きっかけは些細な事。
ほんの些細な事から小さな、小さな歯車が欠けてしまった。
自分ではどうする事も出来なかった。



「あずにゃんー!ちゅー!!」
いつもの軽音部部室。
抱きつく唯を「やめてください」と梓が必死にブロックしている。
ムギはママ・・・、いやお母さんのような笑顔で微笑ましそうに二人を見ている。
そして律はまた変な事でも考えているのか、こちらの様子をチラチラと伺っている。
「まったく・・・」
ほら、練習するぞ。立ち上がりかけた私の身体にボスッと衝撃が走る。
「み、おー!」
律だ。
唯に感化されたのか、勢いよく私に抱きついてきた。しかしながらタイミングが悪かった。
咄嗟の事に反応が追いつかずバランスを崩す。
「わ、とっと・・・!」
ガタンッ、と音を立てて私が座っていた椅子ごと転倒する。
「痛っ・・・」
尻を擦りながら立ち上がる。
「ご、ごめん」と若干バツの悪そうな顔で私の顔を覗き込む律。
「調子に乗るな!」と拳骨を頭におみまいする。
ガンッ!
律のいつものノリとは言え、結構痛かった。それで私の拳にも若干力が入ってしまった。
「痛ってぇー!」
叫び声をあげる律。
よろめいた拍子に机にぶつかり、ティーポットが落下した。
まだ半分ほど入っていた紅茶が勢いよく律の足に掛かる。
「熱っちぃぃ!!」
律の叫び声と同時にパリンッと乾いた音を立ててポットは地面に激突した。
「あ・・・」
普段の律なら叫びながらピョンピョン、漫画さながらにジャンプして痛みを堪えるだろうと思っていた。
しかし、目の前の律はうずくまり、立ち上がろうとしなかった。いや、立ち上がれなかった。
「あ、あ・・・」
突然の事に頭がパニックになる。
カタカタと全身が震え、頭の中が真っ白になる。
「り、りっちゃん!大丈夫?!」
真っ先に動いたのは唯だった。
唯の声に紬、梓も我に返り、律に駆け寄って行った。
「りっちゃん!」
「だ、大丈夫大丈夫・・・!」
唯にでは無く、私の方を向いて強がってみせた。
「あ、あの、私・・・!」
どうしよう。
どうしよう。
そ、そうだ!破片・・・!破片、危ない。
壊れたポットの破片を回収しようとすると、紬に止められた。
「澪ちゃん待って!危ないから私がやるわ」
「あ・・・」
ちりとりと箒で手早く破片を回収するムギ。
「水、いや、保健室に連れていきましょう!唯先輩手伝ってください!」
「え、あ、うん!わかった!」
バタバタと手際よく律を抱えて外に出て行く二人。
パニックになった私はただ呆然と立ちつくす事しか出来なかった。

どれくらいの時間が経っただろうか。
静寂に包まれた部室は、時間も音も世界中の何もかもが吸い込まれたかのように静まり返っていた。
自分が情けなかった。
律を怪我させてしまったのは他の誰でもない、私なのだ。
律に一生残る傷跡をつけてしまったら私はどう償えばいいのだろう。
律・・・。
「・・・おちゃん。澪ちゃん!」
ハッと我に返る。
「ムギ・・・?」
振り返ると片付けを終えたムギがいつものように微笑んでいた。
「とりあえず座ろ。ね?」
「・・・うん」
ムギに誘われるまま自分の席に座る。紅茶の湯気はもう立っていなかった。
「ムギ、私・・・。私!」
ムギに対して何を言えばいいのだろう。
私はムギに何かを言って欲しかったのだろうか。
言葉を紡ごうとした私の唇に優しく人差し指をあて、
「りっちゃんなら大丈夫よ」
パチリとウインクをしてみせた。

「・・・悪いな、別方向なのに送ってもらって」
「ううん、澪ちゃんこそ元気だして」
その後、戻ってきた梓にまだ時間が掛かるから先に戻るよう言われた私達は帰路へとついていた。
「心配だから」とムギは家まで送ってくれた。
家の鍵を探す最中、ガラスに写る私と目が合う。・・・成る程、酷い顔してる。
律に何て謝ればいいんだろう。
律は大丈夫だろうか。
色々な事が頭の中をぐるぐると回る。
自分の部屋に帰ってきてもそれは同じだった。
ガチャガチャと同じスピーカーから好き勝手な音を出しまくっているような耳鳴り。
後悔。
謝罪。
心配。
結局夜は寝る事が出来なかった。

翌朝。
いつもの待ち合わせ場所に律は来なかった。
ギリギリまで待っても。
一度メールをしようかとも思ったが、何を打てばいいのかわからなかった。
拒絶されるのが怖かった。たとえそれがメールでも。
HRが始まる直前に教室に入ったが、やはり律の姿は無かった。
まさか病院に入院?
それとも自宅療養?
色々な不安が頭をよぎる。
しかし心配をよそに、HRが終わる直前に律はやってきた。
ガラッ!と勢いよくドアが開く。
「ごめんさわちゃん!目覚まし止まってたー☆」
よかった、いつもの律だ。
この声を何年も待ち望んでいたような錯覚さえ覚える。
律はズカズカと教室を縦断して席につく。
しかし、視界に入った律のいつもと違う様子に私の心がずきりと痛んだ。
包帯・・・。
律の足には白い包帯。
気にしている様子は無いが、恐らく強がっているだけだろう。
彼女は弱い所を決して人には見せない。そういう性格なのを私はよく知っている。
直視していられなくて私は律から目を逸らしてしまった。

昼休みにも、放課後にも。
律はいつもと変わらない笑顔で私に話しかけてくれた。
一言、ただ一言「ごめん」が言えたら。
「澪ってば!」
「・・・え?」
眼前に律の顔。
「どうしたー?何か元気無いぞー?」
ひらひらと私の目の前で手を振る。
「あ、ひょっとして?」
「!」
悪戯っ子のような表情に変わる律。
「オーゥ!澪!わかってる!皆まで言うな!うん!」
「・・・?」
きょろきょろと周りを確認し、トーンを落とす。
「・・・我慢すると身体によくないぞ?今のうちにいっとけって!」
「ふざけるなっ!・・・」
条件反射的に掲げた拳をふり下ろす事は出来なかった。
まただ。
またこの感覚。
ツッコミ待ちとでも言うのだろうか、律は律で妙なポーズを取ったまま私の顔を不思議そうに見上げていた。
「・・・その、ごめん」
その場に居たたまれなくなって、私は結局洗面所に走る事にした。
「調子狂うな・・・?」と律の声が聞こえた気がした。

その日、律と会うことは無かった。
教室に戻った私の机の上には律の書き置き。
『先に部室行ってるけど、具合悪いようだったら無理すんなよ』
今日、いつもと同じ調子を出せるようにはなれそうになかった。
私が行っても昨日の事がフラッシュバックして空気も悪くなってしまう。
そう思って一人帰路へついた。

次の日。
とても気が重かった。
ご飯も喉を通りそうに無かった。
両足に鉛を入れられたように学校への、いや、律の元への足取りが重かった。
「律・・・」
待ち合わせ場所には既に律が立っていた。
「よっ」
だが、そこに居たのは律だけでは無かった。
普段なら方向的に途中から合流する二人の姿もあった。
「澪ちゃんっ」
唯だ。だが何故だろう、唯の心配そうな目が私に語りかけてくる。
心配すべきは私では無く律なのに。
「ごめんね澪ちゃん。なんか・・、心配だったから」
ムギも同じだった。
「三人とも・・・」
「あーーー!!!」
突然律が大声をあげる。
ツカツカと私に歩み寄り、反対方向へと無理やり私の腕を引っ張る。
「澪の奴ー!何か熱あるなぁー!!」
「え?え?!」
突然の事に律が何をしたいのかがわからなかった。
「こりゃー家に帰さないと駄目だなー!」
っていうか私じゃなくて。
「ちょっと送り届けて来るから二人はさわちゃんに言って置いてくれー!!」
最初は歩きだった速度も仕舞には駆け足になっていた。
り、律、走っても大丈夫なのか・・・?
チラリと後ろを振り返る。
私と同じで状況を把握していなそうな顔で私たちとムギを交互に見つめる唯。
いつもの、いやいつも以上の微笑みで「行ってらっしゃい」と手を振るムギ。
そんな二人もいつしか見えなくなっていった。

通学路からは少し離れた公園。
律が買ってきた缶ジュースを投げてよこす。
「ふいぃー!全力疾走は堪えますなあ!」
ひたいの汗を拭いながらジュースを開ける。
「律・・・、その、ご、ごめん・・・」
「ほへ?」
私の発言にハテナマークを頭に浮かべる律。
「その・・・」
足の包帯を指さす。
「え?これ?!」
コクン、と頷く。
「・・・・・・」
間。
「ぷっ」
「あはははははははは!!」
「・・・えっ?!」
突然律が笑い出す。
「あっははははははは!!」
何がおかしいのだろう、バンバンと座っていたベンチを叩き出す。
「え、澪。まさかコレでずっと元気無かったのか?!コレで!」
まだ「あははは」と笑い転げている。
「な、何で笑うんだよっ!」
「ごめんごめん!」
はーっ、と深呼吸。
目尻の涙を制服の袖で拭う。
「悪かったな・・・」
「な、何で律が謝るんだよっ!悪いのは・・・」
「大丈夫だよ、ちょっと大袈裟に包帯巻いてるけど、痕も残らないってさ」
「律・・・」
「ごめんな、澪」
きゅっと私の身体が抱き寄せられる。
「律・・・」
距離が近くなり、ふわりと律の匂いが鼻腔をくすぐる。
「ありがと」
「こっちこそ、ごめん」
一番言いたかった言葉。
やっと言えた素直な気持ち。
緊張の糸がぷつりと音を立てて切れた気がした。

ぴりりり
ぴりりりっ!
「・・・?」
あれ・・・?
公園・・・?
「げ、さわちゃんだ」
寝ちゃってたのか・・・。
律はばつの悪そうな表情を浮かべ、通話ボタンを押す。
『りっ・・・、田井中さんっ?!やっと出た!今何処に居るの!!』
こちらにも聞こえる程のさわ子先生の声。
「何処って、いやぁ、その?」
『平沢さん達に朝言われたから、でもお家に連絡しても二人共戻ってないって言うし・・・』
ちらりとみた時計の針は1時を指していた。
「ごめん、さわちゃんっ。色々あってさぁ」
『ごめんじゃありません!全く、もう少しで警察に連絡も考えたんですからねっ!』
「えへへ・・・」
『それで、秋山さんは一緒?』
「うん・・・、一緒だよ」
『もう、大丈夫?』
「ありゃ、さわちゃんお見通し?」
『伊達に顧問やってるわけじゃ無いわよ、早く戻ってらっしゃい』
スカートのポケットに携帯を仕舞う。
先にベンチから立った律は、うーん、と背伸びをする。
「こりゃ大目玉だなっ」
へへ、と笑う律。
・・・ああ、いつもの律だ。
私が見たかった大好きな律の笑顔。
「いこうぜ」と手を差し伸べてくる。
その手を取り二人で学校へ歩き出す。
「なんだよ」
「へへー、いいじゃん」
再び固く結ばれたその手が解かれる事の無いように。
強く握りしめた手を繋ぎ二人で歩き出す。
もう、何も怖くなかった。


終了





最終更新:2011年05月12日 23:46