9. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:55:11.48 ID:BD9wf7ABo
外よりはいくぶんか良かったが、ロビーは空調が効いているとは言えなかった。
「ムギ先輩はちょっと休んでてください」
「大丈夫。平気だから」
そうは言っても紬の顔は真っ赤なままで声にも力がない。
「いいから無理しないでください」
宿のパンフレットをラックから二冊とり、梓はそのうち一枚を紬に渡した。
「私が見てきますから、ほら、座って休んでてください」
梓はパンフレットで軽く紬を仰いでやりながら言った。
紬は目を閉じて吹かれながら申し訳なそうにありがとうと言って、ソファに座った。


梓を待つ間、紬はまずロビーのテレビを観て時間を潰した。
高校野球の中継を紬以外に見ていたのは、一番前のソファに座っていた老人だけだったので、ここは大して客の入らない宿なのかもしれない。
紬自身は特に野球が好きというわけでもなかったので、「あのお爺さんが応援してるほうが勝ってくれたらいいな」となんとなく思いながら中継を見守った。
しかし程なくしてその老人は席を立ってしまった。
どうやら老人も大して興味がなかったと見え、拍子抜けした紬はクテンと横になってパンフレットを開いた。
パンフレットによると宿泊客には送迎バスを出しているらしく、当日は今みたいに暑さにやられる事がないとわかって紬はほっとした。
その後はただ目を瞑って梓を待った。

10. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:56:38.85 ID:BD9wf7ABo

下見の旨を受付で話した後、大体の紹介と案内をしてもらった梓は、
「じゃあ用も済みましたし帰りますか?」
と横になって休む紬に自販機で買ったスポーツドリンクを渡しながら訊いた。
「え?もう帰っちゃうの?」
赤いままの頬にペットボトルを当てながら紬が残念そうに訊いた。
「だってムギ先輩、足痛そうですし」
「あ、うん。そうだよね」
とは言え、梓も実際のところ物足りなさを感じていた。
そもそも下見をする必要自体なかったし、下見をしようと言い出したのも唯と律で、それにかこつけて遊ぶつもりだったその二人は結局夏季レポートを残してしまっていたせいで時間がなくなり、紬と梓になったのだ。
そういった経緯を思い返すと、梓も遊んでしまってもいいような気になってきた。
「ね、梓ちゃん。せっかく来たんだし、ちょっとだけ海見ていこうよ」
梓の心情を察したわけではなかったが、タイミングよく紬が提案した。
「足、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。ただの靴擦れだもん」
「じゃあ……」
腹は決まっていたが、少し考えるフリをしてから、
「行きましょうか」
と梓は答えた。

11. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:58:09.68 ID:BD9wf7ABo

――宿から歩いて5分のところに、湾状の海岸がある。
潮風避けの雑木林を歩く。
塩の匂いをのせた風が木々の隙間を流れ、葉が日陰を作り、涼やかになった。
そこを抜けると潮騒の轟きが聞こえてくる。
長く高い堤防にところどころ階段があって、それをのぼってようやく海が見える。
しきりにサンダルと指の間を整える紬の手を引いて、梓はその階段をのぼった。
「あ。梓ちゃん、あれ」
紬が指差す方を見ると、「遊泳禁止」と書かれた看板が立っている。
「あ……ここ泳いじゃだめだったんですね」
「うーん……それなら合宿は他の場所にしたほうが良さそうね」
道理で……と紬はさっきの宿に客入りが少ない事を納得した。
あてが外れた二人は「ふぅ」と溜息を漏らしたが、いよいよ下見の大義名分はなくなった。

12. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 16:01:44.91 ID:BD9wf7ABo
階段を上りきると、ぼっという音と共に髪が風になびいた。
人影はほとんどなく、犬の散歩をしている人、カイトをあげている人がいる程度の静かな浜辺。
カモメすらいなかった。
営々と築かれた雲と白い砂、蒼穹の空と海面が広々と並存し、そのパノラマの間に入るはうねった形状の小さな岬。
「わ……」
二人同時に小さく声を上げた。
体積のある風がばたばたと鳴る。

「叫んだらやまびこ聞こえる?」
「山だからやまびこなんじゃないですか?ここ、海ですし」
それでも紬はやってみたそうな顔をしていたので、梓はひとつ咳払いをしてから「せーの」と声をかけた。

「わーーーっ」

声は風に押し返されただけで反響しなかった。

顔を見合わせた後、一段一段、トントンと階段をおりた。
靴の裏から砂の柔らかい感触が伝わる。
「サンダル脱いじゃったほうがいいですよ」
歩くのが少しずつ早くなって、辛くなった紬に梓が促す。
「うん」
サンダルを脱いで指先に引っ掛けるように持つと、紬は梓を引っ張りながら軽くなった足で小走りになった。

13. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 16:03:31.50 ID:BD9wf7ABo
流木の破片を避けながらさくさく砂を鳴らして波打ち際まで行き、紬はおそるおそる波に足をひたす。
「つめたい!」
嬉しそうに紬が言うと、梓も靴を脱いで足を出した。

砂の中に足を埋もれさせて、よせてかえす波の動きを感じているうち、動いているのは波ではなくて自分の足のような気がした。
その錯覚のすぐ後、やはり波が動いているという感覚。
かかとの周りに砂がひっかかって積もる。

時折、大きな波がくるとひざ下まで濡れて、そのたびに二人はうれしくなった。
裸足で砂を踏みつけ、水を蹴り上げ、しぶきが顔にかかるとことさらによろこんだ。
波から逃げて、波を追いかけ、手で水をすくってまき散らして、声を上げる。
梓の目に紬の金髪が空に溶け出すように映り、紬の目には波打ち際の濡れた砂と梓の黒髪が重なって見えた。
身体を日に晒しながら海水に冷やされて汗を気化させていると、水彩画の中にいるように輪郭が薄く透けていく気がした。
15. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 16:05:23.08 ID:BD9wf7ABo
――堤防に並んで座り、二人はカイトを見上げた。
太陽はもう真上まで来ていて影を短くしていた。
ぬるくなったスポーツドリンクを代わる代わる飲んで喉を鳴らし、空っぽになったペットボトル越しに海を見ると、容器の中で波が動いた。

「いいなぁ。私も凧あげてみたい」
「じゃあ合宿の時に持っていきましょう」
「うん」
「普通はお正月にやるんですけどね」
「私、やったことない」
「私も二、三回くらいしかやったことないですけど」
「あ、ねえ梓ちゃん。今日ずいぶん日に当たったけど平気?」
「え?」
「焼けて黒くなっちゃうんじゃない?」
「あっ!……もういいです、手遅れです」
ふふ、と笑って、紬は手を広げて仰向けになった。
「汚れちゃいますよ、髪」
「いいの。もう塩できしきしになっちゃったから、私も手遅れだもん」
そう言うと、紬はまたシャララと歌いだした。
梓はカイトを見上げたまま、紬に合わせて口の中で小さく歌ってみたがまるで別の歌に聴こえてしまいそうなのですぐにやめた。
きっとはしゃぎ過ぎからだ、と梓は思った。


首が疲れてきた梓は足元に視線を落とした。
サンダルを脱いだままの紬の素足の爪先に砂が残っている。
梓が手で払ってやるとペディキュアの光沢のある爪が見え、砂粒はぱらぱら落ちて地面に吸い込まれて見えなくなった。






おわり



最終更新:2011年06月27日 21:12