私が出した答えは、きっと澪が求めたものではなかったのかも知れない。

 親友として過ごしてきた過去と、
 恋人として過ごしている今、二つの中で「ずっと一緒だった」という言葉は同じじゃない。

 それでも、何もないよりかは、根拠のない約束があった方が良いに決まっている。

 例えそれが自分を縛り付けるものだとしても、例えそれが澪を縛り付けるものだとしても、子供で馬鹿で臆病で卑怯な私は、それを選んでしまった。

 ――その時、丁度チャイムが鳴って、同時に唯達が階段を下りて来た。

唯「あっ、りっちゃん澪ちゃん、もうすぐ始まるよ!」

律「よーし! 行くか!」

 みんなで手を重ね合って、「おー!」と叫ぶ。そうして私達は体育館へと走った。


 熱気に溢れる体育館の中は、とても心地よくて、自分が生きていると、これ以上になく実感できる場所だった。

 唯も梓も紬も澪も、みんな汗を流しながら、全力で演奏している。

 走り気味だと言われていた私のドラムに、色んな音が追い付いてくるような、私のドラムがみんなの演奏と同調しているような、そんな感覚。

 四曲しかない短い時間が、まるで永遠のように感じられて、一曲が終わるたびに鳴るけたたましい拍手の音が、心臓の鼓動を早まらせる。

 全ての曲が終わった後、会場から溢れんばかりのアンコールが鳴り響いた時は、きっと私だけじゃなくて、みんな泣いていたと思う。

 ステージの幕に隠れていた和のOKサインを確認して、本当に最後の曲が始まると、私のドラムを筆頭に、演奏が始まった。

 唯の歌声は半分涙声で、澪も同じだった。

 本当にこれが最後なんだ、そう思えば思うほど、涙は溢れてきて、梓は演奏が終わると同時に唯に抱きついていた。

 ムギが「最高の演奏だったね!」と涙交じりに言った時、私は知らず知らずの内に、声を出して泣いてしまっていた。

 照明が消されて、幕が閉じられても、鳴り止まない拍手を、私は二度と忘れない。――そう、思った。



 ――その後、私達軽音部は、活動を休止した。

 梓以外の三年生は受験が控えているからだ。

 ムギや澪は塾に通うと言っていた。唯は自分で勉強すれば何とかなる、なんて言っていた。

 私だけが、何をすればいいのか分からなくて、ただいたずらに時間を無駄にしているような気がした。

 当初の志望校だった短大は、最早なんの魅力もなくて、だからといって澪と同じ音楽の専門学校に行くのは違う気がした。

 それでも自分の進路が分からず、ただ何となく勉強して、何となく大学のことを考えて、本当に何となく過ごし続けていた。

 澪とはあまり会わないようにした。お互いに受験があるから、と言って、なるべく遊んでしまわないように、私が配慮して提案した事だった。

 澪は不満そうだったけれど、仕方ないと思ったのか承諾してくれて、皮肉にもそれが、今の私の体たらくの要因だったのかも知れない。


澪『大学のこと決まった?』

澪『悩んでるなら相談に乗る』

澪『早く会いたいよ』

 その頃の私は本当に焦っていて、親の言葉も担任の言葉も、全てが鬱陶しくなるくらいには自棄になっていた。

 だから、澪から送られてくるメールにも、何事もなかった風を装って、無難な返事を返していた。

 澪のメールには感情が溢れていて、時折かかってくる電話では、本当に楽しそうに話していた。

 でもその時の私は自棄になっていて、大学について考えることも、澪と私の関係を考えることも、――全てが煩わしかった。

 澪が「会いたい」と言うたびに、私は不安になる。

 ずっと一緒居るなんて根拠のない約束が、いつでも脳裏に張り付いて離れない。

 あの時私は決めてしまった。自分を縛り、澪を縛り、そうすればみんな幸せになると、勝手に思い込んでいた。

 だから、私は子供で、馬鹿で、臆病で、卑怯な奴だった。――全てのしがらみから逃れたい。そう思ったのは、すぐだった。


 親に一人暮らしがしたい、と申し出ると、物凄い勢いで反対された。

 そんなことは承知の上だったし、無理な頼みだろうとは思っていたが、バイトをして最低限の生活費は自分で稼ぐ。


アパートやらなにやらも自分で探す。そう提案すると、しぶしぶ了承してくれた。

 このことは澪には言わなかった。それどころか、軽音部のみんなにも、それを教えることはしなかった。

 私はこのまま消えてしまおう、なんて、本気で考えていた。

澪『受かったよ! 律の方はどう?』

律『まだ分かんない。もうちょっとで発表』

澪『そっか。じゃあ会えるのはもうすぐだな』

律『まだ受かるって決まったわけじゃないって』

澪『受かるよ、律ならきっと大丈夫』

 私は手元に握り締めた合格通知を見ながら、「ありがとう」と文字を打った。


唯『お陰さまで受かったよー! みんなありがとー!』

紬『なんとか受かりました。りっちゃんの方はどうですか?』

梓『先輩、受験どうでしたか? 応援してたけど、ちょっと心配です』

律「……」

 次々と送られてくるメールを見ながら、溜息を吐く。一人一人に「おめでとう」と返しながら「私は大丈夫」と付け加えて行った。

 でも、それを送信することは、なかった。

 綺麗に片づけられた部屋の中を知っている人は、家族以外には誰も居ない。

 もう、引越しの準備は整っていた。

律「ごめん、澪」

 メールの受信ボックスを開けば、澪からのメールが沢山ある。

 本当に大丈夫? 連絡して欲しい。 何かあったの? 嫌いになったの?

 ――最近は、そんなメールばかりだった。



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 電車が止まると、人が一気に吐き出される。私はその人波の中に混じって、一歩一歩苦労しながら改札へと向かった。

 まだ寒い時期だというのに、人の密度の所為でひどく暑苦しい。

 早くここから脱出したかった。

律「やっと抜け出せた……」

 駅を出て一息吐くと、私は大学への道を歩き始めた。この駅からそう遠くない所に私が通う大学がある。

 時間を確認するために携帯電話を取り出す。高校の時使っていた携帯とは違う、新しい携帯。

 アドレス帳には、かつての友人の名前はなかった。

 ――ふと前を見た時。長い黒髪を風に靡かせている女の姿があった。

――
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――――――


 親には、私の居場所を誰にも教えないように、強く言っておいた。

 これから心機一転して頑張るから。大学では大学のことを頑張るから、と。

 そうして引っ越しはつつがなく行われ、以前私が部屋として使っていた場所には、何も残らなかった。

 ただ、今は使っていない携帯電話だけを、部屋の片隅に置いておいた。

 もう鳴ることのない携帯電話の中には、今までの思い出が詰まっている。

 私を縛り、大事な人を縛った思い出が、いくつもいくつも詰め込まれている。

 何故か、知らぬ間に涙が頬を流れていた。

律「ごめん、みんな……。ごめん、澪……」

 そうして、逃げるように私は自分の部屋から出て行った。

 これで全て終わってしまったんだ。

 自分で全てをかなぐり捨てて、新しい道を歩み始めるんだ。

 そう思えば思うほど、涙は溢れ続けた。もう後戻りはできない、そう言い聞かせながら。



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 大学の正門は人で賑わっていて、どこを見ても入学の喜びを友達と共に分かち合っている人ばかりが目立つ。

 私はその中で一人、入学式の予定を片手に持ちながら、寂しく歩いていた。

律「さっきの子……ははは、まさかな」

 長い黒髪の女のことが、頭から離れなかった。長年の付き合いだし、澪の後ろ姿なんて、一目で分かる。

 その私が、澪を他の人と間違えるなんて、するはずがなかった。だけど、恐怖と不安で、あの女を澪と認めたくなかった。

 会えば何を言われるか、また何を言ってしまうのか、分からなかったから。

 それでも、辺りを頻りに見回すことはやめられなかった。

 もしかしたら本当に澪かもしれない。そんなことを想うと、探さずにはいられなかった。

 ――その時、混み合う人波の中で、遠くに一人の女を見付けた。それはとてつもない偶然だったのかも知れない。

 色んな人に視界を阻まれる中で、決して近くない距離で、私はその人と目を合わせた。

律「なん、で……」

 静かに歩み寄ってくる女……それは他の誰でもなく、澪だった。

澪「……」

律「……」

 私達が向かい合って、相手の表情の動きさえ分かる距離に近付いた時、澪は何も言わなかった。

 私は、何も言わなかったというよりは、澪にかける言葉が見付からなくて、何も言うことができなかった。

澪「律のお母さんに無理を言って、聞いたんだ」

律「そ、そっか」

澪「一つだけ、聞いてもいい?」

律「……」

澪「本当にこれが最後だから。これ以上は何も望まないから」


 澪の眼は、いつかと同じように、真剣で、切なそうだった。

 それでも、私達の関係は、いつかと同じようにはならない。そんな確信があった。

澪「女同士でおかしいのかも知れない。でも、それでも私は律が好きだ。昔も今も、この先も……」

律「……」

澪「正直に答えて欲しい。そうすれば、私はもう、縛られないだろうから」

 澪の言葉は、強がりにしか聞こえなかった。私達は互いに縛られている。私も澪も、もうその束縛からは逃れられない。

 でも、澪の望みに対して、私は正直な気持ちを告白しなければならなかった。

 本当はこんなことになって、寂しいとか、できるならあの頃に戻りたいとか、そんなことも考えた。

 でも、それでも澪が望んだのは正直な答えで、澪が私に聞いたのは「私が澪を好きなのかどうか」だった。

 だから、私は、精一杯笑顔を作れるように心がけて、なるべくなら以前の私を取り戻せるように、答えた。

律「……女同士で恋愛とか、……ねーよ……」

澪「……うん、分かった。……ありがとう、律」

律「……」

 去って行く澪の背中は、微かに震えていた。残された私もきっと震えてる。

 私は泣いていた。人目も憚らず、恥も外聞も関係なしに、その場で声を押し殺して泣いていた。何度も「ごめん」と呟きながら。



――完。




最終更新:2010年01月07日 23:36