『言うなら、社会へ向けての人格生成……もう面倒だから止めたいんだけど』

態度には出さず、りっちゃんは手話で愚痴り始める。
その内容に吹き出してしまう前に、彼女を目で制した。

『……高校生らしく楽しむべき行事はありますが、それでも決して気を緩めることなく……』

諦めたのか、渋々通訳を再開し始める。

2学期の始業式。
私と、通訳のりっちゃんは別枠に席を取っていた。
前回の時は他の生徒に混じっていたけど、今回からは教師も付き添う。
さっきの会話を止められなかった辺り、私達の手話は読めていないようだけど。


「疲れた」

りっちゃんが机に突っ伏す。
あの有難い校長先生のお話を、長々と通訳するのは大変だろう。
長文の通訳は初めてだったはずだ。

しかし彼女の通訳は、詰まることも無く、非常に正確だったのを覚えている。
それこそ、正式に通訳の仕事を引き受けても良いというくらい。

あれをやれと言われたら、きっと私は出来ないと思う。

不意に、口を突いて出た言葉が。

「手話するの、嫌にならないの?」

そんな、りっちゃんに対して非常に失礼な言葉。
なのに彼女は、嫌な顔を見せず、むしろ笑みが見られた。

「ならないよ。
 手話を覚えないと、ムギと話せて嬉しいってことも伝えられないから。
 伝え合わないと、ムギのこと何も分からないもんな」

りっちゃんの手話の上達は早い。手の動きがたまに読めない時がある。
生きる為に手話が必要な私が、この様だ。
本当に、駄目さ加減があまりに過ぎる。
私がりっちゃんの傍に居られる為に、もっとりっちゃんに相応しい人間にならないと。

「つかさ、ムギから離れる訳無いだろ。
 私がこんなに頑張ってるのは、誰の為だと思ってる?
 ムギは何の為にこの学校に残って頑張ってるんだよ」

この学校に居るのは……皆と一緒に居たいという我儘。

「私はムギが好きだ。離れろって言われたら、ストーカーになってでも追いかけてやるからな」

「そう、ね。
 私も離れろって言われても離れないわ」

遠慮は要らなかった。
今の私がそれを言っても、失礼になるだけ。

私だって、りっちゃんから向けられる好意は本物だって理解している。
りっちゃんが歩み寄ってくれるから、歩み寄れる。

私は今でも、聴者に向き合うのはごめんだ。
でも彼女達は違う。
人を区別するのは良くないと思うけど、彼女達に歩み寄るのは好きだ。
失聴者を避ける人が居るのは変わらない事実だし、私もそういう人とは関わりたくない。

私は悪くない。
健聴者同士でも、好きな人、嫌いな人の区別なんて誰でもやっている事だから。


いつの間にか眼前に居たりっちゃん。
私の両頬を摘んで伸ばす。

――難しい事考えるなよ――

やっぱり見透かされているなあ。

「そんなことよりな、もう新学期始まったんだから文化祭ライブのこと考えようぜ」

何だか難しい話に持って行ったのはりっちゃんの方なのに。

「そうね、私もまだまだだもの」

夏休みに頑張って練習した甲斐もあって、曲の演奏はなんとか熟せるようになっている。
それでもまだりっちゃんには遠く及ばない事は、ちゃんと自覚していた。

「私は、ムギちゃんはもう十分過ぎるくらいだと思うけどなー?」

唯ちゃんがくるんと此方に向き直す。コードが綺麗に跳ねた。

「そうですね。ムギ先輩、すごく頑張ってます」

私は、まだ足りていないと思うけれど。
でもそれは自身の考えだ。彼女達には彼女達の考えがある。

「でも、失敗するわけにはいかないもの」

「ムギちゃん。もうちょっとリラックスリラックス。
 ほら、そろそろ休憩にしようよ!」

「駄目です、唯先輩、もう少しキリの良い所までやりましょう」

渋々従う唯ちゃん。
初めこそそうだったけど、表情はすぐに引き締められた。


「んじゃ、そろそろ休憩入れるか。ムギ、お茶頼むな」

「任せて」

一旦集合し、楽器から手を放す。
何か規則を作ったわけではないけど、最近の部活は時間で綺麗に管理されていた。
それもりっちゃんが先頭を切っているから。

「ムギちゃん。さっきの続きなんだけど、やっぱり表情が硬いよ」

「そうかしら……?」

自分でそのつもりが無くとも、そうなっている可能性は十分にあった。

「失敗しちゃいけないから……仕方無いわ」

「もーまたそれだよ? 成功しなくちゃいけない、って訳じゃないんだから、気楽に行こうよ」

気楽に、と言われて出来れば苦労はしない。
私とりっちゃんの二人で勝手に進めた変更なんだから、失敗が許されないはずがない。

「……どんな気の持ち方でも、本番を前にしたら緊張するのは当たり前よ。
 失敗するより成功した方が良いのは当然だし、やっぱりどうしても、気が抜けないのかもしれないわ」

唯ちゃんは珍しくフォークの動きを止めて、私の話に耳を傾けている。

「やっぱり、その、音が分からないから、やってても楽しくない?」

「ううん、ドラム自体は楽しいの。でも皆と音を合わせている、って感じがあまりしないのも事実かしら」

「ねぇりっちゃん。何かいい方法ないのかな?」

フォークを咥えたまま腕を組むりっちゃん。
一頻り視線を回した後に出た答えは。

「考えとくよ」

「そんな適当なこと言われてもな……」

「私が、ムギの耳を治せる訳がない。
 方法を考えはするけど、所詮一女子高生の知恵だからな。
 何とかしてみせるだとか、そっちの方がよっぽど曖昧で適当に聞こえるだろ?」

しん、と静まり返る部室。
誰も、何も言わない。
私も立場上、何も言い出せない。今の私にその資格があるのか。

「……悪い。
 なんか私、最近こんな発言ばっかりだな」

ケーキの最後の一口を頬張り、先に一人キーボードに向かうりっちゃん。
いつもとは違う、優しく撫でるような指遣いだった。

そんな彼女に合わせるように皆も食器を片付け、練習を再開する。
私も、逃げるように練習に没頭した。



音が分からないからってなんだ。
皆との演奏は、ずっと私の中で大切な思い出であり続けている。
それがあるだけで、私は軽音部として頑張れる。

私が音楽を出来るだけでそれは幸せなこと。
これ以上望むことなんて無い、出来ない、しちゃいけない。

もうどうしようもない事なんだから。


一曲演奏し終わり、スティックを置く。
大丈夫、私はやれる。

「ムギ、そろそろ着替えた方がいいぞ」

「もう皆着替えちゃったの?」

今朝山中先生に渡された衣装に着替える。
改めて見ると、可愛いけど恥ずかしいのは確かだ。
今回のライブの為に、山中先生も頑張ってくれた。
在学を認めてくださった校長先生も、私を避けないでいてくれたクラスメイト達もそうだ。

「……皆。ちょっといいかしら」

「どーした? さすがのムギも緊張してきたか」

緊張ももちろんあるけど。

「皆のおかげで、こうしてライブまで来れたわ。
 ううん、ライブとか部活以前に、この学校に居られたのも皆のおかげよ。本当にありがとう」

「気にするなよ。そんな風に、礼を言われるようなことはしてないぞ?」

「お礼なら、このライブを成功させて返してくれたらいいからさ」

それっぽっちじゃ返せそうもない。
本当に、一生分と言っても足りないくらい。


「私はムギちゃんと一緒が良かった。
 だから、この学校に居てくれてありがとう」


唯ちゃんは、いつも私の為に泣いてくれた。
それが私をただ心配する気持ちであることが、私にはとても嬉しかった。


「ムギの努力は知ってる。
 今度こそ、本当の意味で皆を喜ばせような」


澪ちゃんは、私が不自由なくやっていけるように、いつも考えていてくれた。
自分は何も出来ない、って思ったりもしたみたいだけど、そんなことない。


「ムギ先輩には、私達がついてます。
 折角のライブなんですから、馬鹿みたいに楽しまないと損ですよ」


梓ちゃんは、私が初めて仲良くしようとした健聴者の人。
遅れていても頑張って手話を勉強して、私と会話をしようとしてくれた。


「よく、ドラムの練習を頑張ってたと思うよ。もうとっくに私以上だ。
 ムギはムギの感じるままに演奏してくれていいぞ。私達もそれに乗っかるから」


りっちゃんは、いつだって私の未来の人生を照らしてくれた。
彼女が居なければ、私はきっと今とかけ離れたものになっていたに違いない。


本番前だというのに、思わず泣きそうになる。

「私……頑張る。
 今まで私を支えてきてくれた人達全員の為に、精一杯演奏するから」


皆もきっと楽しみにしている。
以前は逆効果だった期待も、今ならしっかりと受け止められる気がしていた。

聴力を失ってから、丸一年。
このライブは、私にとって非常に大きな節目となる。
これはもう、作業じゃなくて演奏なんだ。
精一杯楽しもう。


「んじゃ行くか。遅刻はマズイ」

生徒会はスケジュール管理に忙しいし、あまり迷惑を掛けたくない。
もう思い残すことは無いし……行かなくちゃ。

「ムギ。手貸せ」

差し出された手に、思わず手を伸ばす。
りっちゃんの暖かい手に確かに握られた。

「手を握れば分かるよ。ドラマーとしてどれだけ頑張ってるか」

手を引かれ、そのまま歩き出す。
……こういう時でもやっぱりりっちゃんは人に気を遣っていた。
そういう性質か。


講堂に着くと、少しの違和感。
窓や扉に分厚いカーテンのような物が取り付けられている。
それも二重三重である。
さらに言えば、講堂に入る時の人物承認も厳重になされているようだ。
言い方は悪いが、まるで危険区域。


「何かあったのかしら……?」

「これからあるんだよ」

そうして、りっちゃんは懐からある物を取り出した。

「ムギ。何も意味は無いからこれを付けて演奏してくれ」

それは耳栓だった。
何も無い、って……どう考えてもそれは有り得ない。
かなり、怪しい。

「えーと、つまりな……」

「良いわよ、りっちゃん。
 りっちゃんは考え無しに何かをするなんてしないもの」

元々耳は聞こえていないのだし、問題は無い。
耳栓なんてするのは、生まれて初めて。


楽器を運び入れ、檀上へ。
まずは、一曲目。練習を思い出せ。

「ワン・ツー・スリー!」


いつの間にか、皆が耳栓をつけていた。
檀上から見渡す客席。観客はせわしなく動いているように見えた。
塞がれた講堂に、厳重なチェック。入口待機の生徒会の人が持っていた荷物。
最初から見当はついていたのかもしれない。
これが、りっちゃんの策か。

期待したかったけど、もしかしたら駄目なんじゃないかって、それをしなかった。
正直予想は出来なかったし。

振り下ろした手から衝撃が伝わる。
それと同時に、確かに私の体を動かす音を感じた。

唯ちゃんの音が、澪ちゃんの音が、梓ちゃんの音が、りっちゃんの音がする。


一曲目、終了。


振り返る皆の笑顔。
新歓ライブでの皆の顔は、私の目にはこんな綺麗に映っていなかった。
私は大丈夫、ということを伝える為に、こちらもとびっきりの笑顔で返す。


二曲目、開始。


自分でも分かった。
多分私は、今までの人生の中で一番演奏を楽しんでいる。
まるでそう、空でも飛んでいるようだ。

ははっ、と笑い声が零れる。
まるで初めて音楽に触れたばかりの子供みたいに。
ただ馬鹿みたいに腕を振るっていた。


二曲目、終了。


正直、体は疲れてる。
でも終わりたくない。
この軽音をもっと楽しんでいたい。
今すぐ叩きたくてうずうずしていた。

そんな私の様子を察したのか、澪ちゃんがトーク中の唯ちゃんを制する。


『ごめんね、次行くよ、ムギちゃん』


三曲目、開始、終了。



後片付けは、それはもう大変だった。
あれが私の為に、私に黙って行われたものだから、何もしないわけにはいかない。

そして、今年の桜高祭は終わりを告げた。


「校長先生に頼みに行ったんだ。
 近隣住民の迷惑にならない程度に、限界まで音を上げられないかって。
 それだけじゃ足りないからって、カーテンと耳栓だったわけだ」

「いきなりでびっくりしたわ」

「あんまり上品なやり方じゃなかったけど……ムギが喜んでくれたら、それで大成功だよ」

「ええ。ありがとう」

お世話になったドラムセットに手を乗せる。
また、あの時の感触が甦ってきた。

「お、やるか?」

「出来れば、ね?」


そうして、部室でもう一度ライブを行った。
音量を上げなくても皆の音が分かるような気がして、本当の意味で一体化しているように感じた。


「ムギちゃんは、進路どうするの?」

高校三年生。人生において非常に大事な時期。

「ここよ」

資料を見せる。
ちなみに進路指導の先生方に調べてもらったもの。

「……遠いな……」

「大学側の、理解がある所らしくて。例えば過去にも聾者のホームステイ制度だってあるぐらいだって。
 福祉学科の学生がノートテイクを受けていて、それの報酬も出るとか。
 耳が聞こえないのは事実だから、こういう選択で行くつもりよ」

志望大学は遠い。
多分、皆とはそう簡単には会う事が出来なくなるだろう。
ただ、普通の大学では周りに迷惑が掛かってしまう。

「私もここにしよっかなぁ」

「はいはい私もそうする!」

そう言い出すのは予想してた。本当にどうかしてる。

「おーいムギ。なんだよその顔」

「進路はもっとしっかり決めて欲しいんだけど……」

「これでもしっかり決めてるよ。ムギと一緒のトコが良い。
 私は本当に頑張って手話覚えたんだからな。
 それが高校卒業したら使い道が無くなる、なんて納得できるか」

凄い台詞を聞いた。

「じゃあつまり、りっちゃんは自分の都合で、私と一緒の大学を志望するのね?」

「おうともさ」

「もちろん私もそのつもり!」

えへん、と胸を張る唯ちゃん。
そんな威張った顔で言うことではないけど。
けど、嬉しい。

あくまで自分の為に。
それがたまたま私と同じ進路だっただけ。

「私も、同じだ。
 ムギと一緒の所、受けたい」

澪ちゃんも来てくれる。
皆、一緒。

「あんまり褒められた事じゃないかもしれないけど……
 でもムギと一緒に居たいのは律も唯も、私も同じだよ」

「ふふ、澪ちゃん、珍しいこと言うのね」

「まあな」


彼女達は、私に歩み寄ってきてくれた。
私も同じ気持ち。

「ありがとう、皆……」

「だから偶然同じになっただけだっつの」

幾度となく私を助けてくれて、私に希望を持たせてくれた。
私は、大好きな皆と居られるのが何よりも嬉しい。

これからも彼女達との付き合いはずっと続いていくだろう。
傍にいてくれるだけで、私は大学でも頑張っていける。


「進路も決めたことだし、まずは新歓ライブのことを考えよう!」

「おぉーっ!」

「演奏だけじゃないぞ。このままじゃ梓が一人になってしまうからな」

「まぁまぁ澪ちゃん。私達がしっかり演奏したら、それが勧誘になるわ」


もちろん、軽音も続く。
初めて触れた時よりもっと強く想うようになった。
音の無い世界でも、確かに主張を続けている。
どんどん大きさを増して私の心を打つ音は、これからも続いていくんだ。


                                    おわり



最終更新:2011年04月18日 23:29