唯は何も答えない。
ベッドに腰掛けたまま、所在なく指先を弄って一人遊びをするだけだ。

「私の荷物も、もう全部持って帰るからな」

部屋の中を見渡して、自分の物が他にないか捜す。

私はテーブルの下に、律に貸すつもりのあのCDを見つけた。
あの日から、ずっと唯の家に置き去りにしていたんだ。

私はそれを拾おうとした。

すると、唯は立ち上がり、私の腕を掴んだ。

私の手からCDが落ちて、中のディスクが床に転がる。

「絶交しちゃうの……?」

私は首を横に振って答えた。

「違うよ。唯とは友達。これからも、ずっとな。でも、ああいうのは友達のする事じゃないだろ?」

「わかんないよ、そんなの」

「私もわかんないけどさ」

「だったら、やめることないよね?ね?」

私の腕を掴む唯の手をそっと離してから、私は言った。

「ごめん、唯。唯のためでもあるんだ」

「やだよ」

「聞き分けてよ」

「やだ。大丈夫だよ。寝坊しなければいいんでしょ?」

「そういうことじゃなくて」

「やだ」

唯の目に涙が溜まる。
唯は私の首に腕を回して抱きついて、耳元で何度も「やだ、やだ」と言った。

私だって、出来ることならやめたくない。
これからもここで、唯とベッドの中で、極端な事を言えば一生唯とひっついたままでもいい。

でもそんなのは律が許してくれない。
ムギも梓も憂ちゃんも、誰も、許してくれない。
恋愛だったら何人かは許してくれるのかもしれないけど、それが伴わない、そう、火遊びはしちゃいけないって私はママに教わってる。
全部決まってるんだ。
世界はそういう風に出来ている。


そこで、私はふと疑問に思った。


本当に?
じゃあ、ここはなんなんだ?
この部屋は、私達を責めたりしない。
今まで一度も、そんなことはなかった。
ロケットのパーツみたいに本体の世界から切り離されて、ポトンと落ちたように、ここは独立していて、決まり事なんてなかった。


私の峻巡を気取ったのか、唯は私の首に回していた腕の力を強めた。

私は慌てて唯を引き剥がした。

考えるな。
何をしにここに来たんだ。
今更迷っちゃダメだ。

「帰る。帰るから」

急いでCDを拾い、バッグに入れて、濡れたままのコートを着て、私は部屋を出ようとした。
唯が私の腕を掴んでそれを止める。

「唯、離して」

「やだよ……。行かないで……」

「離してってば」

「澪ちゃん、行かないで……」

「唯!!」

私が怒鳴ると、唯はびくっとして腕を離し、ぺたんと床に尻をついた。

「ごめん唯。また大学でな」

私は唯を置いたまま、部屋を出ようとした。
ドアノブに手をかけたところで、私の動きが止まった。
雨音はますます強くなっていて、ドアの向こうから轟く。
目をぎゅっと瞑って、ドアノブを捻る。


その時、私の後ろから声がした。

私のお気に入りのあの声。
耳の奥に刺さる、鉄琴を優しく叩いたような、大声で囁くような、唯の声。

私は振り向いた。
唯は床にべったりと座ったまま、自分の下着の中に手を入れていた。
その手が蟲みたいにもぞもぞと動く。

「う、う……あ、あぁ……」

私は耳を塞ぎながら、喘ぐ唯に駆け寄った。

「何やってるんだよ……」

唯は手を動かし続ける。

「ふっ、う……ううっ……」

誘ってるつもりか?
こんな不様なやり方で。

「唯、やめてよ。そんなの見たくない」

「うぐ……あっ……あ……」

大粒の涙を流しながら、唯は声を出し続けた。

「やめろって言ってるだろ!いい加減にして!」

私が強引に唯の手を取り、下着の中から引き抜いた。
濡れた唯の指先がぬめる。
唯の手を離すと、唯はだらんと力無く項垂れた。

それから、唯は顔を上げて、テーブルの上に置いてあった財布を取った。

「澪ちゃん、これ」

「……なんのつもり?」

唯は財布からお札を数枚取り出して、くしゃくしゃに握り締め、私の胸のあたりに差し出した。

「お金、お金あげるから……。ね?しようよ……」

どうして唯がここまで私に固執するのかわからなかった。

「澪ちゃん、ほら。ね?」

そう言う唯の目は、涙で潤んでいるけど、全く濁っていない。
純真無垢そのものだ。

私にとって唯は、可愛い友達で、今までしてきたのは新しいスキンシップだった。
友達であり続けるために、私は関係を終わらせようとした。
でも、唯はとっくの昔に、私の事を友達とは思わなくなっていたらしい。
その自覚こそなくても、お金で私の事を引き止めようとするっていうのは、そういう事だ。

いや、私もつい最近まで、唯を友達として見る事が出来なくなっていた。
一緒に料理なんて、もう随分していない。
買い物も行ってない。
会話だって、ベッドに入る前の義務に成り下がっていた。

「唯、そんなの仕舞って」

私はお金を握る唯の手をそっと押し返した。

「澪ちゃんに……あげるから……」

唯はなおも懇願する。

どうすれば唯は聞き入れてくれる?
どんな話をすれば。

会話、そうだ、会話だ。
全てそこから始まったんだ。
あの時の、将来の、唯の抱える不安の話。
あの続きをするんだ。

私は唯の手からお金をむしりとって、床に捨てた。
唯の肩に手を置いて、唯の目を見る。

「唯、ごめん。ちゃんと話そう。唯は怖いんだよな?将来が、大きすぎて怖いんだよな?」

唯は私の頬を両手で包んで目の中を覗き込んだ後、私のコートを脱がせた。

「違う……。唯、待って。話すんだよ、ちゃんと」

唯は私の上着の中に手を入れて、胸を触った。

「唯……」

唯に議論をするつもりはないらしい。
あの時喋りすぎたのか?
いや、きっと唯はもう忘れちゃったんだ。
将来の不安だとか、未来の選択肢だとか、そんな話、もうどうだっていいんだ。
それはそうだな。
私だって忘れていた。
あの時は確かに私も唯も不安に隈なく覆われていたけど、あれ以来、あんなことは一度も考えていない。
あれは身体を重ねる目的じゃなくてただのきっかけだ、今となっては。
気持ちよくて楽しいから、私達は続けていたんだ。
あの時の議論に照らし合わせるなら、唯は、目の前の宝箱を全部無視する事にしたんだろう。
私の身体を触って、私が次にどんな反応をするか……霧中に映る唯の未来は、それだけなんだ。

「澪ちゃん、可愛い……」

唯に首筋を吸われて、もう普通の友達には戻れないと悟った。

私は涙を流した。
それを見て、唯は私から身体を離した。

「澪ちゃん?」

本当にもう元には戻らないとわかり、怖くなった。
楽しい事は、楽しい事と引き換えになった。

雨音が私を笑っている気がした。
止んだ風音が私に呆れている気がした。
この部屋から出たくない。
外の世界は、轟音で私を虐める。
沈黙で私を問い詰める。

私は雨音を掻き消すように、声をあげて泣いた。

「大丈夫だよ。怖くないよ」

唯は自分の胸に私の頭を埋めさせて、何度も撫でた。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


どれくらい泣いていたんだろう。

泣き終えて、私は唯から離れた。

頭の芯が麻痺したみたいにぼうっとする。

「澪ちゃん、もう平気なの?」

鼻をすすって私は答えた。

「うん。唯は……?」

唯は、えへへ、と笑ってから、私を抱き締めた。

唯にとって、私は友達じゃない。
でも、唯は私に優しい。
私はなんなんだろう?
唯にとって、友達でも恋人でもないなら、私は一体?

唯は私の首筋に舌を這わせた。
私は拒もうとして唯の肩に手を置いて、ふと、部屋の隅に目が行った。

視界の下半分で唯の頭が動き、上半分が部屋を映す。
端にあるのは、ギー太とエリザベス。
視界の真ん中にそれを移す。
いつか見た様に、エリザベスは随分ここに馴染んで見える。

そして、私の正体がわかった。


私は肩に置いていた手を背中に回して唯を抱き返し、それから唇を重ねた。
唯の唇は柔らかくて暖かくて、でも少し乾いていたから、舌先で湿らせてあげた。

友達に戻れないなら、もうやめる必要なんてない。
唯の言うように、寝坊さえしなければいいんだ。
律が責めても、ムギが悲しんでも、梓が蔑んでも、そんなのは全部外の出来事。
雨音でうるさい世界の話だ。

涙涙のお話は、もうここにはない。

唯は嬉しそうに私の下着の中に手を入れた。

今なら、ようやく私も唯みたいに気兼ねなく声を出せる気がする。

「唯」

「なあに?」

「お金なんていらないからな」

「本当に?」

「本当に」

お金はいらない。
対価は何もいらない。
この部屋に愛情の条件なんてない。

ここにあるのは、
ギターが一本、
ベースが一本、
ベッドが一台、
照明が三つ、
冷蔵庫が一台、
ゲーム機が一台、
CDが数枚、
テーブルの上に雑誌が四冊、
本棚に漫画がたくさん、
人形がいくつか。


それから、私がひとつ。






おしまい



最終更新:2011年04月28日 00:26