「ふう……」
私はお風呂から上がり、部屋に戻ると、濡れた髪もそのままに、ベッドにバフっと身を投げた。
頬に濡れた髪が張り付いて不快だけれど、
今はそんな瑣末なことは気にならない。
もっといやな感情が、胸の奥で暴れまわっていたから。
瞳を閉じると、今日の部活での一時を思い出してしまう。
思い出したくなんかないのに。
―――
「こんにちは、オソクナッテすみま」
「あ~ずにゃん!」
今日もまた、挨拶も終わらないうちに、唯先輩に抱きつかれる。
「唯先輩、いきなり抱きつかないでください!」
別に唯先輩が嫌いなわけじゃないし、抱き疲れるのだっていやなわけじゃない。
正直に言うと、唯先輩だって好きだし、抱き疲れるのだって、
どちらかって言うと嬉しかったりする。
でもこうやって、いつでもどこでも抱き疲れると、ちょっと困ってしまう。
特に澪先輩の見ている前では。
それでも澪先輩が、
『唯、梓が困ってるじゃないか』
なんて言ってとめてくれた時は、さらに嬉しさが増すんだけど。
別に、それが嫉妬心や独占欲から出た言葉じゃないってことぐらい分かってるけれど、
それでもやっぱり嬉しかった。
今日もそんな言葉を期待して、澪先輩の方へと視線を向ける。
「ちょ、ちょっと律、やめろって」
「私のお薦めDVDが見れないと言うのかぁ!?」
「そんな怖いの見れるわけないだろ!!」
「ほらー、見てみろって!」
「うまいこと言ったつもりかー」
「うりうりぃ」
「いいかげんにしろ!」
「あいったぁ!」
私の気持ちも、ううん、私の今置かれている状況差へ知らず、
澪先輩はいつものように律先輩とじゃれていた。
気分がよくないのは事実だけれど、いつもなら、この程度のことは
よくあることだから気になんかしない。
だけど、今日はそれだけじゃなかった。
お茶してる時だって―――
―――
「今日のケーキはティラミスよ」
「わ~い」
「おっ、今日もうまそうだな」
ムギ先輩の言葉に、唯先輩と律先輩が歓声を挙げる。
「……今日は私はいいや。
唯、よかったら私の分も食べるか?」
そう言うと澪先輩は、自分のケーキを、唯先輩の前え置いた。
「やったぁ、澪ちゃん大好き!」
「え?澪先輩どうかされたんですか?」
「ううん、今日はちょっと……な」
私の質問には、そうあいまいに答えただけの澪先輩だったけれど、ムギ先輩が耳打ちすると、
二人で身を寄せてなにかこそこそと話し始めた。
(……ムギ先輩には話せるのに、私には話せないんだ)
仲良く身を寄せあって話をする二人を見ていると、さっきのことと相まって、
胸の奥に、嫌な感情がむくむくと芽生えた。
―――
「さて、みんな食べ終わったみたいだし練習するか」
みんながケーキを食べ終わったのを見計らって、澪先輩が、いつものように声をかける。
「え~、まだいいじゃんかよぉ」
「もっとお茶した~い!」
そして、これまたいつものように駄々をこねる律先輩と唯先輩。
「唯、今日はケーキ二つも食べたんだから、きちんと練習しような」
「うう」
「じゃないと今度私が要らない時あげないぞ」
「分かった!りっちゃん!練習だよ練習!」
唯先輩を宥めすかして練習に気持ちを向ける澪先輩。
いつもなら微笑ましい光景なんだけど……
「それにほっぺにクリームついてるぞ」
「え?どこどこ?澪ちゃんふいて~」
「しょうがないなあ」
唯先輩のほっぺ似ついたクリームを、自分のハンカチで優しく拭ってあげる所まで見せられると……
(私のことなんか全然見てくれないくせに!)
さっき芽生えた嫌な感情が、胸いっぱいに広がり、
はちきれそうになった。
私はずっと澪先輩のこと見つめていたのに、今日、
澪先輩と目が会ったのなんて、私が話しかけた一度だけ。
しかもすぐ逸らされたし。
(どうせ私のことなんて)
それからの練習は、もう、集中することなんてできなかった。
―――
「澪先輩なんて大ッ嫌い!」
私が、自分の感情を持て余して、枕に顔を押し付け叫んだその時、
携帯が振るえ、着信を知らせた。
(誰よ、こんな時に。
純だったら怒鳴りつけてやるんだから!)
純に対する、そんな理不尽な怒りを浮かべ、携帯のディスプレイを確認すると
【澪先輩(ハート)】
と表示されていた。
「澪先輩……」
私は震え続ける携帯の、そのディスプレイの文字を見つめる。
普段なら嬉しい澪先輩の電話なのに、今日は素直に出ることができない。
出ないで置こうかとも思ったけれど、私は躊躇いながら通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もしもし、梓』
「はい、澪先輩、どうされたんですか?」
なんの用なんだろうか?
練習に集中できなくって、酷い演奏したから、怒られるのだろうか。
でもそれはみんな澪先輩のせいなのに。
澪先輩が他の先輩方ばかり見てるから―――
私のことは、全然見てくれないから―――
そのせいなのに。
『いや、たいした用じゃないんだけど……』
私の声に、不機嫌さが滲み出ていたのか、澪先輩は少し口ごもってしまう。
『……今日、梓、元気なかったみたいだから気になって』
「…………」
思いもよらないことを言われ、私は言葉につまった。
『なにか悩みでもあるのかなって……』
なんてことだろう。
私が気がつかなかっただけで、澪先輩は本当は
私のことも気にかけてくれていたんだ。
「……えっと……」
『何か悩みがあるなら、相談してくれよ』
そして、こうやって心配して、電話までかけてくれた。
「あの、別にそう言うわけじゃ……」
『そう……』
澪先輩に申し訳なくって、私がなんていっていいかわからず、言葉を濁していると、
澪先輩は、ため息を吐くように、小さく呟いた。
『私に言えないようなことなら、唯や憂ちゃんでもいいから相談して、一人で抱え込まないようにな』
「……はい」
『私は、梓にはいつも笑顔でいて欲しいから……』
胸の中が熱くなる。
私は他の先輩方に嫉妬して、いっぱい嫌な事考えてたのに……
澪先輩なんか大っ嫌いって言っちゃったのに……
『……じゃぁ……また明日な』
「待ってください!」
澪先輩に謝らなきゃ。
そう思い、呼び止めたけれど、うまく言葉が出てこない。
だって謝っちゃったら私がやきもち妬いてたってこと言わなきゃいけなくなるし、
そんなことしたら、澪先輩のこと好きだって言ってるようなものだから。
『…………』
「あの……ありがとうございます!
私、もう元気になりました」
だから、謝る代わりに感謝の言葉を送った。
『……え?』
「澪先輩の声聞いたら元気になっちゃいました」
『そう、なの?』
「はい」
『それならよかった』
澪先輩は安心したように呟く。
それからは、今度やる新曲の話で盛り上がった。
―――
「あの、今度やる曲なんですけど」
『うん』
「イントロとか、ツインにした方がかっこよくないですか?」
『あぁ、それいいかもなぁっ!
じゃぁ、梓、ハモリのパート作ってみてよ?』
「え?私がですか?」
『うん、みんなに聴いてもらって、良ければ採用しよう。
大丈夫、梓ならできるよ』
「はい!やってみます!」
澪先輩が私に期待してくれている。
そう思っただけで、心が弾んだ。
―――
「よし!」
私はムスタンを抱えると、ICレコーダーの再生ボタンを押す。
今日、みんなで録ってみた新曲が流れ出す。
「これなら、あまり複雑にするより、単純な方がかっこいいかな?」
私は、イヤホンから流れてくる唯先輩のリフに合わせて
ムスタンを爪弾く。
「うん、こんな感じかな」
1時間ほどあれこれ悩み、なんとか満足いくフレーズを完成させ、
私はムスタンをギタースタンドに立てかけた。
そして、そろそろ寝ようかと思い、ICレコーダーを聴きながら、ベッドに仰向けになった。
私は瞳を閉じて、イヤホンから流れる曲に耳を傾ける。
澪先輩の伸びやかな声が、耳に、胸に、心地いい。
『あなたのためにカラメルソース
わたしのハートもカラメルソース
ちょっぴり焦げ付いちゃっても、あなたの火加減でおいしくなるの』
私ははっとした。
まるで今日の私みたい。
先輩方に嫉妬して、心が焦げ付いちゃっても、
澪先輩のたった1本の電話だけで、機嫌直しちゃって。
(やっぱり澪先輩はすごいなぁ。
恋する女の子の気持ちを、こんなに的確に詩にできるなんて)
『I'm 故意のパティシエ
甘さ控えめなあなたに
自家製のソースかけちゃおう♪』
『なんかエッチくさい歌詞だよな』
律先輩はそんなことも言ってたけれど。
私もそれを聞いて、思わず笑ってしまったけれど。
でも今なら、澪先輩の伝えたかったことも、なんとなく分かる気がする。
『ずっと見てるのに
あなたはなぜ気づかないの』
ほんとに。
なんで気づいてくれないんだろう。
自分は、こんな詩を書けると言うのに。
私はちょっと腹立たしくなって、澪先輩を少し困らせてやろうと思い、
携帯を手にとって、メール作成画面を開いた。
「これでよしっと」
私は、きちんと送信されたことを確認すると、パタンと携帯を閉じた。
(澪先輩はこのメールを見たら、なんて思うんだろう?
私の気持ちに気付くかな?
それとも意味が分からず悩んじゃうかな?)
私は、照れて顔を真っ赤にした澪先輩や、困惑して、真剣に
悩む澪先輩の顔を思い浮かべ、微笑むと、眠りについた。
『From AZUSA
To 澪先輩(ハート)
味見したくなったら言ってくださいね。
ほっぺがおちますよ(ハート)』
おしまい
最終更新:2011年05月11日 20:30