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 手術は無事成功し、唯の状態は急速に回復へと向かっている。今は術後の経過入院で様子を見ている状態だ。

「はあ、夜はやっぱり暇だよー。皆が病院にお泊りしてくれたら楽しいんだけどなー」

 面会時間が終了すると当然みんな帰ってしまうので、夜は暇で仕方ない。消灯時間も過ぎているので本当は
寝なければならないのだが、どうも目がさえてしまっている。

「うーん、図書室で借りた絵本でも読もうかな」

 ベッド横に置いてある電気スタンドのスイッチを入れて、絵本を開く。タイトルは『ブロスと愉快な仲間たち』だ。

「さーて、どんなお話なのかなーって、あれ? なんだろこの紙」

 絵本を開くと、1ページ目に地図が挟まれていた。地図の裏には『いつかキミがこの病院にいることがどうしても
耐えられなくなったとき、この地図を頼りに異世界へ脱出してごらん』と書かれていた。


「異世界かあ……冒険だね! 面白そう!」

 地図に示された場所はトランスターミナル内の森の奥で、唯の好奇心を存分に刺激した。

「ようし、上着来てー、お菓子もってー、唯隊員しゅっぱつ!」

 善は急げとばかりに唯は病室を飛び出した。廊下は既に消灯されていて薄暗いが、それが余計に冒険心をくすぐる。


「でも外に出るにはどこから行けばいいんだろ? エントランスから出て行ったらさすがに看護師さんにばれちゃうよね」

 悩みながらもとりあえず廊下を進んでいくと、病室とは少し毛色が違う雰囲気のドアから看護師が出てきた。
唯は咄嗟に物陰に隠れてやり過ごす。

「危ない危ないばれちゃうトコだったよ……でもあの看護師さんが出てきた部屋はなにかな? 秘密の通路があったりして」

 好奇心にまかせて唯はその部屋に入っていった。しかし、期待したような通路はなく、そこは普通の病室のような部屋だった。
唯一のベッドには、ごてごてとした機械に繋がれた男性患者の姿があった。

「あ、ご、ごめんなさい! 普通の病室だとは思わなくって! 勝手に入っちゃいました……」

 慌てて唯は謝罪し頭を下げる。

「あれ、もしかして、唯ちゃん?」

 聞き覚えのある声がして、唯は頭をあげて男性患者の顔に視線を合わせた。

「え? あ……ヤスヤス先生!ど、どうしたの! なんか、凄そうな機械にいっぱいつながれてるけど……」

「いや、ちょっとね、人工心臓うめこんじゃったんだよ。あはは……」

 どうということもないという風に、ヤスオは笑顔をこぼした。

「人工心臓って……大丈夫なの? ヤスヤス先生」『人工心臓』という言葉の響きに唯は急に血の気が失せた気がした。

「ああ、大丈夫。すこぶる調子がいいくらいさ。いや、まあ、ちょっとしんどいんだけどね。『調子はいいけど超しんどい』なんてね」

 そう言って笑うヤスオの表情は優しげだった。

「唯ちゃんは、どうしてこんなところに?」

「えっと……ちょっと、冒険に……」

「冒険?」

「うん、地図を見つけたの。それで、その地図に描かれた場所にちょっと行ってみようかなって。この建物から出てすぐのところにある森の奥なんだけど」

「……冒険か……それ、明日にする訳にはいかない?」

「明日? どうして?」

「明日なら、僕も一緒にいけるかなって思ってさ」

「え、で、でもヤスヤス先生、こんなにたくさんの機械に繋がれてるのに大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、明日、そうだな、中庭あたりで待ち合わせしよう。11時、11時を一分過ぎても僕が来なかったら、
悪いんだけど唯ちゃん一人で行ってくれるかい?」

 ヤスオの体調は心配だが、本人がこう言っているのだし、それに冒険の旅は一人でするよりも二人でした方が楽しそうな気がした。

「うん、わかった。11時だね。中庭の大きな木の下で待ってます」

「うん、約束」ヤスオは右手の小指を唯の方へと差し出した。

「えへへ、約束!」

 唯は指切りを交わした後、笑顔で自分の病室へと帰った。



5月22日

 夜11時まであと5分弱、といった時間にヤスオは現れた。

「ヤスヤス先生! 来てくれたんだね」

「あたりまえだろ、唯ちゃん。約束したんだから」

 ヤスオの足取りはしっかりしたものだったが、胸の前に妙なハンドルが付いている。まるで手回し式で氷を削るかき氷機に
ついているようなハンドルだ。ヤスオはそのハンドルを右手でくるくると回転させながら唯の方へと近づいてきた。

「ヤスヤス先生、その胸についてるの、なんですか?」

「これ? これは、あれだよ、今はやりの手回し式補助人工心臓。名前は『モーリー』っていうんだけどね。『モーリーで元気モリモリ』、なんちゃって」

「あはは、手回し式の心臓なんて聞いたことないよー」

「いやいや、本当なんだけどね。実際このハンドル回すのやめちゃったら、僕死んじゃうから」ヤスオはなんでもないことのように話すが、その内容は正直言って唯には驚愕だった。

「え、う、嘘! 大丈夫なの? そんな状態で出歩いたりして」

「大丈夫だよ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけで良いから、僕も冒険してみたいんだ」

 そういうヤスオの顔はまるで幼い少年のようなあどけなさだった。

「うーん、わかった。でもちょっとでも体調が悪くなったら言ってね」

「ああ、そうするよ」






 とりあえず、唯とヤスオは地図に従って歩き始めた。冒険の旅の始まりだ。と言っても、所詮は病院の敷地内
でのことなので、目的地にはほんの十数分で到着してしまったのだが。

「ここ、みたいだね」唯が辺りを見回すが、特に変わったところはない。森の奥で、少々開けた原っぱのように
なっているだけだった。ここが、地図に描かれていた異世界というやつなのだろうか。

「唯ちゃん、こっちこっち、大発見だ」

「え?」

「これ、この穴、たぶん防空壕だよ」ヤスオが示した場所には直径1メートルくらいの穴がぽっかりと開いていた。
それはまるで異世界への扉のように唯には思えた。

「ちょっと暗いな、明かりがないと中には入れないかも」

「あ、大丈夫ですよ、懐中電灯持ってきたから」唯はポケットからペンライト型の懐中電灯を取り出し、穴の中を照らしてみた。中は結構広いようだ。

 唯は懐中電灯で照らしながらその穴の中へと入って行った。ヤスオもハンドルをくるくる回しながらそれに続く。

「まるで、秘密基地みたいだな。そういえば子どもの頃、空き地に作った秘密基地のなかでマンガ読んだりしたなあ」ヤスオは昔を懐かしむようにつぶやいた。

「私も私も! 幼馴染の友達と、妹といっしょにダンボールで秘密基地作ったことあります」

 唯とヤスオは隣同士で壁に寄り掛かる形で地面に座り込んだ。

「はは、今思いだすと、すっごくくだらないんだけど、ガキんちょだったときは楽しくてしょうがなかったんだよね」

「私も、すっっっごく楽しかった。日常にありがとうって奴ですね」

「日常にありがとう?」


「うん、私、病気になってから生きてるってことに感謝するようになったの。『明日はもう生きられないかも』って思いながら過ごすと、
一日一日がどんなに大切で、貴重で、特別なのかがよくわかるんですよ。そういうのに気付くと、過去の何でもなかったような日常も、
とっても大切なものだったんだって思えるようになったの」

 生と死は表と裏なのだ。死を意識するからこそ、生きていることを、日常を謳歌することができる。

「私ね、高校の軽音部に入ってるんです。病気にかかる前は毎日ギー太弾いてたの」

「ギー太?」

「あ、ギターの名前。私ギターに名前つけてるの」

 ちょっと変わったセンスだけど、唯には不思議と似合っている、とヤスオは思った。

「部活中にお菓子食べたりお茶飲んだりする、ちょっと不真面目なクラブなんだけど、そういう軽音部の友達と
過ごす日々ってね、いざ失くしそうになってみると……途端にとてもとても愛おしくなってくるの」

 唯は両手を組んで胸に当て、朗らかに微笑んだ。

「そっか、えらいな唯ちゃんは、僕はこんな状態になるまで日常の大切さに気付けなかったよ」

「こんな状態?」

「そう、胸にハンドル付けた状態ね」

 ヤスオは右手でハンドルを回転させながら左手の親指で胸を指し示した。

「僕のこのハンドルね、さっきも言ったけど、こうやって回し続けてないと死んじゃうんだ。つまり『生きたい』と思ってるから
回してるわけ。そうやって考えると生きてるってすごいことなんだなって思うよ。普段は何も意識しなくても心臓は勝手に動い
てくれるわけだからね。今すぐにでも死んでしまいたいって思ってる人の体の中でもやっぱり心臓は動いてるんだよ。何かが
心臓を動かしてるんだ。その『何か』とは何だろうって考えてみると不思議にならない? 僕はさ、その『何か』ってやつは、
唯ちゃんの言うような『何でもないけど大切なもの』って奴だと思うんだ」

 ヤスオの言葉にこくりとうなずくと唯はまっすぐにヤスオを見た。

「でもねヤスヤス先生、そうやって大切なことに気付くのと同時に、自分がすごく嫌な人間に思える時があるんです。
先生ならわかると思うけど、ドナーが現れるのを待つってことは、誰かが命を落とすのを待つってことでしょ。
自分が生きるために誰かが死ぬのを望むなんて、心臓をくれた人にすごく申し訳ないなってたまにすごく落ち込む時があるの」

 唯のその言葉に、ヤスオは急に血相を変えて叫んだ。

「唯ちゃん! それはちがうよ! 絶対ちがう!」

 思わず大声になってしまい、ヤスオは慌てて声を低くした。

「僕が保証する。唯ちゃんに心臓をくれた人は、間違いなく心臓をあげてよかったって喜んでるはずだよ……たぶん、天国で」

「どうして『たぶん』なの?」

「いや……天国でたぶん喜んでるだろうなって意味。日本語って難しいよね……『ヘブンでたぶん』なんちゃって」

 そう言って笑いかけたヤスオの表情が途中で固まった。眉間にしわがより脂汗が浮いている。

 ヤスオの異変に気付いた唯が心配そうに顔を覗き込んだ。

「先生大丈夫?」

「ちょっと……疲れちゃったかな」

 ヤスオは緩慢な動作でのそりと起き上った。

「残念、僕の冒険はここで終ってしまった。ちょうどお迎えも来たみたいだし」

「お迎え?」

 突然、穴の中に強い光がさした。唯が穴の入口の方を見るとスーツの男が大きな懐中電灯をもって覗きこんでいた。

「ごめんねキョウヤくん、お手を煩わせて」

「いえ、こんなところにいたんですね、さあ、帰りましょう」

 ヤスオにキョウヤと呼ばれたスーツの男は疲れたような声音で言った。

「ねえ、唯ちゃん」

「なに? ヤスヤス先生」

「僕の冒険はここで終っちゃったけど、君の冒険はこれからもずっと続いて行くことを祈ってるよ」

「……ありがとう、先生」

「じゃあね、唯ちゃん」

 ヤスオは少々ふらつきながらも、キョウヤに傍らで支えられながら歩き出した。



6月8日

 今日も唯は病院のベッドの上でマンガを読んでいた。退院まであとほんの数日だ。唯自身はいますぐ学校にいっても
問題ないと考えているのだが、主治医の話では退院後もゆっくりと体を慣らしていかなければならないらしい。

 コンコンと、ふいに病室のドアがノックされた。唯は「どうぞ」と答える。

「こんにちは」

「……こんにちは」

 ノックの主はあの夜にヤスオを迎えに来た男、キョウヤだった。今日はスーツではなく、医者が着るような白衣を着ている。

「ちょっといいかな?」というと、キョウヤはそばの丸椅子をベッド脇に引き寄せ、ゆっくりと腰をおろした。

 唯は軽くうなずいた後、読んでいたマンガをぱたりと閉じた。

「なに読んでたの?」

「マンガです。『BECK』っていうやつ」

「『BECK』? ああ、僕も読んだことあるよ。ギターのリュースケってキャラが格好いいんだよね」

「あの、なんの用ですか?」

「特別用があるわけでもないんだけど、ヤスヤス先生がよろしく伝えてくれって言ってたもんだからさ」

 『ヤスヤス先生』という言葉を聞くと、唯は二、三度瞬きをした。

「今どうしてるんですか? ヤスヤス先生、あれから病室に会いにいってもどこにもいなかったんですけど」

「いま日本のあちこちに行ってるみたいだよ」

「あちこちでなにしてるの?」

「さあ、そこまで深く聞かなかったから、わからないや」

「……そっか」唯は少し声の調子を落として呟き、残念そうにうつむいた。

 キョウヤは間をつなごうと辺りを見回し、ふと唯が手に持っている漫画に目をやった。

「『BECK』好きなの?」

「好きですよ」

「そっか、軽音部だもんね」

 唯は少し驚いてキョウヤに向き直った。

「何で知ってるの? ヤスヤス先生に聞いたんですか?」

「いや、聞く暇なんてなかったよ。僕ね、人の心が読めるんだ。独身だけに読心術、なんちゃって」

「変な人ー」

唯は小さく笑みをこぼした。

「じゃあ、私がギターにつけてる名前は? 心が読めるんならわかるよね?」

「うーん、ヘンドリックス?」

「ブッブー不正解」

「変だなぁ、ヘンドリックスだけに変だぞ。あ、わかった『ギー太』だ」

「え、うそ……まさか。でまかせで言っただけだよね? それともやっぱりヤスヤス先生に聞いてたんでしょ」

 唯は目を丸くした。

「まさかマッカーサー、でまかせで負かせ」

「あはは、やっぱり変な人だ」

 唯はついに声をあげて笑いだした。

「そんな変な人からひとつお願いです!」

 キョウヤは深く息を吸い、厳かな口調で言った。

「君の心臓の音、聴かせてくれないかな?」

戸惑う表情を浮かべた唯に、キョウヤは慌てた様子で付け加えた。

「いや、もちろん服の上からでいいから」

「それは気にしないけど」

 唯はベッドの上で正座すると、パジャマのボタンを外しキョウヤに体を向けた。


「……失礼します」

 キョウヤはひとつ咳払いすると、聴診器をゆっくりと唯のはダリ鎖骨下あたりに当てた。

 気管を通る呼吸の音に混じり、心臓が鼓動を刻むリズミカルな音がキョウヤの鼓膜を震わせた。

 耳を澄まし、じっと心臓の音に聞き入るキョウヤの目からひとすじの涙がこぼれた。唯が不思議そうに首を傾げた。

「どうして……泣いてるんですか?」


―――

Report
大東泰雄(安田ヤスオ)の臓器・組織等は日本各地のレシピエントに移植された。

  • 左腎臓
レシピエント名:梶山元子

  • 肝臓
レシピエント名:本山信二

  • 右下肢
レシピエント名:沢向亮介

  • 両上肢
レシピエント名:森島健伍

  • 心臓
レシピエント名:平沢唯

レシピエント名:京谷貴志




唯「――――っていうSSを書いてみました! 入院中ヒマだったので!」

和「いや……心臓病って……あんた、たしか盲腸で入院したんじゃなかったかしら?」

唯「そうだよ。盲腸だけにもう、超痛い、なんちゃって」

和「……」

和「ところで、心臓がビヨーンとなる病気ってなによ」

唯「原作のヒロインは拡張型心筋症なんだけどね、拡張型心筋症は体への負担を考慮してある程度の
就労制限はかけた方が良いものの立派に働くこともできる病気なんだ。当然、病状の進行具合によって
は辛い闘病生活をしいられている人もいるんだけど、SSの中での私のように発病後すぐに心臓移植が
必要というわけでもないんだよ。当然、患者によって個人差はあるけどね。まあ、無用な誤解を避ける
ためにもSS内で病名を明言するのはやめておいたんだ」

和「そ、そう……(意外と考えてるのね)」

和「それはそうと、あんた水嶋ヒロのファンだったの? 『KAGEROU』の二次創作なんて書いちゃって」

唯「うん、天道総司の頃からのファンだよ」

和「へぇ、知らなかったわ……(天道総司ってなにかしら?)」

唯「私のSSを読んだだけではヤスオの境遇とかがわからなかっただろうから、興味がわいたんだったら
和ちゃんも『KAGEROU』を試しに読んでみると良いよ。巷では文章が下手だって言われてるけど、
私の書いたSSよりは当然上手だし、難しい表現が無いから子供でも読めるよ。
さらに言うなら、水嶋ヒロ物語、私小説として読んでみると意外と面白いと思うよ」

和「そう、じゃあ気が向いたら読んでみるわ」

唯「内臓が無いぞう、なんちゃって   おわり!」



最終更新:2011年03月29日 02:47