大学に入って、先輩たちと一緒に音楽をやって。
それで楽しい、はずだった。

でも世の中どうやらそんなに甘くなかったみたいで、ひとつ悩みが消えればまた次の悩みがひょっこり顔を出してくる。
先輩が卒業したと思ったら大学受験があって、やっと受験が終わったと思ったら今度は将来に思い悩むことになる。

「私はこれからどうするのだろう?」

何度繰り返したかわからない自問だった。
メジャーデビュー?武道館?
そもそもこの先音楽を続けていけるのか?私には才能なんてあるのか?

―――私は、私の音は、必要とされているのだろうか?

ライブのたび、毀誉褒貶は色々と聞こえてくる。
特に批判の声は強く響いて、そのたびに落ち込んでしまう。

大学に入ってから色々な同年代のバンドを見る機会が増えて、大して年も変わらない人のデビューが決定などというのも何度見たかわからない。
素直に凄いと思う一方で、羨望や嫉妬の感情もそれに負けないくらいに抱えている。

「周りの人はみんな才能に溢れている」「私なんか必要とされてないんだ」
そんな鬱屈した気持ちに溺れてしまいそうになる。

誰かから求められたい、評価されたい、認めてもらいたいという欲求に押しつぶされそうになる日々。
そんな心の歪みは音楽活動だけに留まらず、ついに日常生活にまで波及しだした。
大学の講義も上の空、練習も上手くいかない。先輩方に心配させて、迷惑をかけて、そんな自分自身が許せなくて、更に落ち込んでしまう。

完全に悪循環にはまってしまっている。
土曜、日曜と練習を休んで、気分転換になるかと散歩をしてみたりやけ食いしてみたりしたが気分は晴れない。
結局また先輩たちの心配事を増やしただけだ。

なんだか全てを投げ出して逃げてしまいたい。
そう思って、私は次の日の大学をさぼった。

だからと言って何をするわけでもなく、結局はひたすら一人暮らしの部屋で寝てるばかりだった。
でも眠りすらも救いとはなりえなくて、目が覚めるといやな汗と不快な頭痛、そして冬特有の乾燥から来る喉の違和感が待ち受けていた。
内容はよく覚えてはいないが、とにかく悪夢を見たようだ。

枕元に置いていた携帯で時刻を確認する。もう終電になろうかという時間だった。
そのとき、ちょうどタイミングよく着信音が鳴り響いた。さっきまで時刻が表示されていたディスプレイには「鈴木純」の文字が表示されている。
別の大学に進学して、段々と疎遠になってしまっていた高校時代の友人からの電話だ。
こんな時間に何の用だ、いっそ放っておこうかなどと思ったけれど、この奔放さについ懐かしみを覚え、気がつけば私はその電話を取っていた。

梓「……もしもし」

純『もしもしあずさー?久しぶりー』

梓「はいはい、久しぶり。もう、こんな夜中に一体何事?」

純『んー……別に用ってほどの用もないんだけどさ、あの、一緒にそばでも食べない?』

梓「なにそれ。第一、今更もう電車ないし会えないよ」

純が住んでいるところから私の部屋までは大体電車で一時間ほどかかる。
到底今から来ることなどできるはずもない。

純『あー、それなら大丈夫、今梓の部屋の前にいるから』

梓「……はあ?」

呆気にとられていると、私の部屋のインターフォンが鳴った。
電話の向こうからも聞こえるということは、つまりそういうことなのだろう。
とはいえ、まだ信じられないような心地だ。まさか居留守を使うわけにもいかないだろう。
急いで玄関へと向かい、鍵を開け、チェーンを外す。

純「やっほー!ひっさしぶりー!」

そこにいたのは、昔と変わらない、突飛なことばかりするあの友人だった。
自分勝手で、ふざけてばっかりで、わがままで、空気読めなくて、でも、実は私のことをいつも思っていてくれた親友。
外はだいぶ寒かったようで耳も鼻も真っ赤だったが、それでもその笑顔に翳りはない。


梓「本当に、久しぶりだね」

さっきまで寝ていたから、着ているのも部屋着だし、髪の毛もぼさぼさだ。
でも、そんなみっともない姿も彼女相手なら不思議と恥ずかしくなかった。

純の前では、私に纏わりつく虚栄心も剥がれ落ちてしまうのだろう。

純「元気ないぞー?」

梓「寝起きなの。見てわかるでしょ?純がいきなり来るんだもん」

純「へへへ、ごめんごめん」

梓「まあ、玄関で立ち話も何だから入りなよ。私は出かける準備しなきゃいけないし」

純「なんだ、乗り気じゃん」

梓「ここまで来た人間を追い返すわけにもいかないでしょ」

純「へいへい、じゃあお邪魔しまーす」

― ― ― ― ― ― ― ― ― 

梓「ところで、なんでそばなの?」

一通りの身支度を済ませて外に出ると、夜の冷たい風が容赦なく吹き付ける。
私は凍えてしまいそうだったが、純は気にする様子もなく私の手を引いてこっちこっちとずんずん進んでいく。

このあたりは私の近所なのに、純が案内するというのはおかしな話である。
まあ、おかげさまでこの寒さの中右手だけは温かいのだけれど。

純「道すがら偶然見つけたから。あったかそうだったし」

梓「ふぅん……別に今さら純の顔を見ながらそばを食べてもねえ」

純「うわ、ひっどー!」

そう言いながら、純はけらけらと笑っている。

久々に純相手に軽口を叩くだけでなんとなく心が軽くなった気分になる。

そんなくだらない会話を楽しみながら、私たちは目的地へ辿り着いた。

純「ほら、ここ」

梓「へえ、こんな時間までやってるんだ」

そこは駅前にある小ぢんまりとした蕎麦屋だった。
私の通学路上のはずなのに、今まで意識したこともなかった。

私が「このあたりに蕎麦屋なんてあったっけ?」などと道中尋ねるくらいなのだからお察しといったところだ。

二人揃って、冬の風にばたばたとたなびいている暖簾をくぐる。

先客はカウンター席でどんぶりに顔を突っ込むようにしてこっくりこっくりと船を漕ぐスーツ姿の男性一人で、私たちはテーブル席に案内された。

純「かけそばひとつお願いします」

純は私がメニューを選ぶ前にさっさと一人で注文してしまった。
こんなところは相変わらずで、つい苦笑してしまう。

梓「もう、私まだ決まってないのに……すみません、私はたぬきそばで」

― ― ― ― ― ― ― ― ― 

純の言うとおり、確かにそばというのはあたたかくていいものだ。
特にこの時期、寒い中歩いてきた後ならば尚更だった。

店内のラジオからは女性歌手がパーソナリティを務める深夜番組が流れている。
彼女の歌から受ける印象とは違い、ずいぶんと明るい語り口だった。

純「ねえ梓……どうでもいいけど、とんがらし、そんなにかけちゃっていいの?」

梓「え?」

純に突っ込まれてはっと気がつく。
しかし時すでに遅しで、真っ赤な小さな山が天かすの上にできていた。

いつもだったら私が純にあれやこれやと突っ込みを入れるはずなのに、なにをやってるんだかと自嘲する。

純に会えて少しは気分が上向きになったかと思ったが、やっぱりどこか心が飛んで行ってしまっているようだ。

純はそれ以上私の奇行に触れず、ひたすらに色々と話し続けてくれた。

寝坊してテストに遅刻して危うく留年するところだったという話。

電車で寝過してとんでもないところまで行ってしまったという話。

油の入れ物と洗剤を間違えてひどい目にあったという話。

そんな失敗談のネタがなくなってくると、くだらない駄洒落まで飛び出すようになった。

私はただ相槌をうつばかりであったが、それでも次第に頬が緩んでいった。
なんだか、すごく久しぶりに笑った気がした。

すると、純はそれまでの馬鹿話をやめ、突然ぽつんと呟くように私に言った。

純「あのさ、わかんない奴も、いるよ」

そして、純は目を細めてにかっと笑う。
その笑顔はとても優しくて、純ってこんな顔で笑うんだ、なんて思ってしまった。

それはたった一言だけど、でも私の抱える様々な感情の全てを優しく撫でるような言葉だった。

私のことなんてわからない人はいくらでもいて、世の中すべてに認めてもらうなんてことは不可能で、それでもこの目の前の友人のようにわかってくれる人がいる。

それは極々当然のことなのかもしれない。
けれど、私は前者ばかりに目を向けて、どうして私は認められないのだろうと悩んだり、私には価値がないのだと落ち込んだりと一人相撲をとってしまっていた。

純の言葉があまりに不意打ち過ぎて、何も言えずにただ涙が溢れ出てくる。

涙を隠そうと、目の前のどんぶりを覗き込むようにしてそばを食べる。
それでも涙が止まることはなく、純はそんな私にそれ以上何も言わなかった。

梓「……ありがとね」

それからしばらくして、私はやっとそれだけを絞り出すように呟いた。
涙は止まったが、声はまだなんだかおかしく響く。

純は「うん」とだけ返した。
いくらも言葉を重ねるより、この短いやり取りで十分なのだと思えた。

純「さーて、そろそろ出ますか!すみませーん、お勘定お願いします」

― ― ― ― ― ― ― ― ― 

外はやっぱり寒かったけれど、冷たく澄んだ空気の中ではとても星が綺麗に見えた。
こんなに綺麗な星に、俯いて歩いていたときには気付きもしなかった。

純「ねえ梓、もう電車ないし今日は泊めてよ」

梓「もう、うち狭いのに」

そう言いながらも、私は純の手を取り、帰り道を歩きだす。

今度は、星を見ながら帰ろう。



おしまい!



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最終更新:2011年02月28日 21:58