唯「音楽準備室のリタ・ヘイワース」
音楽準備室の壁に穴が開いているのを見つけた。
不思議なことに、その穴は外人女性のポスターで隠されている。
明らかに何らかの器具で穴を広げたと思われる痕跡があって、私はますます首を傾げた。
誰が、どうしてこんなことを?
泥棒だろうか?
だとすると、ちょっと怖い……
「はあ、穴?」
休み時間に相談すると、姫子ちゃんは不思議そうな顔をした。
私だって同じ気持ちだ。
「穴……でも、なんで私に相談するの?」
だって、姫子ちゃん強そうだから。
「これまた微妙な……ま、いいけど。ちょっと観に行こうか。昼休み、まだちょっとあるし」
姫子ちゃんは頼りになる。
和ちゃんとはまた違った方面で。
それに、学校の壁に穴が開いている、なんて、生徒会長の和ちゃんに言う勇気は、私にはない。
姫子ちゃんはさっさと歩いて、音楽準備室の扉を勢い良く開けた。
ざっと見渡して、手を広げる。
「穴なんて無いじゃん」
あるよ、ほらここ。
「あ、本当だ。ていうか、このポスター……」
えっちいね。
「え、うん、なんかごめん。でも、これ泥棒でも何でもないと思うよ」
どうして?
「いやあ、ちょっと言いたくないかな。えっちいとか思われたくないし」
そんなことを言って、姫子ちゃんはじっと穴とポスターを見つめる。
そして、けらけらと笑い出した。
「あはは、結構愉快なことするなあ。うん、ちょっとイメージ変わったかな」
そんなもんかな、やっぱ、なんて言いながら、姫子ちゃんは音楽準備室を後にした。
私はしばらくポスターを眺めて、それを捲り穴を見て、縁を触って、教室へ戻った。
教室では、風子ちゃんと和ちゃんが弁当をつっつき合っていた。
「最近本の返却が遅れてる人が多いみたいだよ。アキヨが困ってた」
「そうなんだ」
「そうなの」
風子ちゃんが訴えかけるような目で和ちゃんを観ている。
和ちゃんは何かに気づいたように、ため息を付いた。
「なんとかしろってのね」
「うん、まあそんなとこ」
和ちゃんがなんとかすることなの?
「そりゃまあ、生徒会の建前としては、健全で規律正しい学園生活を守らなきゃだから」
規律正しいって、例えばなにか壊しちゃったりしたら、和ちゃんに怒られるってこと?
「……なに、唯、あなたなんか壊したの?」
和ちゃんがじとっと睨みつけてきたから、私はすごすごと退散した。
気になる。穴がとても気になる。
珍しく放課後の部活で練習をしていても、気を抜くと準備室のほうを見てしまう。
あの、中指の先から第二関節くらいまでの深さしか無い、小さな穴が、何故ポスターなんかで隠されているんだろう。
その日部活を終えて、私はしばらく音楽室に残った。
やはりどうしても我慢ができなくて、準備室のポスターを捲る。
穴が広がっていた。
掌ほどの大きさしか無かった穴は、今では人間の頭より少し大きいくらいになっている。
そして、中指が全部埋まるくらい深くなっている。
私はぞっとして学校を出た。
校門の傍まで走っていき、肩で息をする。
夕陽が校舎を照らす。
あそこだ。あの、外から見れば何の変化も認められない、あそこの壁。
その内側で、少しずつ穴が広がっている……
「唯ちゃん?」
突然名前を呼ばれて、私は飛び跳ねた。
後ろで、柔らかい金髪の女の子が怪訝そうな顔をしていた。
「なにしてるの?」
なんでもないよ。
「……本当に?」
本当だってば。
「そう」
ムギちゃんは、何をしてるの?
「私はね、図書館に行くの。本返さないといけないから……図書館警察が来ちゃうしね」
ムギちゃんはくすりと、妖しく笑った。
ぞく、と背筋が凍るような思いがする。
私は恐る恐る、図書館警察について尋ねた。
「図書館警察はね、その名のとおり、図書館の警察なの。
期限が切れても本を返さない人がいると、その人の家に行って本を持ってっちゃうのよ」
それだけ……別に怖くないよ?
「本当に? 本当に怖くないの?」
ムギちゃんが目を見開いた。
私はその視線に射られて、動けなくなる。
「そう……唯ちゃんは図書館警察が怖くないの……そうなの……」
くすくすと笑いながら、ムギちゃんは図書室のほうへ歩いて行った。
私は走って家へ帰った。
家に帰って、すぐに部屋にあがり、布団に潜り込む。
そして、視界に入ってしまった。
少し開いたドア、その間には、ただ空間があるばかりだ。
なにかがいるわけでもないが、空間がいる。
時間と一緒に、けたけた笑っている、そんな気がする。
怖い。怖い、怖い、怖い……
図書館警察は怖い。
頭の中は、ちょっと話しに聞いただけの図書館警察でいっぱいだ。
多分、図書館警察は、あの穴から出てくるんだ。
本の返却期限が迫るに連れて、あの穴が大きくなっていくんだ。
どろどろと、まっくろな塊が穴から出てきて、少しずつ不恰好な人の形をなしていくところを想像して、私は口を抑えた。
電話がなった。
「お姉ちゃーん、電話出てくれる?」
夕飯を作っているらしい妹が、大声で私を呼ぶ、
私はそろそろと階段を降りて、電話をとった。
綺麗な女性の声が聞こえてきた。
優しい声だったが、その第一声が……
「こんにちは!図書館警察です。お宅の憂さん、返却期限を守ってくれないんですね?
スティーヴン・キングのゴールデンボーイ。返してくれないんですか、どうしてですか……」
私が唖然として、ただ受話器の声に耳を澄ませていると、その声は突然切れた。
次いで、掠れた声で歌が聴こえる。
「紙を捲って歴史を眺めて思想を食んでは吐き出して……」
私は受話器を急いで置いた。
そして、リビングから顔を覗かせた妹を無視して、再び私は全速力で学校へ向かった。
穴を塞ぐんだ。
穴を塞いじゃえば、きっと大丈夫だ。
そう何度も自分に言い聞かせても、流れる冷や汗を止めることは出来なかった。
汗が流れていく、風景が後ろへ飛んでいく。
そうして、学校についた。
さっきまでの威勢はどこへやら、急に私の足は動かなくなった。
それでも、無理に動かして、一歩ずつゆっくりと音楽準備室へ向かう。
しかし、見つけてしまった。
もう、穴が開いている。
真っ暗な、顔くらいの大きさの穴は、音楽準備室に続いている。
出てくる、きっと出てくる、図書館警察が、私の妹を連れに……
「あ……うああ……憂……」
「やっほー!図書館警察でーす」
ムギちゃんがにこにこと笑って穴から顔を出したときには、私は泣き出していた。
「あの、本当にごめんね……そんなに怖がってるなんて思わなくて」
怖いよ……
「いや、もっと、ドッキリ大成功!みたいなノリになるかと思ったの……」
……穴、ムギちゃんが開けたの?
「うん、このあいだ掃除したときに見つけて、なんとなく面白そうだと思って」
面白い?
「うん。ちょっと、悪いことをしてみたくなってしまいました……姫子ちゃんからポスターを貰って隠したりもしました……」
ムギちゃんがシュンと肩を落とした。
私も大分落ち着いてきて、なんだか面白いと思えるようになってきた。
「広げたはいいけど思ったより使い途がなくてね、こんなふうに使ってしまいました……」
そう。割と面白かったよ?
「ホント!?」
うん、ちょっと怖かったけどね。
「うふふ、唯ちゃんならこういうの怖がると思ったわ……想像力あるもんね?」
その時のムギちゃんの顔は、なんていうか、旧知の友人みたいな、気のおけない姉妹みたいな優しさがあった。
そんなことがあってから、私はたまにモダンホラー小説を読んでいる。
思うに、人を怖がらせるには、喜ばせるのと同じくらい、その人のことを知っていないといけないのだ。
証拠もある。
「ばあ、図書館警察だー!」
「きゃー」
ある日、私が穴から顔をのぞかせると、ムギちゃんは胸に鞄を抱えて、私を見上げて微笑んだ。
「可愛いよ」
そう言われたとき、私はすっごく、嬉しかったんだから。
最終更新:2011年05月13日 02:38