夏だったことは覚えている。
といっても、あの時私は何て言ったっけ。
せっかくの告白だったのに。
ただ、話したことは覚えているのに、話したことは覚えていないんだ。
そのかわりに、
やけに氷の、互いにぶつかるやわらかな音が耳に残っている。
小学生、中学生の夏の日も、
あんな風にして和ちゃんは私の部屋に来てくれて
私に勉強を教えてくれた。
クーラーが苦手な私に付き合って、
じめじめとした夏特有の身体の倦怠感を、
氷をいっぱいにした飲み物だけで冷やしながら。
小学生の時は2人とも麦茶だった。
それがいつのまにかアイスティーにかわって、
そして、和ちゃんだけ、アイスコーヒーになった。
私はいつまで経っても、アイスティーのままだった。
2人の仲が幼馴染からそういう風に恋人になって、
和ちゃんは私よりも敏感な人だから、
私よりも全然人の目を気にしていたように思う。
教室でもみんなの前でも
私に対する和ちゃんの態度は幼馴染の和ちゃんのままだった。
いつも迷惑ばかりかけているのに、
私は和ちゃんにとってさらに重荷な存在になっちゃったのかな、と思っていた。
でも、そんな風にプライドの高い和ちゃんが
わざわざ神経をとんがらせるような面倒くさい思いをしてまでも
私の恋人でいてくれたことに、私はちょっとどころではなくすんごく安心感をもらっていた。
だから、赦した。私は和ちゃんを。私なりのせいいっぱいの愛情でもって。
いつだったか、私のベッドの真っ白いシーツの上を、
2人でぬらしながら、2人でポーズを考えた。
なかなか私に「すき」って言ってくれない和ちゃんに私が提案した。
「まずさ、右手で鼻の頭をさわるでしょ?」
「こうかしら?」
「うん、そうそう!それが『す』ね!そしてね、そのあとにそのまま右手で左耳の耳たぶにさわるの!」
「それが『き』?」
「うん!!」
「これなら…きっと、みんなにはわからないわね」
そういって、珍しく和ちゃんは無邪気そうに笑った。
「みんなにバレるのがそんなにいやなの?」とはその笑顔に聞けなかった。
「2人だけの合言葉、だよ」
私はそう言っていつものように笑った。
結局、和ちゃんがその合言葉をそれから使うことは一度もなかった。
2つだった氷がとけて、まざって
まるで当たり前のように水としてそこにいた。
右も左も上も下もわからないくらい、
2人でごちゃまぜになった。
幸せだった。ありきたりな言葉しかないけど。
でも、和ちゃんは私にこう言った。
「私、K大学に行くから」
氷ついた。一瞬だった。
まざりまざって、私は和ちゃんで、和ちゃんが私だったのに。
1つの人間みたいに、同じ目線で同じものを見て、
同じように感じてくれていると思っていたのに。
私がギターを弾いている間に、
和ちゃんはいつのまにか1人で氷に戻っていたらしかった。
それでも、少しばかりは私だった部分を含みながら。
誰が悪いというわけじゃない。
私は和ちゃんともいたかったけど、
けいおん部のみんなともいたかった。
和ちゃんだって、自分のやりたいことがあった。
私にだって、曲がりなりにもやりたいことがみつかって。
あれだけまざりあっていた水は、
しだいにそれぞれの比重を見つけはじめていた。
だからやっぱり、
和ちゃんが悪いわけでも、私が悪いわけでも、
まして、けいおん部のみんなが悪いわけでもなかった。
しいて言うなら、和ちゃんは頭はいいのにそういうとこはバカだった。
あの夏の日、「居たい」といった私に
「汗が目に入って痛いの?」と調子はずれなことをまじめに聞いてくる人だった。
そういう人だった。ちょっと、思い出した。
それから私たちは、文化祭やら受験やらの忙しさで
自然消滅してしまったように思う。
「ように思う」っていうのは、私たちが本当に終わってしまったのか、
私にはまだ、よくわからないからだ。
2人でベッドのシーツをぬらすことがなくなっても、
和ちゃんの私に対する態度は変わらなかった。
和ちゃんのそういうとこ、ちょっときらいだな、って思った。
変によそよそしくなってくれていたら、みんな変に思って、
きっと私に「和と何かあったの?」ぐらい聞いてくれたはずだ。
それがなかったから、私は、やっぱり和ちゃんにいつものように接するしかなかった。
まるで、私と和ちゃんは、うさぎとかめのデキレースだった。
追いついたとおもうのに、それは和ちゃんが、私のことを待っていてくれただけだったんだ。
それでも、どんなに悲しくても、どんなに言いたいことが眠れない夜のうちに
この胸の中につもりつもってたまっていっても、
朝、私の前の席に座る和ちゃんの後姿を見たら、
私は何も言えなくなっていた。
黙々と問題をとく。
うさぎはたしかにかめに歩くスピードをあわせていたのかもしれない。
それでも、うさぎだって、走ったんだ。かめと同じ距離を走ったんだ。
私がギターを鳴らすように、和ちゃんはシャーペンを3年間、紙の上で走らせた。
そこは私の踏み入る領域ではなかった。
たまにその背中を見て、右手を鼻の頭につけたあと、左耳のみみたぶをさわった。
和ちゃんには、もちろんみえない。クラスの誰も、私のその行動の意味なんてしらない。
でも、それでよかった。
私はそういう風にして、いつだって、和ちゃんを赦していた。
当然だけど、うさぎは大学というゴールまで走りきった。
かめも、うさぎには遅れをとりつつも、なんとかゴールすることができた。
和ちゃんがこの街からいなくなっちゃう、その何日か前にみんなで和ちゃんのお別れ会をした。
そのときに、いつ和ちゃんがこの街からいなくなっちゃうのかも聞いた。
みんな「がんばれよ」とか「身体に気をつけて」とか言って、和ちゃんとの時間を過ごした。
私といえば、憂のついだアイスティーをそれでもやっぱり飲みながら
その場の空気に溶け込んで、たまに笑ったりして、向かいに座る和ちゃんを、ぼんやりと眺めていた。
自分が、自分じゃないような不思議な感覚だった。
りっちゃんや澪ちゃんや、ムギちゃんの話に相槌を打つ和ちゃんと、
たまに視線が交差した。
和ちゃんを見ているのに、鏡に写った自分を見ているようだった。
そのときの2人はきっと、指でさわるくらいの圧力で簡単にくだけちゃうくらいの氷だった。
でも、2人とも、それはもうこりごりで、交差した視線はそのまま、
自然なかんじにすれ違うだけにとどめられた。
それからあっけなく、和ちゃんがこの街からいなくなっちゃう日が来た。
和ちゃんがお願いしたから、誰も見送りにはいかないという。
しめた、と思った。これはきっと、私にとっての最後のチャンスなんじゃないか、と。
たしかにあっけなく時間は過ぎたけど、その間中に私が何をしていたのかというと、
オリジナルアルバムの製作だった。
そんなたいそうなもんじゃない。
ただ、卒業式の何日か前に、みんなで録ったHTTの曲をCDにおとしただけだ。
そのCDを渡そうと思った。
和ちゃんは、いらない、って言うかもしれない。
編集の仕方を間違えたみたいで、音質がかなり悪かった。
さすが私。やっぱりかめだ。
でも、移動時間のさなかの、ひまつぶしくらいになってくれればいいな、と
そんな軽い気持ちで作った。
今はそれでいいなって思えた。
作業は、和ちゃんのいなくなっちゃう日の朝までかかった。
らしくもないことをしてしまったから、頭が猛烈につかれて、ぼんやりした。
だいぶ片付けた、それでもみんなが来る度に、気味が悪い、とバカにされた平沢チキンの横に
まだ置いてある時計を見る。
和ちゃんは10時46分の電車に乗ると聞いていた。
言いたいことなんて、もうとっくにないし、CDを渡すだけだから
今寝て、10時ぐらいにでも家を出ればなんとか間に合う。
「ひとやすみ、ひとやすみ」
私はベッドの中にまどろんだ。忘れずに目覚ましをかける。
何度も洗濯してしまったシーツから、もう和ちゃんの匂いはしなくって。
「もういいんだ、いいんだよ」そう自分に言い聞かせながら、ほどなく、眠りに落ちた。
目を覚ますと、いつもの見慣れた天井が見えた。
隣に和ちゃんはもういない、わかってる。
この3ヶ月くらい毎日のように思い知らされた。
よく寝た。それでも、まだ9時くらいだと思った。
9時半にかけた目覚まし時計の音がまだ聞こえていなかったから。
時計を見ようとして手を伸ばした手に、やわらかい感触がして
これは、平沢チキンだな、と思う。今日はまだお呼びでないんだよ。
なんとか、手探りでさがしあてた時計のびょうしんと、その針どうしのおいかけっこの結末に
寝ぼけた意識が、カッ、と覚醒する。
とんでもないことになった。
ガバッ、と起きて、ドタバタと着替える。しまった、着ていく服を用意していなかった。
どうしよう。部屋に散らかった服の中からよさそうなのを選んで着た。
口からは「あわわわわわ」という声しかでない。
学校を卒業してからもこんなにバタバタした朝を過ごすなんて、私はいったい何をしているんだろう。
CDを片手に、ケータイと財布だけパーカーのポケットにつっこんで、
急いで階段を駆け下りた。
憂は今、学校だからいない。昨日まで普通に昼まで寝るという生活パターンがあだとなった。
学校という大義名分がない今、憂が私を朝起こすはずがなかった。
寝坊をしたのは自分なのに、やけに、憂の優しさがこの時はにくらしかった。ういやつういやつ。
私の分であろう、1人分の朝食兼昼食がテーブル置かれていた。
クロワッサンだけ1つつかんで口に放り込む。
やっぱり、1つだけじゃ足りなくて、もう1つを右手につかんで家を出た。鍵はかけ忘れた。
どうして私は最後の最後までこうなのか、と走りながら思う。
クロワッサンが邪魔だった。欲張るんじゃなかった。
小麦粉の変なすっぱみで、口の中がいっぱいになる。
運動不足で、しだいに痛みだす足と肺に、
自転車に乗ってこなかったことを後悔した。
もう、いったん家に帰るにも中途半端な距離だった。
それでも、この道をまっすぐいえば、会えると思った。
いつも待っててくれたから。私のこと。
「ほら、唯」って言ってわらってわらってわらって、
私に手をさしのべてくれたから誰よりも、
和ちゃん、私はね、和ちゃんがすきなんだよ、ごめんね?
だから、このまま、さよならなんて、いやだよ。
きっとこうして今走っているのだって、私のエゴだ。それ以外の、なにものでもない。
だけど、そのエゴがなきゃ、今、私は走れない。
たとえば、もう走るのもやめて、CDを和ちゃんに渡すことも諦めて
今すぐに来た道を戻ることだってできる。
そっちのほうが、運動不足の足と肺にとってはとっても魅力的だった。
だけど、途中で諦めたりするの、私のすきな和ちゃんは好きじゃないから。
もう、困った顔して私のこと見てほしくないから。
私のこと、もっといろんな表情をした和ちゃんに見てもらいたいから。
今、走らなきゃ、私はどこにもいけない。
和ちゃんにも、会えない。
なぜか、そんな気がした。
いつの間にか、泣いていた。
泣きながら走る私は、端から見たらさぞかしこっけいだったろうな。
はなみずも出てたし。
和ちゃんが、行ってしまう。1人でいなくなってしまう。
いやだった。
いやだった。
うさぎもこんな気持ちでかめを追いかけたのかな。
「やだよ…和ちゃん、そんなの、やだよ…」
私の本音は、息切れの呼吸の中で、風に吹かれてどこかに飛んでいった。
駅についたのは40分くらい。
足はもうガクガクに震えていた。
財布から小銭を取り出す。ばらまく。
私はここぞという時に、お約束を守るとっても良い子だ。
そんな自分がとってもいじらしい。
なんとか掴んだ500円玉1枚だけを入れて、一番安い入場券を買った。
おつりもほっぽって、改札口へ走った。
「お客さん…!!」
「あとでもどってくるので、ちゃんと小銭拾っておいてください!!」
「ちょっとぉ!!」
「盗まれたら、訴えます!!」
後ろから聞こえてくる駅員さの声に向けて必死に叫んだ。
もう、あと少しだ。
階段を駆け上って、ホームに出た。
肩で息をしながら、和ちゃんの姿を探す。
いない。
電車の到着を知らせるアナウンスが鳴り響いた。
そのアナウンスを聞いて
私は最後まで、自分は本当にバカだなって思い知らされた。
和ちゃんは、いた。
下りではなく、上りのホームに、驚いた顔をした和ちゃんが、いた。
私たちは向かいあうように、お互いの姿をその瞳に映しあった。
ホーム、間違えた。階段、駆け上がらなくてよかった。
声を出そうにも、無駄に階段を駆け上ったせいで、声にならない。
上りのホームへ向かう時間は、もう残っていなかった。
必死に叫んだ「和ちゃん」という言葉は
「白線の内側までお下がりください」という音にかき消された。
和ちゃんも私にむかって何か叫んだ。
それも、「白線の内側までお下がりください」という音にかき消された。
何回も言わなくていいよ。
もう下がってる。
もうこれ以上、和ちゃんのそばになんて近づけない。
危なくなんてない。
私はきっと、アホな泣き顔で、
きっと、最後まで和ちゃんにとって迷惑な存在だった。
こんな顔をさらすためにここに来たわけじゃないのに。
そう思ったら、また涙がではじめた。
そのとき
「唯っ!!!」
という、和ちゃんの声が聞こえた。
迫りくる電車の騒音と、アナウンスの一瞬の隙間に、
絶妙なタイミングで入り込んだがゆえに聞こえたんだろう。
身体が、無意識にその声に反応して、自然と顔が和ちゃんのほうへ向いた。
そして、見たんだ。
私のほうをみて、微笑んでいたのを。
和ちゃんが、右手を鼻の頭に、
そして、そのまま左耳のみみたぶをさわったのを。
「――――っ!」
次の瞬間には到着した電車によって和ちゃんの姿は見えなくなった。
腰がぬけて、その場にへたれこむ。
限界だった。
やかましい騒音と共に電車が去ったあと、
そこには、私と、渡せなかったCDだけがたたずんでいた。
その後は、とっても恥ずかしかった。
ホームでひとしきり泣いて涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、
駅員さんにお金を渡されながら、怒られた。
「でへへ」と、自分の失態に笑うしかなかった。
CDはもったいないから、あずにゃんにプレゼントした。
音質が悪い、と怒られた。
「私になにを期待してるのさー。やだなー、あずにゃんはー」
そう開き直った私は言うと、ムッ、とした顔をした後
「でも、…もったいないからもらいます」とあずにゃんは言った。
もう少し、素直に「ありがとう」の1つでも言ってもいいのにあずにゃんったら、と思ったけど
『素直に』だなんて、こんな私が言うのもなんだと思って
やっぱり、「でへへ」と笑っておいた。
お互いに嫌いになって、はなればなれになったわけじゃない2人には、
こんな別れ方がよかったのかもしれない、と
今は、少し思う。
思えるくらいには、なった。
大学生になって、和ちゃんと、はじめてはなればなれの夏をすごす。
それでも私は、ふとした時に、いつだって
和ちゃんのアイスコーヒーの、カランとした、氷のやわらかな音が聞こえた気がするんだろう。
ゴールの先でうさぎとかめが再開の喜びを、わかちあうのを想像すると、なんだか笑顔になる。
その時までには、もう少ししっかりしないと。
そう思いながら、それでもやっぱり私は、ギターをかき鳴らすのだった。
おわり
最終更新:2011年07月02日 01:49