのは、その子が年下だったからだ。
年下をお母さんとしてイメージしてみろ、ってのは流石にすぐには無理な話だよな。
だけど、一度思い浮かべてみると、もうその子の事をお母さんっぽいとしか考えられなくなった。
唯がその子に世話されてる光景は何度でも目にして来たわけだし、
かく言う私もその子にはかなりお世話になってるわけだしな。
そういや唯の奴、私と同じ時期に帰省する事になってたけど、何か言ってなかったっけ……?


「何だったっけか……?」


どうにも唯の言葉が気になり始めた私は、
傍にあった公園のベンチに買い物袋を置いてから腕を組んで首を傾げる。
肌寒い風が吹いてはいるけど、丁度木陰で風除けにもなるから落ち着いて考えられそうだ。
えーっと、何だったっけ……?
唯の奴、妙に嬉しそうで『お姉ちゃんとして頑張らなきゃ!』って鼻息を荒くしてて……。
確か、そう……、『特別な日』とか言ってたんだよな。
『特別な日』って言えば……。

もう少しで思い出せるはず――。
私がそうやって頭の中の微かな記憶を辿っていると、突然――。




「こんにちは、律さん、お久し振りです」


「……えっ?」


不意に聞き慣れた声が耳に届いて、私は小さく呟いてしまっていた。
この声は丁度、私が考えていた子の声だ。
私はちょっと驚いて、声がした方向に視線を向ける。
当たり前だけどその方向には私の見知った顔があって、
瞬間、私の中で思い出そうとして思い出せないでいた記憶がはっきり形になった。


「あーっ!」


私の叫び声にその子が驚いたような表情を浮かべる。
私としても叫ぶつもりは無かったんだけど、気が付けば叫んでしまっていた。
しまったなあ……、すっかり頭の中から抜け落ちてた……。
いや、ひょっとしたら、私は考えないようにしてたのかもしれない。
だって、今日は憶えてても私に出来る事がほとんど無い日だから。
唯達にとっては『特別な日』でも、私が何かするのはちょっと変な日だから。
だから――、私はわざと唯の言葉を聞き流していたのかもしれない――。


「ど……、どうしたんですか、律さん?」


突然の私の行動にその子が動揺した素振りを見せる。
滅多に見る事が無いその子の姿。
その子にそんな姿をさせてしまった事と、
『特別な日』を忘れていた事を申し訳なく思いながら、私は大きく頭を下げた。


「ご、ごめんね、憂ちゃん。
今ちょっと忘れてた事を思い出しちゃってさ……。
騒がしちゃってごめんね、何でもないから安心して」


「そ……、そうなんですか?」


私の嘘じゃなくて嘘の言葉を聞きながら、憂ちゃんが心配そうに首を傾げてくれた。
憂ちゃんの事だ。
きっと本気で私の事を心配してくれてるんだろう。
何だか胸が痛むけど、それは自業自得かな。
でも、胸を痛ませてる場合じゃない。

まだ心配そうにしてくれてる憂ちゃんに軽く微笑み掛けながら、
私はこれからどうするべきかと頭を捻り始めていた。
偶然にしろ何にしろ、私は今日という『特別な日』に憂ちゃんと会う事が出来た。
会う事が出来た以上、私にはやらなきゃいけない事があるはずだ。

だって、今日は二月二十二日。
憂ちゃんの誕生日っていう『特別な日』なんだから――。






「お待たせ、憂ちゃん。
ほら、熱いから気を付けて」


「すみません、律さん。
奢って頂いてしまって」


私が近くの自動販売機で買ったあったかいコーヒーを渡すと、憂ちゃんは礼儀正しくお辞儀してくれた。
やっぱり礼儀正しい子だなあ……。
思いながら、私は微笑んで「いいって、お詫びなんだし」って応じる。
それから憂ちゃんの隣に座って、私の分の缶コーヒーで軽く喉を潤した。
コーヒーはそんなに好きじゃないけど、自動販売機で売られてる甘いコーヒーなら結構飲める。
自分だけ飲まないのも失礼だと思ったのか、憂ちゃんもすぐに缶コーヒーに口を付けてくれた。


「あったかいですね……」


憂ちゃんの柔らかい笑顔。
釣られて私も笑顔で「そうだね」と頷いた。
憂ちゃんの前で急に叫んでしまってから数分、私は憂ちゃんにベンチで待ってもらっていた。
驚かせちゃったお詫びに、という名目で缶コーヒーを買ってくるためだ。
勿論、それは単なる大義名分だった。
憂ちゃんにベンチで待ってもらっていた本当の理由は、
憂ちゃんの誕生日を忘れてた事が後ろめたかったからだった。

いや、正確には忘れてたわけじゃないんだけどさ……。
『二月二十二日は憂の誕生日。猫の日って事とセットで憶えればいいんだよ』、
って、唯が言ってた事もしっかり憶えてるし、忘れてない。
でも、忘れてないけど、思い出してもなかった。

だって、そうじゃん?
憂ちゃんは唯――、友達の妹だ。
友達の妹の誕生日、おめでたいしお祝いしてあげたいけど、それも何か変かな、って思う。
少なくとも私は聡の友達から誕生日を祝ってもらった事は無いし、されたらされたでどう反応していいか困る。
それが普通だし、それが友達の兄弟との付き合い方だと思うんだよな。
憂ちゃんの事が嫌いなわけじゃないしむしろ好きなんだけど、深く付き合うってのも変な気がする。
距離感が掴みにくいんだよな、お恥ずかしい話になるんだけどさ……。

だったら、気にする必要なんて無い……とも思うんだけど。
でも、やっぱり後ろめたいのも確かだった。
特に憂ちゃんには高校二年の頃、唯の家でお手製の誕生日ケーキを御馳走になった事があるんだよな。
勿論、それは唯と一緒に作ったケーキだったんだけど、憂ちゃんはしっかり私の誕生日を祝ってくれたんだ。


「そういえばさ、憂ちゃん……」


私は胸がドキドキするのを感じながら口を開く。
私はただ憂ちゃんの誕生日を祝ってあげるだけ。
『誕生日おめでとう』って言ってあげるだけ。
それだけだって分かってるのに、いざとなると緊張してしまう。


「はい、何ですか、律さん?」


「えっと……、大学合格、おめでとう」


言った後で後悔した。
面と向かってお祝いした事は無かったからおかしくはないんだけど、そうじゃないだろ!
あー! 何を言ってるんだよ、私は!
大学合格もおめでたいけど、もっと言うべき事があるだろ!
しっかりしろよ、私!




「はいっ!
ありがとうございます、律さんっ!」


それでも憂ちゃんは満面の笑顔でお礼を言ってくれた。
私の言葉を素直に受け止めてる眩しい笑顔。
うう……、胸が痛い……。
でも、今更、話題を逸らすのも変過ぎるよな……。
とりあえず大学の事について話を続ける事にしよう……。


「心配してなかったけどさ、憂ちゃんが合格してよかったよ。
何度も言うみたいだけど、おめでとう、憂ちゃん。
これで来年度からうちの大学の後輩だね。
そう言えば、私達みたいに寮に入るつもりなの?」


「はい、そのつもりです。
抽選がありますから律さん達と同じ寮に入れるか分かりませんけど、
出来たら律さん達と同じ寮に入れたらいいな、って思ってます」


「そうなんだ。
うん、そうなるといいよね。
そうなったら、私や唯も憂ちゃんに勉強見てもらえるようになるしさ」


「あはっ、律さんったら」


私の冗談に憂ちゃん笑ってくれる。
いや、半分本気だったんだけどさ。
前期の単位、ちょっと落としちゃったし……。
でも、それはともかく、憂ちゃんは来年度からうちの大学に入学する。
梓と純ちゃんもうちの大学は合格してるみたいだけど、
二人とも国立の大学の受験が残ってるみたいだから、どうなるかは分からない。
二人もうちの大学に来てくれると嬉しいけど、無理強いは出来ないよな。
もし二人が違う大学への入学を選んでも、その選択を応援してあげたいと思う。

その代わり、憂ちゃんだけはうちの大学に来る事が確定してるらしい。
もし受かったとしても、国立の大学に行くつもりは無いみたいだ。
唯が嬉しそうに言っていて、梓からもメールが来たから前からそれは知っていた。
梓の奴なんか『もし私が律先輩の大学に行かなかった場合、憂に迷惑掛けないで下さいよ』って、
非常に生意気な余計な一言付きで送ってくれやがった。
まあ、梓も自分の将来の事や憂ちゃんの事を色々考えてるんだろうけどさ。

でも、四月から憂ちゃんが私の後輩になるんだよな――。
高校生と違って、大学生は上級生と一緒に授業を受ける事が多い。
ひょっとしたら、憂ちゃんと同じ授業を受ける事もあるかもしれない。
ちょっと戸惑うけど、でも、やっぱり嬉しいかな。
見知った顔と授業を受けられるってのは楽しい事だもんな。
唯だってそれを楽しみにして、憂ちゃんの合格を喜んでた節もあるしな。
あれ、そう言えば……。




「ねえ、憂ちゃん?」


私は不意に思い出して、憂ちゃんに訊ねてみる。


「はい、何ですか、律さん?」


「唯はもう帰省してるんだよね?
……って、私も唯と同じタイミングで帰省したから当たり前なんだけど」


「はい、お姉ちゃんは一昨日から帰って来てますよ」


「だよね?
だったら、あいつ、今何してるの?
ひょっとして家でゴロゴロしてたりする?
ずるいなー、あいつ。
私なんかこの寒い中、毎日お使いに行かされてるってのに……」


「あはは、違いますよ、律さん。
お姉ちゃんは家で今準備をしてくれてるんです。
それで私、ちょっと追い出されちゃってるんですよね」


追い出された……?
それは物騒だなあ、って一瞬思ったけど、
憂ちゃんの笑顔を見る限り、特に喧嘩したとかでもなさそうだ。
まあ、二人が喧嘩してる様子なんて想像出来ないんだけどさ。
だったら、喧嘩以外の理由で追い出されたって事になるよな?
それを私が訊ねると、憂ちゃんは珍しく言葉を濁した。


「えっとですね……、今日はちょっと……」


目を伏せて、憂ちゃんが苦笑を浮かべる。
何を言い淀んでるのかは私にもすぐに分かった。
今日、唯が憂ちゃんを追い出してまでやる準備なんて一つしかないじゃんか。
勿論、憂ちゃんの誕生日パーティーの準備だ。
唯と憂ちゃんにとっての『特別な日』なんだ。
それ以外にあるわけない。

でも、憂ちゃんはそれを言い出しにくいみたいだった。
憂ちゃんは一歩引いて遠慮がちな子だ。
きっと自分が今日誕生日だって事を言ってしまったら、
『祝ってほしい』と主張してるみたいで、申し訳無い気持ちがあるんだろう。
正直、いきなり友達がそんな事を言い出したら、私だってそう考えるかもしれない。


私は憂ちゃんの誕生日について、それ以上踏み込まない事も出来た。
私は憂ちゃんにとっては、単なる『お姉ちゃんの友達』だ。
『お姉ちゃんの友達』にお祝いされたって、困っちゃうだけかもしれない。
それが普通の反応だと思う。
だけど――







――私は憂ちゃんの誕生日を祝いたい。


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最終更新:2013年02月20日 23:24