お姉ちゃんは後何日この家にいられるのかと、お湯の中で指折り数えてみます。
そうするとお姉ちゃんは、水面に映るぼやけた私の指を見て、けらけらと笑いました。
「大きくなっちゃったね」
その言葉は、浴槽から立ち上る湯気のようにふわふわと浴室を漂って、私を取り囲みました。
そういえば昔は、私もお姉ちゃんも背が小さくて、浴槽一杯にお湯を張ってしまうと座ったときに顔が沈んでしまうというので、
湯船の半分くらいまでしかお湯を入れていませんでした。
たまにお姉ちゃんが目一杯お湯を入れてしまったときは、二人して浴槽の中で中腰になっていました。
その姿がおかしくて、お互いにいつまでも笑っていたものです。
今では私たちは、膝を立てて足を組み合わせて座っても、背中に当たる硬い浴槽を鬱陶しく思うくらいに大きくなってしまいました。
二人のたたまれた足の長さ分だけ、お姉ちゃんの顔は私から遠ざかっていて、なんだか寂しく思います。
「おねーちゃんはさー」
「んー?」
話しかけておいて何も続かずに、ぼうっと天井を眺めてみます。
無闇に遠く感じられる天井目がけて、湯気はゆっくりと昇っていっていました。
「やっぱなんでもない」
「そっかー」
お姉ちゃんは特に気にしない様子で、へらっと笑い、「背中流してあげようか」と幼い頃と変わらない笑顔で言います。
※
「じゃあ、おねがい・・・しようかな・・・」と、私がほほえむと
「妹のためなら私はなんだってできるんだよ」と、
冗談めきながらお姉ちゃんが立ち上がりました。
向き合って座っていた私たちです。
時間としてはほんの1秒たらずでしたが、私の目の前をお姉ちゃんの下半身が通り過ぎます。
顔をそらす間もありませんでした。
意にあらずして、私は彼女の身体的な成長を網膜に一方的に焼き付けられました。
時間は過ぎてしまうものです。
いくら姉妹といえども無邪気だった幼いままの2人ではいられない。
私も彼女も身体は女としての丸みを帯びました。
その変化と同時でしょうか、それとも私の気持ちの変化のほうが少しばかりはやかったのでしょうか。
いまではもうわかりません。いえ、それをはっきりしたところで、私はとても救われないのです。
「どうしたの?うい~~、早くでておいでよ」
屈託のない、笑顔で彼女は妹の名を呼びます。
「え、ううん、な、なんでもないよ、お姉ちゃん」
いつものように自分自身をつくろいながら私は浴槽から出ました。
姉妹の間で「隠す」というような行為はお姉ちゃんの常識の中にはないようなので
もちろん私も、彼女の前でわざわざ隠したりするようなことはしません。
もういまさらなのです。成長を隠すことも、時間が経ってしまうことも、
彼女がこの家から去ってしまうことも、この私の気持ちもなにもかも。そう、なにもかも。
「いつもういちゃんにはお世話になっているからね~~、ごしごししちゃうよ、ごしごし~~」
いっひっひ、といいながらお姉ちゃんはワシャワシャと泡を次から次へと作っていました。
私がイスに座ります。正面の鏡に裸の2人が映ります。
彼女の胸に眼がいきそうになるのをこらえます。
私の肩に彼女の右手が乗り、そのやわらかさに声がでそうになりましたが、
すんでのところで声は音にならずにすみました。
鏡越しの彼女は、私の背中をごしごししながらとても楽しそうです。
「かゆいところはございませんか~?」
「うん、ないよ~」
「おねえちゃん」
「ん?な~に~うい~」
「なにか、歌を唄って?」
「おぉ!リクエストはいりましたーー」
「なにがいいかな?」
「なんでもいいよ、お姉ちゃんが歌うなら」
「そうだな~」と、少しむむむ…と悩んだあとでお姉ちゃんはゆっくりと唄いだしました。
その曲は「きっと、放課後ティータイムの歌なんだろう」という私の期待をあっさりと裏切ります。
お姉ちゃんの歌声が浴室に響きます。
私と彼女だけの、空間。
ギー太もアンプも仲間もスポットライトもない、ただ少し反響のあるこの場所で、
彼女は歌にどのような思いをのせたのかだなんて、私にはわかりません。
ただその旋律は、優しく、やわらかく、そしてちょっぴりセンチメンタルで
何かを求めているような、でも何も求めていないような、普段の彼女には不釣合いなものでした。
歌の途中で「髪も洗うね~」と彼女は勝手に私の髪を洗い始めました。
ちょっとだけ戸惑う様子を漂わせつつ、そのすべてを甘んじて受け入れます。
当たり前だけど、もうシャンプーハットは使いません。
背中を洗うときよりも彼女の身体が私に接近します。
私のほてりを彼女にさとられることを私はずっと怖がるけど、
それでもそれを知ってほしい私もたしかにいて
ただ1つの感情をごまかすために色んな感情を一瞬にして私の中に駆け巡りさせます。
背中も髪もいいけど・・・・本当は、ただただ、私が彼女にふれたいのです。
シャンプーの少し冷たい感触の後に、彼女の指が優しく私の髪をなでます。
「おねえちゃん」
「ん?なに?」
「唄うの忘れてるよ」
「おおっ!?そうだったそうだった、せっかくのういのリクエストなのに~」
彼女の歌が再び、湯気とともに響き渡ります。
彼女の指が動くたびに髪と泡が音を立てます。
人に髪を洗ってもらうというのは、こんなに心地の良いものだったのか、と私は思います。
ギターの上達ぶりからして、姉はもとから手先は器用だったのでしょうか。
指使いがとても心地良いです。
かゆいな、と思ったところ、私がいつも念入りに洗っているところを
彼女もまたいつもの私のように洗ってくれます。
でも、それはただ彼女が私の姉だから、洗い方が似ているだけなのかもしれません。
私はちょっとだけ悲しくなって、鏡のほうに目をやります。
歌を唄いながら、変わらずたのしげな彼女が映っています。
私はそのことにもっと悲しい気持ちにさせられながら、
それでもホッとする気持ちもたしかに持つことができました。
彼女の声も、彼女の指の感触も、彼女の姿も・・・・数日後にはなくなってしまう。
それでもまだ、今は彼女はたしかにここにいるのです。
「うい~~流すよ~~」
「うん、お願いお姉ちゃん」
ねぇ、お姉ちゃん、泡とともに私のこの気持ちも洗い流してくれないかな?
それまでの静寂が壊されて、水の音だけが聞こえます。
おねえちゃんは、1つのことをしたらそれまでのことを忘れちゃう。
唄ってっていったのに・・・。
私の頭の先からつま先の先までいっきにお湯がかけられます。
あっけなく泡が私から流れて、排水溝へ吸い込まれていきます。
それほど髪が長いわけではありませんが
髪はシャワーの水圧で私の顔を覆ってしまって、
目の前にある毛先からポタポタと雫がたれ続けます。
キュっという音とともに、パズルのピースのようにばらばらになった静寂が
またもとの形に戻りはじめ、私と彼女の2人だけの空間を形づくりました。
「ありがと、お姉ちゃん」と言いながら
額に張り付く前髪を払いのけようとした瞬間、ぽよん、と私の背中に当たるものがありました。
「へ!?」と驚く間もなく、私の身体に腕が回されそのまま彼女のほうへと引き寄せられました。
前髪を払いのけようとして左手を顔の元へ持っていっていたのが幸いしたのかどうなのか、
彼女の手・・・というか、腕が私の胸に接することはありませんでしたが、
突然の出来事を私の頭はなかなか理解できなかったみたいです。
とたんに心拍数があがり、身体が火照りだします。
私の頭が状況を理解できなくても、私の本能は背中に当たっているものをいち早く察知していました。
私の背中に当たっているものは、まぎれもなく胸です。
わかっています、それくらい。
この柔らかさを私は他のどのものよりも待ち焦がれていましたから。
人間は進化の過程で本能と対立させるものとして、理性をその相対の位置に築きあげました。
私はこの気持ちゆえに、もう人間としては本来の役割を果たせない者なのかもしれません。
生殖機能としては堕落し、遺伝子を子孫に伝えるという役割を放棄しています。
謂わば、人間失格者です。
それでも。
それでも、せめて彼女の前では人間らしくいたいから、
自分の中の理性を最大限に利用して彼女に言います。
「お、おねぇちゃん・・・・?ど、どうしたの、いきなり抱きついちゃって・・・・」
私の身体とは反対に彼女の身体はずいぶんと冷え切っていましたから、
背中に意識を集中させると、小さいポチっとしたものも2つばかし当たっているような気もします。
振りむきたい衝動にかられます。
振りむいて・・・抱きしめて・・・キスをして・・・胸を、さわって・・・それから・・・それから・・・
私の問いには答えを返さずに、彼女はむしろ私に尋ねてきました。
「ういはさー」
「 、んー?なにかな、・・・・おねえちゃん」
「私がいなくなったら、さみしい?」
「・・・・さみしいよ」
「どんな風に?」
「どんな風にって・・・、たとえば?」
「たとえば・・・たとえばかぁ・・・」
うーん、といい彼女は続けます。
「たとえば・・・、好きな人が遠くにいっちゃうみたいで、かなしいとか・・・・」
「好きな人って・・・」
言葉を飲み込みます。
どんなに好きでもお姉ちゃんは、私のお姉ちゃんのままじゃない。
どんなにさみしくても、お姉ちゃんはこの家からいなくなっちゃうじゃない。
でも、私はもう幼くはないのです。
自分の欲望のために駄々をこねる頃はもう過ぎ去ってしまった。
私が黙ってしまったからか、彼女はちょっと不安げな表情を鏡に映します。
「・・・うい、好きな人いたことないの?」
「・・・お姉ちゃんはあるの?」
「あるよ」
「そっか」
彼女はなんということもないかのように返事を返してきました。
言葉がでてきません。
それはきっと私じゃないから。
これは、失恋なんでしょうか、そういうの、もうどうでもいいと思っていました。
でも、やっぱり予想以上に胸は痛くて、なんだか泣きそうです。
泡とともに彼女が私から流したものはなんだったのでしょう。
沈黙が続きます。とっても嫌な沈黙が。
しかたなく私のほうから
「お風呂、はいろっか。おねえちゃん、身体冷たくなってるし」といいました。
「うん、そだね」と彼女はかえしました。
ぼうっと天井を眺めてみます。
無闇に遠く感じられる天井目がけて、依然、湯気はゆっくりと昇っていっていました。
お湯の温度はそれほど下がっていなかったので、
私の体感時間ほど時間は過ぎていないのかもしれません。
私の右側の人の方へチラっと見遣ります。
彼女もお湯に温められて、私と同じような色になってきていました。
さっきの背中越しの彼女の胸の柔らかさと、その先端の硬さを思い出して
少し恥ずかしい思いになります。
いまならこのままさっきのこともごまかせられるよ、そう私の中のわたしがいいます。
私は彼女がとてもとても大好きで、とてもとても大切で。
だからこそ、彼女にふれたいし、性別の、血縁の垣根さえも超えて、
もっともっと彼女にふれて、彼女にふれられて・・・・そして2人で居られたら。
どれほどそれが幸せなことなのかを、でもそれがどれほど尊いことなのかをわかっているからこそ
このまま彼女の旅立ちを見送るべきなのでしょうか。
でも、私の「好き」って気持ちだけじゃだめなんです。
彼女からの「好き」って気持ちもなくては・・・・。
そうでなくては、私は本当に人間失格者になってしまう。
湯気に囲まれて、沈黙をやぶりました。
「・・・・わたし」
「うん?」
「・・・私ね、お姉ちゃん大好きだよ」
「・・・・」
言ってしまおう、と思いました。
どうせ人間失格になる結末がまっているのならば、
もう、いいじゃないか。体裁とか、まして、彼女の思いさえも。
ここは浴槽で、今だけは昔と変わらずにここに私と彼女だけ。
あの頃のように、浴槽の深さも、彼女の中腰も2人で笑え合えた時の私のままで。
希望がなくても、私がほしいのはいつだって彼女だけなのだから。
「えっと・・・それは・・・・」
「えっ・・・・と・・・・それってつまり・・・///」
「キスをして・・・抱きしめて、胸をさわって・・・それ以上のことも――――」
「う、うい・・・す、ストップ!!!!ストップ////」
私のいきなりの告白に動揺したのでしょうか。
バシャバシャという音とともに彼女は私の口をその手でふさぎました。
彼女の頬がほてっています。湯あたりする前に、ここをでなくてはいけない。
でも、私はもう止まれないのです。
口をふさがれている手を右手つかみ、そのまま彼女を抱き寄せます。
「うい・・・ちょっとまt―――」
彼女の言葉も中途に、私は彼女の唇に自分のそれを押し付けました。
「ん、ん、んっ」と、彼女の元から今まで聞いたことがない
高く、甘ったるい声が聞こえます。
僭越ながら私はそれまでキスの経験がなかったので
息継ぎの仕方がわかりませんでした。
それは彼女も同様のようで、苦しいのか、
酸素を欲した彼女はしだいに唇の上下の距離が遠くなっていきます。
私も苦しかったのは同じでした。
でも、このチャンスをものにしないわけにはいきません。
私は彼女の唇にただ自分の唇を押し付けているだけの状態から
彼女の唇を自分のもので覆うようにし、
彼女の上唇と下唇の間から自分の舌を入れました。
人間の、というよりも私の舌はそれほど長くないらしく、
彼女の口内の入り口の辺りまでしか届きませんでした。
届かない・・・・彼女の中には入ってるのに・・・私はこれ以上、先にはいけない
彼女の、私の行動に対する表情が見たくなくて閉じていた眼を開いてみました。
彼女は眼を瞑っていましたが、私の視線を感じたのか眼を開けます。
酸欠でしょうか。その眼は涙で満たされていました。
その顔を、かわいいと少しでも思ってしまった私にはサディストの癖があるのでしょうか。
人間失格という烙印を押されるかもしれない状態にもかかわらず、
自分のそんな一面を発見してしまうとは・・・。
それでも、私も酸欠になりかけてきたので私は彼女の口と自分の口を離しました。
プハッという音とともに、彼女との間にわずかな隙間ができました。
私は彼女を抱き寄せたままの腕の力は一秒たりとも弱めていないので
彼女が抵抗しても無駄なあがきだったのですが、
口を離しても彼女はそのまま私に抱かれ続けており、
「抵抗」という言葉を微塵にも感じさせませんでした。
お互い息は整えつつあるのか、上下にゆれていた肩の波が穏やかになってきました。
「うい・・・」
「・・・おねえちゃん」
もちろん、私に非があることは否めません。
でも、彼女に嫌われたって、どうせ数日後に彼女は去っていくから、問題はないのです。
その後ちょっとだけ、私と彼女は家族的にやりににくくなって、
私は、私の生きがいを失うだけです。
・・・・モンダイハナイノデス
人間失格の烙印を押される覚悟なんてまだ全然出来ていない私に彼女は言います。
今日はなんていう日なんでしょう。
「・・・・私も、大好きだよ」
そして、こう続けます。
「でも、こういう無理矢理はちょっとイヤか、も・・・・///」
私の頭は彼女よりもちょっとばかし速く働くので
その言葉の意味を瞬時に理解できました。
かなづちで脳天を叩かれたような衝撃が胸にきます。
感激で、むせび泣きそうです。
「流石に浴槽に二人は狭いね」
「う…うん…///」
「もっと抱きしめて、うい」
彼女は優しく私にほほえんでくれました。
それは子供の頃のときのままの笑顔、でも、たしかに身体ごと気持ちも私に向いている笑顔。
さきほどの言葉を少し訂正しようと思います。
今日はなんていう日なんでしょう。
私は彼女となら、人間失格者という役割を喜んで担いましょう。
私、
平沢憂の役割は彼女、平沢唯といる限り、彼女が決めてくれるのですから。
おわり
最終更新:2011年04月10日 22:10