「おはよー梓ちゃん」

 声がしたので振り向いた。いつからいたのだろう。同級生である平沢憂が天使のような無垢な笑顔をこちらに向けて立っていた。
 驚いた梓の顔が瞬時に強張る。
 止めるタイミングを完全に逸してしまった右腕は風車のように回転し続けて、単調に繰り返される一種類のコードが部室にこだまする。
 自分以外誰もいないからと調子に乗ったのが運の尽きだった。朝っぱらから訳もなく部室でウィンド・ミル奏法を真似ていたところ、憂にいきなり声をかけられたのだ。
 恥ずかしくて顔が熱い。心臓が高鳴った。
 憂の視線は真っ直ぐこちらに向いている。なにもそこまで見つめなくてもいいだろうと言いたくなるほど真っ直ぐだ。視線が痛いというのはこういうことかと梓は思う。まるで心臓を掴まれてるように息苦しさを感じる。
 ようするに、いまの梓はチェックメイトされたキングだった。
 生かすも殺すも憂次第。反撃の余地はない。
 さっさとトドメを刺してほしいと梓は思う。いや、このまま何も言わずにこの場から立ち去ってほしくもある。可能であるならば、なにもなかったことにしてほしい。だけど、それは不可能だ。
 憂に決定的瞬間を見られたことは事実であったし、たったいまも憂の視線はこちらに向けられたままで、この度の失態を完全に消し去ることはできない。
 それなら被害を最小限に抑えることが、いまやるべきことなのだと梓は思う。
 部室を流れる空気が重かった。見えないプレッシャーに押しつぶされそうだった。
 そんななか、遂に憂が口を開いた。

「……梓ちゃん? なに――」「おはよ……」

 追及をさせまいと、挨拶を返してやり過ごそうとした。だけど、次の手が思いつかない。
 口を開けたまま、憂はなにかを探すように部室内をキョロキョロと見回し始める。
 憂に気付かれないようにあくまでさりげなく、何事もなかったかのように右腕を静止させようとする。けれど再び憂の視線が戻ってきて、右腕は再加速を余儀なくされた。潔く止めればいいのだろう。でも、止めたときになにを言われるかわからなかった。だから梓は止めるに止められなかった。
 憂は沈黙したままだ。
 単調なギターコードだけが、部室に繰り返し鳴り響いている。
 どちらか先に動いたほうが負けと言わんばかりに、視線による鍔迫り合いが繰り広げられた。まるで睨めっこのようだと梓は思った。暗黙のうちに人間の尊厳を賭けた勝負をしているのだ。いや、憂にその気があるのかは不明だし、そこまで大袈裟なものではないけれど。どちらかといえば、自身の面子を賭けた一方通行な勝負で しかないけれど。
 それを勝負と言うのか置いといて、お互いの視線は依然として絡みあったまま動かない。
 梓にとっては退路を断たれ、味方もいない孤独な戦いだった。
 その死闘とでも言うべき戦いは永遠に続くかと思われた。
 ところが、予想外の人物がこの泥沼の戦いに終止符を打つ。

「おはよ。二人とも早いじゃん、ってなにしてんの?」

 声のした方を見ると、鈴木純がちょうど部室に入って来たところだった。
 純の視線はやはり梓へと注がれる。

「あっ……」

 新たな訪問者の登場に、思わずマヌケな声を漏らしてしまった。
 もっとも見られてはいけない人物に見られてしまった。梓の頭の中はあっというまに絶望感で一杯になって、図らずも右腕の動きを止めてしまった。
 これまでの努力が水の泡となった瞬間だった。
 梓は茫然と突っ立ったまま動けなかった。
 事態を理解できない憂と純。
 そんな二人も含めて、三人は今日から三年生だった。

「あはははっ」
「そんなに笑わなくてもいいじゃん……」
「ごめんごめん、ぷぷっ」

 始業式を終えて教室に戻ろうというところ。純は飽きもせずに先ほどの醜態を思い出しては笑っていた。これは一週間ぐらいはネタにされそうだな。そう考えた梓は憂鬱になって、ため息を吐く。これもみんな唯先輩のせいだと梓は思う。一年前の始業式の日、唯先輩がウィンド・ミル奏法をしていなければ、さっきだって真似す ることはなかった。そもそも真似する必要は全くもってなかったのだけど、誰もいない部室に一人でいたら、たまたま一年前のことを思い出してしまったのだ。ただ、それだけのこと。だから、責任は全て唯先輩にある。中庭に咲く桜の木の向こうに唯先輩の顔を思い浮かべながら、今度会ったときには思いっきり文句を言ってやろ うと梓は思った。

 放課後、憂と純と共に軽音部の部室に再びやってきた。新学期の初日なので、まだ正午前だった。
 ソファに鞄を置いていると、

「梓っ、澪先輩が座ってた席ってここだよね」などと、純が訊いてきた。

 純が指し示す先にあるのは、確かにこれまで澪が主に座っていた席だ。

「そうだけど」
「座っていい?」
「……うん」

 梓が頷くと、純は嬉しそうな顔をしながら椅子を引き、腰を下ろした。

「うわぁ、なんかものすごい不思議な感じ」
「なにが?」
「だってさぁ、つい最近までここに先輩が座ってたんだよ。そこに自分が座ってるのがなんとも言えない感じ」
「ふーん」

 純の言っていることがいまいち共感できなかったので返事が適当になる。

「あれ、反応薄っ。あれか、梓は元々この部にいるからそういうのないんだね」
「そりゃあ、もう二年もいるし」

 軽音部に入部してから約二年。あっという間だったと梓は思う。新歓ライブで感動して入部したものの、入部直後はこの部活でちゃんとやっていけるか不安だった。それがいつのまにか、軽音部はなくてはならないかけがえのない存在になっていた。先輩達と過ごした二年間は夢のような時間だったと形容してもいいぐらいに、濃 密で大切な二年間だった。
 梓が過去を思い出していると、肌寒さの残る風が頬を撫でた。見れば、憂が窓を開けて外を眺めている。なにを見ているのか気になって、憂の隣から同じように外を見た。花弁をひらひらと散らしている満開の桜。その下をおしゃべりしながら歩く生徒達。それらを強すぎず弱すぎずの春の陽光が照らしている。
 その景色に思わず目を奪われていると、

「特等席だね」と、憂が目を細めて言った。
「うん」

 そういえば先輩達ともこうやって、この窓から色々な景色を見てきたっけ。そのことを思い出して梓は微笑む。

「どうかした?」
「ううん、ちょっと思い出し笑い」

 憂はそれを聞いて優しく微笑む。

「こんな風に先輩達と外を見てたことがあったんだ。ぼんやり眺めてるかと思えば、誰かがおかしなこと言ったりして、なんか……楽しかった」
「いいなあ羨ましい~」

 憂と話しているところに、急に純が割り込んできた。
 梓と憂の間から顔を出して、抱え込むように二人の肩に手を回す。

「なに、いきなり」
「だって二人で固まってるんだもん。私のこと忘れないでよ」
「別に忘れてないよ」
「えーぜったい忘れてた。ま、いいけどさ。ところでなに見てたの?」
「桜とか見てただけ」
「なんだ、なんか面白いものがあるのかと思った」

 すぐ横で純が残念そうにため息を吐く。

「ところでさぁ。梓、どうすんの?」
「どうすんのって?」
「決まってるじゃん。わたしたちのバンド名」

 そっか、バンド名を考えないといけないのか。そんなこと考えもしなかった。いや、考えたことはあっても意識的に避けていたのかもしれないと梓は思う。新たなバンド名を考えるということは、いままで使っていたバンド名から離れるということでもあるから、そのことに抵抗感があるのは事実だった。
 放課後ティータイム。
 いまでは胸に染みついて離れないその名は、先輩達がバンド名を決めきれずにいる中でさわ子先生がいい加減に決めたもので、梓の意見は少しも反映されていない。だけど、梓はそのバンド名が好きだ。大好きだ。
 もちろん先輩達が卒業したいま、放課後ティータイムの名を継続して使う理由がない。そもそもが先輩達が作ったバンドなのだから、使うとしたら大学にいる先輩達が使うべきだろう。どう考えても、一人残った自分が使うのはおかしい。梓にもそれはわかっている。この三人でやるのなら新たなバンド名を考えるのは当然の成り 行きで、いつまでも九文字の名前にしがみついている自分がへんなのもわかっている。だけど、だからこそ、梓は辛いのだ。放課後ティータイムの名にさえ、時の流れというものを感じとってしまうから、感じざるを得ないから。

「まだ考え中?」

 純の声に考え事に耽っていた頭が現実に引き戻される。

「うん……」
「カワイイのとカッコいいのどっちがいいのかなー。憂はどっちがいい」
「わたしはカワイイのがいいかな。あ、でもでもカッコいいのでもいいよ」
「わたしもカワイイのがいいなぁ。梓は?」

 どちらかといえばカワイイのがいい。いやいや、そのまえにもう一度確かめておきたいことある。梓は遠慮がちに小さな声で、

「あ、あのさ。二人は本当にいいの?」
「なにが」

 純が首をかしげてこちらを見る。その視線が梓にとっては恐くもあった。

「前にも聞いたけど……本当に軽音部に入るの?」

 二人が石になったように固まる。
 なにかへんなことを言っただろうか。梓は慌てて言葉を付け足した。

「ほら、これから受験生になるわけだし、色々と忙しかったりするでしょ。入部してくれるのは嬉しいけど、無理しなくてもいいというか……」

 それを聞いた純は憂にかけていた手を解くと、梓の両肩をがっしりとつかんできた。

「いまさらなに言ってんの。梓だって確保ぉって喜んでたじゃん」

 肩をつかむ手に力を入れて、純が少し怒ったような声で言った。

「それはそうだけど」
「とにかくわたしはもう腹を据えて軽音部に入るって決めたんだから、梓はそんな心配しなくていいよ。ね、憂」

 純が振り向いて憂に同意を求める。憂は優しい笑みを浮かべながら黙って頷いた。

「だ、か、ら、部長! バンド名考えよ」

 純が必死に訴える。そして、にっこりと笑う。
 こうまで言われたら、自分も覚悟を決めるべきだろう。二人の為にも、先輩達の為にも、部長としてやるべきことをやらなくちゃ。新入生は来ないかもしれないけれど、もう後ろを見ないで先輩達と一緒にいたときと同じように、この一年を駆け抜けよう。きっと二人となら頑張れる。梓は決心して、

「うん。ありがと……」

 照れくさいけれど純には感謝だ。

「あはは、照れてる照れてる」
「別に照れてないよ」
「顔真っ赤にして言っても説得力ないって」
「赤くなってなんかないもん」

 折角の感謝を笑って返す純に、コントみたいにわざとらしく反論する。このやりとりが照れくさいと同時に恥ずかしくもある。でも、なぜだか心地よくもある。その心地よさは春の風みたいに優しい気持ちにさせてくれる。だから自然と笑みがこぼれる。二人がいるから、照れくさくても恥ずかしくても、ついつい笑みがこぼれて きてしまう。それって幸せなことだなと梓は思う。
 よし、まずは一歩を踏み出そう。前へ、前へ、一歩ずつ。三人で肩を組みながら、一歩ずつ。気づいたときには来年だ。
 梓は一人誓うと、未来へ続く名前を決めるため、二人にこう声をかけた。

「バンド名、放課後ティータイム2じゃ駄目だよね」
「……………………」

 二人の唖然とした表情が、梓にはたまらなくおかしかった。


                               お わ り



最終更新:2011年05月23日 19:54