私は生徒会室で、ぼうっと頬杖を突いて窓の外を眺めていた。
傾いた夕日の光が真っ直ぐに私の目を刺す。
それでもしばらく外を見続け、四、五人の女子高生の集団が談笑しながら帰っていくのを見て、私は生徒会室を後にした。
今日も負けてしまったわけだ。
校舎の外に出ると、自分の影が実際の身長よりも長く、不恰好に伸びているのに気がついた。
影を踏みつけながら、夕陽の方へ歩いて行く。
校門の近くで、生徒会室から見えた女子高生たちとばったり会った。
そのうちの一人がへらっと笑って、
「あ、和ちゃん今帰るの? なにやってたの?」
なんて言うものだから、私は
「生徒会の仕事があったのよ」
と言いながら、彼女が自分の幼馴染であるということが、事実であるのか疑ってしまう。
ふうん、と彼女はどうでもよさそうな返事をしたから、私はカチューシャで髪を留めた女の子に向かって、
「律、行動の使用許可、忘れないようにしなさいよ?」
などと言って、彼女たちに手を振った。
幼馴染の影をぎゅっと踏みつけて、私はさっさと歩いていく。
途中振り返りそうになったけれど、後ろにいるのは楽しそうに笑う女の子たちだけだろうから、止めた。
私は帰路を歩きながら考える。
最近幼馴染との関係が希薄になってきているような気がする。
私に頼らずとも良くなったということだろうか。
嬉しいことなのか。多分、そうなんだ。
うじうじと考える私を、相変わらず夕陽は真っ直ぐに照らしていた。
「ただいま」
そう言って家の扉を開けたときには、少し汗ばみ襟足が湿っていた。
ぱたぱたと手で首もを仰ぎながら、冷蔵庫からカルピスを取り出して水で薄めた。
甘い味が口に広がる。
「……ま、悩むよりは行動、ってね」
そう自分に言い聞かせて、
「独り言はやめたほうがいいよ?」
そんなことを言いながら横からカルピスの原液を取り、自分のコップに入れようとしている弟を小突いた。
「独り言じゃなくて決意表明よ」
「おんなじだろお!?」
弟は頭を摩って、口を尖らせた。
私は肩を竦めて溜息を付く。
「違うわよ。多分、違う……もういいわ、私お風呂洗ってくるわね」
そう言って浴槽に向かい、結局浴槽を洗いがてらシャワーを浴びて、そのまま寝た。
まどろむ意識の中で電子音が聞こえると同時に、朝日が私の目に飛び込んでくる。
光を通して見える肌の色が、目を開けると真っ白な日光の色に変わった。
私は一つ寝返りを打ってから目覚まし時計を止めて、体を起こした。
「よし、頑張ろう」
不思議なもので、一度言葉にだすと、何が何でもそうするしか無いように感じられる。
頑張ろう、きっと頑張れる、と少しずつ形を変えて、自分の声が頭の中で繰り返されるような、そんな感じだ。
今日ある授業の教材を鞄に詰め込んで、制服に着替え、朝食を摂ってから、私はとっとと家を出た。
道を歩いていると、ふと自分の影が目に止まった。
昨日の下校時に見た時よりは、幾分か短かった。
よし、頑張ろう。
私は瀟洒な洋風建築の扉のインターフォンを押した。
はあい、と慌てたような声が聞こえてきた。
「あ、和ちゃんだった。急いで損しちゃったなあ」
幼馴染とほとんど同じ容姿の女の子が扉から顔をのぞかせて、ぷく、と頬をふくらませる。
姉とは違って、柔らかい髪を結んでいる、幼馴染の妹だ。
ちょっと失礼なことを言っているような気がしないでもないが、そこはもう十年来の付き合いだ。
さして不快にもならない。
「朝っぱらから悪いわね。一緒に登校しようと思ったんだけれど、迷惑だったかしらね?」
彼女は顔を輝かせて、一度扉の中へ引っ込んだ。
そして数分後、学校の鞄を持って、笑顔で再び出てきた。
「えへへ、久しぶりに和ちゃんと登校だね。嬉しいなあ」
「そうね」
私はそう頷いて、扉を見つめる。
彼女はそれに気がついたのか、ぱん、と手を打って、扉に鍵をかけた。
「危ない危ない、ちゃんと戸締りしないとね」
中に誰か居るのに扉に鍵を掛けるほど心配性な人は、もしかしたらいるかもしれないが、あまりいないだろう。
それで私は訊いた。
「唯は?」
「あ、お姉ちゃんは軽音楽部の朝練だってさ。珍しく寝坊もせずに学校に行ってたよ」
むう、負けた、などと思いながらも、頑張ろうという声がまだ自分の頭の中に響いていたから、
私はなるだけ優しく微笑んだ。
「感心ね。私たちも唯に馬鹿にされないように、早めに行きましょうね」
「そうだねえ」
歩き出した彼女の影に目が惹きつけられるような気がした。
じっと見つめてから視線をあげると、彼女は訝しげに首を傾けている。
「なんか、落ちてる?」
「いや、影をね……まあ、なんでもないんだけど」
彼女は自分の影を見つめて、また首を傾げる。
ひょいと足を上げて、ゆっくり下ろして言った。
「影が自分の体にくっついてる所って、見たくても見られないんだよね」
「ああ、なんかそんなこと子供の時に思ったことあるわね、私も」
彼女はにこりと微笑んで、唇に人差し指を当てた。
「なんか悔しいね?」
さあ、そうかしら、と答えて、私たちは学校へ向かった。
結局それっきり、私は彼女の影には目をやらなかった。
学校に着いて、教室へ向かう。
途中、幼馴染のクラスの教室を覗いてみたけれど、いなかった。
廊下で小さく演奏の音が聞こえたから、きっとまだ部活をしているのだろう。
つまり、私はタイミングを外してしまったということだ。
「……頑張ろう」
そう呟くと、頭の中に響く自分の声は二重奏になって、強さを増した。
しばらくその日の予習をして時間を潰していると、ぽつぽつと生徒が登校してきて、
長い黒髪の女の子が教室の扉を開けた。
軽音楽部の、ベース担当の子だ。
「あ、和、おはよう」
彼女は微笑んで私に挨拶をした。
私も軽く頭を下げて、おはよう、と短く挨拶をする。
そのとき、彼女の足元が少し黒くなっていたので、こんな室内の灯りでも影は出来るものなのかと、少し驚いた。
「澪、朝練するなんて珍しいのね、どうしたの?」
私が尋ねると、彼女は嬉しそうに、
「ああ、珍しく唯が提案してきたからな。断れるはずもないだろ?」
と答えた。
唯、というのは幼馴染のことだ。
私が朝、一緒に登校しそこねた幼馴染のことだ。
私はまた、じっと彼女の小さな影に目をやって、言った。
「へえ、唯が……唯は、そんなに音楽に傾倒してるの」
「そういう……感じでもないかなあ。なんていうか、なんか……」
そこまで言って、彼女はむう、と押し黙った。
私は暫く待っていたが、彼女は一向に話を続けそうにないから、ついつい急かしてしまう。
「なによ、気になるじゃないの」
彼女は、でもなあ、と頭を掻いて、小声で言った。
「私たちといるのが楽しくて音楽やってる、みたいなとこ……あるんじゃないかな」
言い終わると、彼女は恥ずかしそうに顔を伏せた。
つまり、唯は軽音楽部員のみんなと一緒にいたかったから朝練を提案した、と。
ありそうな話だ。
あまり、あって欲しくはなかった話だ。
頑張ろう。
私は大人っぽく微笑んで言った。
「そうかもしれないわね。唯は軽音楽部に入って本当に成長したもの、きっと凄く楽しいのね」
私の声が遠くから聞こえるように感じる。
それと反対に、昨夜の決意表明はだんだんと音量を増して頭の中で鳴り響いている。
私は席について、時折日光を反射して薄く輝く運動場を窓から眺めて、正課を受けた。
授業は割合すぐに終わったような気がする。
放課後、私は生徒会室に向かった。
「あ、和ちゃん!」
生徒会室の扉の前で、こそこそと部屋の中を覗っている人がいる。
長い髪が綺麗だ。音楽教師の
山中さわ子先生だ。
「どうしたんですか、生徒会室なんかの前で」
私が尋ねると、先生はびし、と背筋を伸ばして、仰々しく右手に下げている紙袋を私に差し出した。
洋菓子店の紙袋のようだ。
先生はすぐに表情と姿勢を崩して笑った。
「いつも軽音楽部のことで迷惑をかけてるから、生徒会に差し入れでも、と思ったのよ」
そして、生徒会室の扉をちら、と見て、
「でも、なんか入りにくいわよね、生徒会室。音楽室なんかとは雰囲気からして違うわ」
と言った。
先生は肩を竦めて、私の手に紙袋を押し付けると、さっさと廊下を歩いて行ってしまった。
中を覗くと、紙袋の中にはどうやらチョコレート菓子と、ケーキが入っている。
生徒会のみんなで食べた。大層美味しかった。
先生の差し入れのおかげで、いつもより楽しい気持ちで放課後を迎えられたような気がする。
気合は十分に入った。
そんなわけで、私はさっさと走って校門へ向かうことにする。
うまくすれば、幼馴染と鉢合わせ出来るだろう。
昨日よりは少し私の影は短い。
ぎゅむ、と影を踏みながら校門まで走ったところで、私は立ち止まり、肩で息をする。
影を見つけて、もう一度、呟く。
「よし、頑張ろう……頑張る」
すると、背後から声をかけられた。
「お、和だ。何やってんの?」
カチューシャで髪を止めた、軽音楽部の部長だ。
夕焼け時でも声は快活だ。背が低いから、相変わらず影もあまり大きくない。
「あら、律。ちょっとばかり運動をね」
「生徒会室からここまで?」
「まあ、そんなもの」
部長は、変なの、と言って首をかしげる。
そのときに、部長の後ろにいた幼馴染と目があった。
「あ、唯……えっと」
なんとなく言葉に窮して、私は目線を落とした。
幼馴染の影は、思ったより大きい。
それにあんまり驚いたものだから、しようもない言葉が口から出てきてしまう。
「あんた、背、随分と伸びたのね」
そこにいた軽音楽部の部員たちはどっと笑い出した。
私もなんとなく、別段おかしいとも思わなかったけれど、その場の空気に合わせて微笑んだ。
ひとしきり笑った後、幼馴染は潤んだ目をこすって、言う。
「変なの……おかしいね、和ちゃん」
そうして、くすくすと笑いながら、軽音楽部のみんなはぞろぞろと帰っていってしまった。
私には、どうにも今の哄笑が、不気味で怖いものに思われる。
それで、しばらく突っ立っていると、ふと気がついた。
「あ。一緒に帰れてない」
あう。
さて、どうしたものか。
次の日も、中々学業に身が入らなかった。
澪のほうを見てみると、なにやらノートに詩なんかを書いていた。
そういえば、文化祭で軽音楽部はライブをするらしい。
澪がやけに息巻いていた。
唯は、どうだっただろうか。そんな話はしていないような気がする。
終業のチャイムが鳴り、今日も放課となった。
私は足早に生徒会室へ向かった。
「あ、和ちゃん」
また先生が生徒会室の前で立っていた。
今日は紙袋も持っていないようで、生徒会室の中を覗く姿がいよいよもって怪しい。
先生は照れくさそうに言った。
「あのね、昨日のケーキ、友だちから貰ったものなんだけどね」
「はあ、そうなんですか。やけに高そうなケーキでしたね」
「そう、そう!高いの。高価なのよ。そんでね、美味しかったらしいの……」
そこで先生は肩を落として、少し上目がちに私を見た。
私は合点して、苦笑いする。
「すみません、もうみんな食べてしまいました。なんせ、生徒会ではお茶会なんて滅多にありませんから。
みっともないですけど、全員がっついて」
ああ、とため息を突いて、先生は俯いた。
申し訳なくなって、話題を変える。
「ええと、そのケーキをくれたご友人というのは、仲の良い方ですか?」
「まあ、それなりにね」
「それなり」
「そう、それなり。流石にこの歳になると、軽音楽部の子たちみたいにベタベタするほど仲の良い友達なんてのも、ね」
中々いないわよ、と言って先生は寂しそうに笑う。
軽音楽部の子たちみたいに、と先生は言った。
当然その中に私は入っていない。
「大人になると、いなくなるんですか」
「……まあ、取りようによっちゃあ、そうなるわね」
込み上げてくるものがあった。
大人になったとき、唯の隣に私はいないのかも知れない。
互いに隣にいるのを止めることが、大人になるということなのかも知れない。
決意表明はそれでも私の中で響き続けた。
「なんか悪いこと言っちゃったかしら?」
先生が心配そうに私の顔を覗き込む。
私は、はっと顔を上げて、何かを言おうとして、言葉に詰まった。
ようやく見つけた言葉は、どうにも不自然で、ともすると不気味にも感じられる。
「あの……お話を、聞かせてもらいたいです」
先生は首をかしげて言った。
「別に、いいけど」
生徒会の雑務が終わって、先生は私を学校の近くの喫茶店に連れてきてくれた。
私と先生の前に出された紅茶から立ち上る湯気は、部屋の空気と混ざって、輪郭線がどことなく曖昧だ。
広い窓ガラスを背にして先生は座っている。
先生の影の中にある分、先生の紅茶の湯気は、私のよりかは少しはっきりと見える。
「お砂糖……ミルク……」
小声で呟きながら、先生は自分の紅茶に調味料やら牛乳やらを入れていった。
時折こっちを見ては、つまらなさそうに目を逸らす。
批判がましくも見える先生の態度を目にしても、中々私は話が切り出せなかった。
「あ、ケーキ美味しいわ。和ちゃんも食べる?」
フォークで掬ったケーキをこちらに差し出してくる。
行儀が悪いかとも思ったが、断るのもなんだか悪い気がして、私はそれを口に入れた。
甘味が口に一気に広がった。
それで、私はその甘さと一緒に言葉を吐き出そうと、口を開く。
「あの」
「青春?」
先生はにやにやと笑って首をかしげた。
私は言葉に詰まった。
「青春の悩みなら、あまり聞きたくないな。なんか、厭味ったらしいわ」
「いやみ」
「そ。……なんていうか、人間に木登りを教えて貰う猿、みたいな」
「よくわかりません」
あら、と言って微笑む。
紅茶を啜って、熱いわ、と顔を顰めた。
「まあ、いいわ。それでも教師として、出来る限りの助言はしなきゃならないわけだから」
「そうですか」
「そうなのよ、大変なの。音楽教師が何言ってんだ、って話なんだけどね」
「あの」
私はもう一度切り出した。
先生は今度は遮らなかった。
最終更新:2011年02月08日 03:12