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同日(2007年・11月12日)

きょうしつ!

数学教師「次のページいくでー」

《和“だって、能力を持っている以上、それを使わないのはエゴだもの。心の贅肉だわ”》


数学教師「せやから、違う2つの数がおるとするやろ」


《和“ねぇ、唯。唯のその眼だって、発揮しようと思えば何かに使えるはずでしょう?”》


数学教師「自分を除いた約数の和が、お互いの数と等しくなるような数。それがこれや。
 不思議やろう? まるで、お互いがお互いに補完しおうとるみたいで。人間と一緒やな」

《和“それをせずに日常を食いつぶすのは――”》




《和“甘えてるか――逃げてるだけなんじゃないの?”》


数学教師「完全数とこれの説明せよちゅうんはテストに出すからなぁ。
 ちなみに、一番小さい数はなんやと思う? えー……平沢。答えてみ」

唯「わかんないよ、そんなの……」ボソッ

数学教師「ほぉ……? オレの授業はそんなに解りにくいかぁ?」

唯「ほ、ほぇ!? ええええええええええええ!!?」

風子「おおーい、何してんの、平沢さーん」

\ドッ/

◆◆◆

3/三日前(2008年・2月9日)


 ――――そして、そこには何も無かった。


 私が観測したそれは、全てが欠落してしまったような、「無い」ということすら無い、虚無の海の中。
 ああ、とうとう、私は死んでしまったのだ――――初めはそう考えた。
 けれど、これが死であるとするなら、私は間違いなく生きている。
 なにがなんだかわからない。
 いや、どうしようもなく理解はしているけれど、その「理解」は私の外側にある。
 それを、夢と呼ぶ事に差し支えはないだろう。
 目覚めればいつものように病院のベッドの上で、死に瀕している私という救いようのない現実があるのだ。

 まだ幼い子供の頃、私は病に倒れた。
 具体的には悪性新生物の類であると聞かされたが、詳しいことは未だに理解していない。
 聞いた限りで私に分かったのは、確実に死に繋がるもので、治癒が難しいということくらい。
 通院を繰り返したものの一向に回復せず、とうとう長期入院を余儀なくされた。
 候補にはいくつか有名な病院があって――オリバー、だか、ガリバー、だか
 ともかく、遠い県外のものもあったけれど、住み慣れた地元が一番だろうということで、桜ヶ丘市立病院に搬入された。


 眠りに――否、正しくは昏迷と呼ぶべき意識の中で、私はいつだって何もない夢を見た。

 眼を閉じれば、次はいつ目覚めるとも解らない。

 その事実に、私は周囲の人たちほど危機感を感じなかった。


 なぜだろう。


 そこにはなにもないのに、一人ではないと感じるのだ。
 天使様でもいらっしゃるのだろうかと、少女じみた考え方に笑ってしまいそうになる。
 実際のところ、私は少女と呼んで間違いないし、そんなときは笑えるほどの身体の自由も利かないのだけれど。

 怖い、という感情は、とうの昔に麻痺していた。
 死に触れすぎた私は、おかしくなってしまったのかもしれない。
 これが運命というのであれば受け入れよう。
 私個人の生き死になど、世界という大きな尺度から見れば所詮は瑣末事なのだ。

 ……ただ、一つだけ残念な事がある。

 数年前に、両親に買ってもらったギター、フェンダー・ムスタングを満足に弾けていないことだ。
 調子の良いときには暇さえあれば練習していたけれど、もう随分と触っていない。
 どうせ死んでしまうのなら、思いっきり演奏してからにしたい、というのが私の望むささやかな願い。
 まあ、無理だろうと諦めてもいる。
 もう満足に指も動かせないし、元々、人というものは少なからず未練を残して死んでゆくのだ――――


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同日 (2008年・2月9日)


 ――――ふと、目覚めた。

 ややあって、肩を揺すられている、と感じる。
 どこか遠くの方で平沢さん、と、声がする。気遣うような優しいアルト。
 瞼を押し上げて、大きな欠伸を掻く。
 腕枕を解いて上体を起こすと、背骨が乾いた音を上げながら小さく鳴いた。

?「は、ははは……」

 笑いというよりはむしろ呆れの色が強い声が右隣から聞こえる。
 最初に眼に入ったのは、夕焼けのオレンジ色だった。
 窓の方見ると、夕日は完全に沈みきっていた。

 でも、まだ夜じゃない。夕方が、空に中指の第一関節だけで捕まってぶらさがっている。
 拍手を打って、もう一回打つために広げた手のひらの間の空間みたいな時間。
 境界線のように、オレンジと水色が空に敷かれている。

 ――――水槽の底に、街が沈んだみたい。

 雲が水草で建物がオブジェなら、私たちは差し詰め魚だろうか。

?「おーい?」

 放課後の息遣いが聴こえる。
 運動部の掛け声と、吹奏楽部のトランペットと、
 演劇部の発声練習と、誰かの笑い声と、あわただしい足音と、
 上から響く椅子を引き摺る音が全部仲良く一緒になっていて。



 ――――寝起きということもあるだろうけれど、放心状態だ。

 呼び戻すかのようにトン、と、気安く肩を叩かれたのはすぐ後。

唯「ほぇ……?」
律「やっと気が付いた」

 くしゃり、と笑う、溌剌そうな女の子がいる。
 眼の焦点が、まだ合わない。
 かろうじて確認できたカチューシャとおデコで、誰かを察する。
 彼女は、クラスメイトの――


唯「あ……田井中さん、おはようございます……」

律「おはよう!? もう放課後だっつーの!」


 やっぱり平沢さんってどっか抜けてるよなぁ、と明朗な笑い声が聴こえてくる。
 笑われた。けれど、悪い気はしない。彼女の人徳のお陰だろうか。


 両手をぐっと天井に伸ばしてから、机の隅に置いていた眼鏡を取り、掛ける。
 眉唾物の話だけれど――遠い異国の地の魔術師が
「ちょっと癖のあるエメラルド」で作ったのだと両親から聞かされている。

 お守り――みたいなものだ。
 これをかけていると、何故だかとても安心できるから。

 あ。そういえば、これを掛けている最中に、あの頭痛が来たことって、ないなぁ――――

律「ん……平沢さんって、目、悪いの?」

唯「……そうだね。そうともいえるし、そうでないともいえる、かなぁ」

律「どういうこっちゃ……」

唯「あー。細かいことは気にしない気にしないっ。
 それよりも、起してくれてありがとうございました、田井中さん」

律「死んだように寝てたからな……少し心配になったんだよ」

唯「これから同好会?」

律「いや、もう終わったとこ。忘れ物取りに来たんだ」ヒョイ

唯「そっかぁ。……来年こそ、部になれるといいですね」

律「っ、私はまだ諦めてないからな! 平沢さんの入部も、新入生もぉ!
 なんか、何よりも、そう、私は“会長”よりも“部長”が相応しい気がする!」

唯「普通に考えて、会長のほうが立場的に上だと思うけど……」

律「うっ……」

唯「田井中さんも、どこか抜けてますね」クスクス

律「うるさいやい」

唯「そういえば、忘れ物って言うのは?」

律「ん? ああ、倫理の教科書だよ。明後日小テストだろ?
 流石にやっとかなきゃ不味いかなーって思ってさ」

唯「ああ……そういえばそんなことが。
 ………………ね、田井中さん」

律「んー?」

唯「どうにもならない運命って、あるのかなぁ」

律「またそりゃあ哲学的な。んー……漫画で見たんだけどさ。
『“この世の出来事は全部運命と意志の相互作用”で成り立っている、
 ならば意志の力は、運命を変えるもの足り得るのだ』。ってさ」

唯「…………」

律「運命を切り開く意志の力、って、なんだかカッコいいとおもわねー?
 だから私は――どうにもならない運命、だなんて。
 そんなもん、ないんだって、思いたいね」

唯「……わぁ。なんだか、すっごくかっこいいなぁ」

律「ふっふっふっ、オレに惚れたら火傷すっぜー」

唯「でも――うん」

律「ん?」


唯「斬るのなら――得意、かな」


律「……?」


■■


 かみさまは何の意味もなく力を分けない。
 君の未来にはその力が必要となるときがあるからこそ、その直死の目があるとも言える。
 だから、君の全てを否定するわけにはいかない。

 でもね、だからこそ忘れないで。
 君はとてもまっすぐな心をしている。
 今の君があるかぎり、その目は決して間違った結果は生まないでしょう。
 聖人になれ、なんて事は言わない。
 君は君が正しいと思う大人になればいい。

 でも、よく考えて力を行使しなさい。
 その力自体は決して悪いものじゃない。
 結果をいいものにするか悪いものにするかは、

 あくまで、君の判断しだいなんだから。

            ――――ある まほうつかいのことば

■■


4/現在(2008年・2月11日)


唯「……やんなっちゃうなぁ、もぉ」


 眠りに就いたような深夜の町並みは、“線”を際立たせる月明かりに照らされている。
 相変わらず恐ろしいのは変わりないけれど、無理に意識を向けなければ、生物のそれほど強烈な不快感は感じない。
 最近はこの光景について観察する余裕も生まれてきた。
 ………どうやらこのひびのように走る“線”は、渦巻くような“点”を起点に描かれているらしい。
 “点”は、多分、死そのもので。
 試した事は無いけれど、その“点”に強く触れれば、それはきっと死んでしまうのだ。

 …………何故、こんなものが私にだけ視えるのだろう。
 疑問は尽きないけれど、それを教えてくれる人はいない。


唯「――――――――ほぇ?」


 ふと、気付く。
 “線”が、少しずつ濃くなっているのだ。


 ―――振り返って、来た道を眺めてみる。

 なんだろう。
 そういえば先程から、あてもなくふらふらと歩いていたと思ったけれど、
 よく考えてみれば、何かに誘い込まれるように自宅から一直線に、道を歩いてこなかったか―?
 この先の桜ヶ丘にある建物は、たった一つ。


 このまま歩いていると、本当に地獄のようなモノに呑みこまれてしまうのではないか――


 そんな想像に、背筋が寒くなる。


唯「―――でも。なんでだろ」


 私は、この向こうへ行かなければならない。
 そんな、義務感のような、焦燥感のような衝動。
 それが何であるのかも理解できないまま、私は夜の街へと踏み出した。


 “線”の濃い、闇へ。アリアドネの糸に縋るように。



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同日 (2008年・2月11日)


 ――――その女の子の姿は、まるで死そのものだった。


 小柄な躯は痩せ細り、その悉くが病魔に侵されている。
 死に難い部分を見つけられないくらいの、女の子。
 “点”はまるで穴のように大きく、“線”が隙間なく埋め尽くしている。


 熱に浮かされたような気分で、その子の側に立った。


 私は今、白い墓標のようだと常々思っていた場所にいる。
 正確にはその内部の奥深く、寝静まった病棟の一室に。


――ああ、そういえば、一度だけ、診察で訪れた時に此処でアレが発症したことがある――


 溺れそうになるほどの“点”と“線”の濃度に、脳髄を絞るかのような激痛に絶叫しながら気を失ったのは苦い思い出だ。
 病院、という土地柄が――そこに集う空気が、人が、それを形作っているのだと思ったけれど。
 違った。それは、違ったのだ。


 この女の子の――私の死に、近づいたから!


 口の端が、釣りあがる。
 熱っぽいため息が出る。
 海の上をゆらゆら漂う波が光を浴びたかのように波打ち、目に眩しいくらい白いシーツ。
 全身が心臓になったみたいだった。耳鳴りをかき消すかのような心臓の鼓動。
 うるさい。音が固まって、床に積もっているかのように静かなんだから。
 邪魔しないで。私とこの子だけにさせてよ。
――コレが恋と囁かれれば、私は何の迷いもなく納得するだろう。


 湧き上がる感情は望郷にも似た――探し求めた片割を見つけたような、慕情。


梓「―――――――…………」

 とても自然に、強く意識して、私はその死を視る。


《和「だって、能力を持っている以上、それを使わないのはエゴだもの。心の贅肉だわ。
 ねぇ、唯。唯のその眼だって、発揮しようと思えば何かに使えるはずでしょう?
 それをせずに日常を食いつぶすのは――甘えてるか――逃げてるだけなんじゃないの?」》


        そうして、やっと理解した。


《律「運命を切り開く意志の力、って、なんだかカッコいいとおもわねー?
 だから私は――どうにもならない運命、だなんて。そんなもん、ないんだって、思いたいね」》



梓「――――――――天使、さま――――――――?」




    私の眼は、これを殺すためにあったのだと―――――



5/  (2008年・2月12日)


憂「――――お姉ちゃん! なにやってたの、こんな時間まで!」

唯「……ぉおう!? ふぇ? えぇ、と」


 家に帰り着くと、憂に烈火の如き勢いで叱られた。
 玄関のドアを開けた所は確かに覚えていて、でもどうやって帰りついたのかは覚えておらず、


 あれ、そもそも私は何をしていたんだっけ――?


 玄関先で、泣きながら怒るという器用な真似をする妹の顔をマジマジと見つめながら、
私は散歩から帰宅までの記憶が、脳味噌からごっそり抜け落ちていることを認識する。


憂「…………お姉ちゃん?」

 心配そうに覗き込む妹の姿に、いつものふにゃりとした笑顔で答える。

唯「―――ううん、なんでもないよぉ」

憂「……何か、あったの?」

 憂が眉をハの字にしながら、伺うような声色で訊ねて来る。
 手に握り締めていたお守り代わりの眼鏡を差し出されて、
私はそれ両手で受け取ると玄関の靴置き場に置いた。

 さっきまでのことは何も覚えていない。
 ――覚えていないけれど、これだけは識っている。


 このお守りは、もう必要ない。


 靴を脱いで、玄関に上がる。
 追いすがるような憂の視線が私のそれと絡まって、見詰め合う。
 憂の瞳に写る私の笑顔はしまりがなく、だらしないけれど。どこか晴れ晴れとしていて。

 何かに感づいたらしい憂が、お姉ちゃん、と言葉を重ねる前に、私はその髪の毛に触れた。
 指先に細く、指通りの良い滑らかな感触が乗る。


 久方ぶりの――――否。それどころの話じゃない。
 きっと、十年ぶりになるスキンシップ。


 憂の頬が真っ赤に染まっていく。
 その微笑ましさに、つい、笑みが深くなって。



唯「そうだねぇ。きっと、いいコトだよ。」



 ――――――――――しばらく後、私は、覚えていない誰かと再会する事になるのだけれど。

 とりあえず、この物語はここでおしまい。
 あとは、新しい季節が新しい物語を紡いでくれるだろう。

 今はただ――――――――――――――

 運命の糸の色は赤じゃなくて黒だったんだよ、って真面目な顔で言う私を

 何馬鹿なこと言ってるんですかって言って、可愛らしく怒ってくれる君のことを待ってる。


      おしまい!



最終更新:2011年06月04日 22:59