夏だったことは覚えている。
やけに氷の、互いにぶつかるやわらかな音が耳に残っているから。

「ところで、さ、キスしたことある?」

いまさらそう聞いてきた、私の幼馴染である、彼女は、
その言葉を口に出した後、アイスティーを一口分だけ口に含んで、あまい、とささやいたようだった。

「ようだった」というのは、彼女のその動作を、
私がこの目で実際に見たわけではない、ということを示している。

私は、音を聴いたのだ。
カランとした、氷の互いにぶつかる音を。

彼女のそれに私が答えてしまうことは、とても簡単なことだった。
私は、「うん」と答えることも「いいえ」と言うことも出来たし、
その両方ともとれる無言の空間をそのまま継続することも出来た。
思い出してくれることを期待したけど、彼女にそれは無理な話だということも私は知っていた。

壁にもたれ掛かったまま、アイスコーヒーを口に含んだのは、
私のどこかに彼女に対して
「重荷にはなりたくない」だなんていう、良心めいたものがまだ残っていたからだろうか。



私の右手は、水滴のこびりついたコップを握り締め、
私の左手は、私にまたがる彼女の右手がつかんでいた。

「唯」と彼女の名前を呼んだ。

そう、彼女は私の幼馴染、平沢唯だ。

「なあに、和ちゃん」と彼女は私の名前を呼んだ。



そうだった、私は彼女の幼馴染である、真鍋和だった。

彼女といると、時間が経つのが早い気がする。もう氷が解けはじめている。
いや、そもそも、こないだまで、春だったような気もする。

そんな時の流れにも逆らって、唯が私の目の前にいるのはなんでなんだろう。
こうして、私にまたがる唯を当たり前のように思うのはなんでだろう。

2人でいるこの部屋の中が暑いのか、それとも私が短時間にいろいろと考えすぎたのか。
妙に頭が廻りづらい。

「和ちゃん、どうしたの?」

自分から呼んだくせに、反応がない私に痺れを切らしたのか、
唯はそうやって私の顔をのぞいてきた。左手を、さっきより強く結びながら。

なんでさっき、唯の名前を呼んだんだろう。
そもそも、いつ、声を出したんだろう。

唯の、私をのぞく顔がさっきよりもわずかに近くなっていた。
その薄茶けた瞳に、映っている自分が見える。
そろそろこの体勢はきつくなってきたようにも思う。

「どこからこんなふうになっちゃったのかな?」

「さぁ、わからないわ。でも、ただ、私たちは2人でいようとしただけよ」

「そうだよね。自分の気持ちに正直になっただけだよね」

「そうよ」

「なら、いいよね」

唯はそう言って、はにかんでみせた。


その笑い方は今までの唯を濃縮したような笑い方だった。
初めてみたような笑い方でもあって、だけどやけになつかしくって。
だからそれが、やたらと、私の胸の内をほこりっぽくさせた。

唯が空いた左手で額の汗をぬぐった。
やっぱりこの部屋は暑いんだ。私は、間違っていなかった。

いたい、と声が聞こえる。汗が目に入ったようだ。
「ようだ」といっても、もうそれが本当かどうか私にはわからなかった。
もしかしたら、唯はもっと別のことでいたがっていたのかもしれない。

私は音を聴かなかった。
氷はすでに、何にでもなれる水というものに成り代わっていた。

「これからも私と唯は2人でいられるかしら?」

「きっと、それはこれからの2人次第なんじゃない?」

「そっか」

「そうだよ」

自分で言っておきながら、永遠に続く終わりのない螺旋階段を下っている気分になった。
いや、下っているのか上っているのか。
右廻りなのか左廻りなのか。
それを判断するには難しい立ち位置に私はいる。
これまでの唯と私の2人という関係がどういうものなのか、
私自身よくわかっていなかったことを突きつけられてしまったようだ。




幼馴染だった。
幼馴染だった。
ずっと、それだけだった。それに甘えてきた。
それに守られて傍にいた。


でも、もうそれだけじゃないものに私たちは成り代わっていた。

唯のふわふわした髪に、いつのまにか、右手を伸ばしていた。
アイスコーヒーの入ったコップはいったい、どこにいってしまったんだろう。
細い繊維の、指にからみつくのだけを、何度も何度もただ繰り返していたかった。

「私の髪、さわりたいの?」

「そうみたい」

「なかなかやらしいんだね、和ちゃんって」

唯の笑顔がまた一段と濃くなる。


「唯」と彼女の名前を呼んだ。

そう、彼女はたった今さっき私の恋人になった、平沢唯だ。

「なあに、和ちゃん」と彼女は私の名前を呼んだ。

そうなんだ、私はたった今さっき彼女の恋人になった、真鍋和だ。

きっとこれから、私たちの周りはそれでも時間が流れていってしまう。
それでも、私はこの手をほんの少しでも長くつなぎとめておきたいと思う。

そのために私はこの部屋にいて、そのために唯は私に跨がって、私の腿辺りに座っていて。


近づくと、すぐに壊れてしまいそうな関係になってしまったのかもしれないけど
遠ざけていても、私自身が壊れてしまいそうになるし。
唯だって、そんなに器用なほうじゃない。
1人でぼろぼろになられても困る。それはとても困ってしまう。
それなら、いっそ、2人で一緒に壊れてしまったほうがまだましだった。

「誰も赦してくれなくても、唯だけは、私のこと、赦してね?」

自分のものを唯のものに口付けてみた。
少しだけアイスティーの甘さも感じたような気がした。


「和ちゃん、コーヒーの味がする」

目を開けると、すぐ近くに唯がいた。

コーヒーと、アイスティー。
私と唯の感性はほんのちょっと違うようだ。
小さい頃から一緒にいるのに、まだ新しい発見があるなんて。
それを少しでも埋めるために「そうなの」と、それだけ言って、また唯にキスをした。


シャクシャクとした喉ざわりが、舌をついた。
何度も何度も押し付けて、暑さとはまた違った熱さで身体が汗ばむ。
呼吸の隙間に唯が「好きだよ」と私にしか聞こえないような吐息を出した。

それがどれだけ幸せなひびきなのかは、きっと、私だけがずっと昔から知っている。


遠くのほうでまた、カランとした、氷のやわらかな音が聞こえた気がした。




終わりです。
スレ立てしてくれた人、本当にありがとうございました。



最終更新:2011年06月30日 23:35