でもそのささやかな充実感も、終わるときというのはやって来る。

私たちは高校生活最後の文化祭を秋晴れの日に行った。
律はもう桜高の生徒ではないため出演は出来なかったが、一応私たちのライブは大成功で幕を閉じた。

私たちは嬉しさと興奮のあまりなだれ込むように律の病室へ向かった。
律は体調を悪くして、文化祭を見に来ることさえ出来なかったのだ。まだ顔の熱が冷めておらず、頬を赤く染めた私たちを律は笑顔で出迎えてくれた。

律「おめでとう!!」

その言葉がただただ嬉しくて、何度も何度も号泣した。
幸せだった。律の病気も酷くなく、私は笑顔で青春を駆け抜けていた。

しかし、幸せな日々とはそう長く続かないものだ。
文化祭を終えた辺りから、私たちの恐れていたことが始まってしまった。

最初は、梓だった。
梓が病室に入ってきた瞬間、律は首を傾けて言った。

律『誰ですか?』

次に、唯だった。
唯がいつも通りギャグを発射しようとしたとき、律は困ったように言った。

律『えーと……誰、だっけ?』

それから今日、ムギと軽音部のことは同時に忘れた。
律が思い出せなくなっても毎日お見舞いにやって来る梓と唯と共に病室に入ると、律は不安そうに言った。

律「あ、澪!……と、新しい友達?」

そう言われた瞬間、ムギはショックを受けた顔をした。
悲しさに顔を歪ませ、歯を食い縛っている。

紬「軽音部の琴吹紬よ。……分からない?」

律は少しおろおろとして見せた。
そして本当に困ったように口を開く。

律「軽音部って……、よく分からないんだけど」

まるで稲妻が体を走ったかのような感覚になった。
軽音部は私たちの原点で、私たちの繋がりだ。
それを忘れてしまった……?

みんな、いつかの告白の日みたいに泣いた。
律はそんな様子に戸惑ったあと、つられて泣いた。
私も涙を押さえることが出来なくなっていた。

急に、怖くなったんだ。忘れられるということが。
律の中にいる私が消える。楽しかったことも、悲しかったことも。
それはつまり、律にとって私は赤の他人となる、ということだ。
律に、律にとって私は存在しない人間となる。

怖かった。ただ単純に恐ろしかった。
律が生きているだけで良い、とかそんなこと考えられないほどに。
逃げ出したくなるほどに。


でも実際に、その日はやって来た。

律に忘れられた3人と共に病室を訪れる。
今日は律にぴったりな黄色い花束を持ってきた。

澪「律ー、入るぞー!」

軽く2回ノックして、病室の扉を開けた。
中では律が、家族の人と一緒に居た。

律父「澪ちゃんに軽音部の人だよね?いらっしゃい」

律のお父さんがこっちを見てそう言った。
律のお母さんも聡も頭を下げるから、私たちも軽くお辞儀。
すると律も小さくお辞儀をして言った。

律「父さんと母さんの知り合い?」

澪「え……?」

目の前が真っ暗になるって、こういうことを言うのだろうか。
足元が、ふらつく。きっと平衡感覚が狂ってる。
それほどまでにショックな言葉だった。

律母「何言ってるの!?澪ちゃんよ、幼馴染みだったじゃない!」

律「え、分かんないよ。どうしたの、急に。何か怖いよ……」

泣きそうだった。でも律はもっと泣きそうだった。
知らない人を知らないと言ったら怒られたんだ、そりゃあそうだろう。
律はとても困った顔をしている。

聡「み、澪ねえ!きっと姉ちゃん明日には思い出すからさ、大丈夫だって」

聡は必死に取り繕おうとするが、逆に私は惨めになった。
泣くわけにはいかない。でも泣きそうだ。

澪「いいんだ、聡。……ごめん、もう帰らなくちゃだから」

詰まる呼吸でそう言いながら、私は病室をあとにした。
頭がガンガンする。心臓がドキドキしていた。
まるで奈落の底に突き落とされたみたいな絶望感が身体中に走る。
もう律が私の名を呼んでくれることはないの……?

病院の隅らへんに来たとき、後ろから肩を叩かれる。
追いかけてきたムギだった。

紬「澪ちゃん、一緒に泣きましょ」

急にそう言って私を抱き締める。
ムギの体は柔らかくって暖かくって、まるで私を包むかのようだ。
その中で私は遠慮無く泣いた。
叫ぶように、喘ぐように、笑うように。

・・・・・・上手く言葉にできない。その日の具体的なことは覚えていない。
でも私が律の中から消えた。それだけが事実だ。


それからの律の容態は日に日に悪くなっていった。
聡を忘れ、お父さんを忘れ、お母さんを忘れた。
そして同時に体の動かし方も忘れたようで、既に指先は動く気配を見せなかった。

律「あああ……うわあぁぁあぁぁぁぁああ!!!!」

絶望に混じった声が病室に響くのも珍しくなかった。
時々思い出す自分の身の回りの事と今のギャップが辛いのだろう。
頭痛も酷いらしいし、しょうがない。
上手くいかない物事に苛つくこともしょっちゅうだ。

そんなとき、私は必ず彼女の右手を自分の左手で握った。
そうすると律の癇癪は少し落ち着いてくれるから。

律「澪ぉ……みおー」

そして律が私のことを気まぐれに思い出して、名前を呼んでくれることも多々あった。
そのことに私は嬉しい反面、悲しみさえも覚えていた。

明日には、忘れられている。

そんな存在が私なのだから。
だからこそ、私は律の手を握ることをやめなかった。

律の病気が進行する一方で、私は高校卒業を控えていた。
文化祭以来、軽音部として活動することもなくなった私たちは別々の道へ歩みだそうとしている。

唯は、音楽大学へ。
『折角りっちゃんが進めてくれた音楽を続けたい』と言っていた。

ムギは、留学をして海外の医療関係の大学へ。
『りっちゃんの病気が治るくらいに科学を進歩させるわ』だって。

私は、高校教師になる道へ。
理由は律と過ごした楽しい日々に浸っていたかったから、かもしれない。

そして梓は、軽音部を継続するために部員確保に励んでいる。
直接は言わないけど、多分律が立ち上げた軽音部を簡単に潰したくないんじゃないかな。

とにかく、律の存在は私たちの未来を大きく左右していた。
どれほど私たちの中の律が大きいかが分かるな。
だからこそ、軽音部として繋がりが事実上無くなった今でも私たちはよくみんなで律のお見舞いに行った。

律「……みんな……」

時々、律が私たちのことを思い出してくれるのが嬉しかった。


そして私たちは卒業を迎えた。

唯「今日で高校生も終わりだねえ……ヒック」

梓「唯先輩……泣かないでくださいよお……ヒック」

今日を境に私たちは別々の人生を歩みだす。
これからは簡単に会えることもなくなるだろうだから、私も少し感極まってしまう。
こうやってみんなと毎日顔を合わせるのも今日で最後なんだ……。

ちょっと浸っていると、ムギが手を合わせて笑顔で声をあげた。

紬「ねえ、みんな!りっちゃんのお見舞いに行きましょう?
  今日はとっておきのサプライズがあるのよ!」

……サプライズは予告しちゃ駄目なんじゃないか?
とにかく、私たちはその提案に乗って病院へと向かった。
サプライズって何だろうか。


澪「失礼しまーす」

そうこう考えながら律の病室を開けた。
そして私たちは息を飲んだ。
だっておじさん達に囲まれた律は、久しぶりに制服を来てカチューシャをして……
高校生時代の律だったから!

ぽかんとしている私たちにムギが微笑みかけ、律のもとへと歩く。
そして鞄から1枚の厚紙を取り出した。

紬「田井中律さん。ここにあなたの卒業を認めます」

凛とした表情のムギが持っているのは、手作りの卒業証書だった。
それをくるりと回し、律の方へ向ける。
聡に支えられながら、律は動かない指でそれをおずおずと受け取った。

律「ありがとうございます」

その瞬間、病室にたくさんの拍手が響いた。
私も無意識のうちに拍手をしている。

ここは、卒業式会場だった。
私たちは卒業生であり観客であり、保護者だった。
涙が流れた。でも顔だけは笑顔で、律の方を見つめる。
律も私たちの方を見て泣きながら笑っていた。

紬「おばさま達に協力してもらって、今日一日かけて私たちのことを思い出させて貰ったの。
  やっぱり卒業式は仲間と一緒じゃないと」

ムギが最高の笑顔で耳打ちする。
私も最高の笑顔でそうだな、と頷いた。

律「なあ、写真撮ろうぜ?卒業写真をさ」

律も最高の笑顔だ。
楽しそうにはしゃぐから、延びた髪の毛がピョンピョン跳ねている。

明日には忘れてしまう今日も、目一杯楽しめられればそれで良い。
私たちは律の提案に大きく頷き、律のそばに駆け寄った。

律父「それじゃあ撮るよー?はい、チーズ」

  パシャリ

**

澪「律ー、入るぞー?」

あれから2年の月日が経とうとしている。
私はもう今年で二十歳になった。

律「…………澪」

あ、今日は私のことを覚えててくれてるみたいだ。

律の病気はそれからかなり進行した。
体の大部分が動かなくなり、そのせいか暗くて内気な性格となった。
よく無駄な話を紡いだ口も今はほとんど動かない。
人が来たときだけ五文字程の言葉を発する程度だ。
髪の毛がかなり延びたせいもあり、まるで高校生の時とは別人のようだった。

そんな律のもとへ今日は一人でお見舞いに来た。
最近は他のみんなと予定が合わなくて、各自でお見舞いに来ることが多い。

澪「律、手握っても良い?」

律が頷くのを待ってから私は律の手を取った。
妙にひんやりとしたその手が、火照った私にとってとても気持ちが良い。

律がこうなった今も、唯たちとはマメに連絡を取っている。
みんな多忙ながらも充実した生活を過ごしているようだ。
ときおり、律のことを考えながら。

唯は音楽学校を常に首席のまま進級している。
その天才肌な才能は、磨けば磨くほど輝きを増していた。
たくさんの事務所からお誘いも貰っているとか。

ムギはこの前日本に帰ってきて、実際の医療現場で働いているようだ。
本来ならばまだ学生だが、何とその有能な学力で飛び級をしたらしい(!)
海外で働く話もあったのだが、律と一緒にいる時間が欲しいと無理して帰ってきた。

梓は進学はせず、会社を設立した。
律のような行動力を追求した結果、何故かこうなったらしい。
それでも本人は小さいながらも会社を建てたことに誇りを持っている。

私も、みんなと同様に頑張っている。
学校の先生になるということは覚えることが多く、毎日へとへとだ。
でも日々を楽しみながら、噛み締めながら過ごしている。

そんな中、時々思うんだ。
……律がもし病気でなかったらどんな将来を送っているのかと。

澪「律、今日は空が綺麗だな」

律はよくベッドの上から空を見つめている。
私もその視線の先を見るととてもきれいな青空と五本の飛行機雲が見えた。
真っ青な空に真っ白なそれはよく映えている。
律は返事をせずに、ただ空を見つめているだけだ。

今日、病室に来る途中に律のお母さんと会った。
涙で真っ赤に腫らした目で、おばさんは私に喋りかけた。

律母『律ね、もうすぐ死んじゃうの。あともって2か月ですって……』

覚悟はしていたから、ショックはそんなに無かった。
ただ暗く深い悲しみは付きまとったけど。
あと2か月もしないうちに律は私の目の前から消えてしまう。

澪「……キミを見てるといつもハートDOKI☆DOKI」

それを考えるのが怖くて、懐かしい歌を口ずさみ気を紛らわせる。

澪「揺れる思いはマシュマロみたいにふわ☆ふわ」

この歌は、私にとって特別な歌だった。
私の初の作詞であり、軽音部の原点である。
この詩を律に最初に見せたとき律の反応はイマイチだったけど、今はどう?この歌、好き?

澪「いつもがんばるキミの横顔」

律って横顔がすごい綺麗だな、てここを歌う度に思ってたんだ。
そんなことを言ったら茶化されそうだから言ったことはなかったけど。

澪「ずっと見てても気づかないよね」

たくさんの律が私の中を巡り歩く。
優しくって強くって、それでいて寂しがり。

澪「夢の中なら二人の距離」

律と出会った日から私たちの距離はぐんと縮まった。
それが嬉しくて嬉しくて、堪らなく最高だった。

澪「縮められるのにな」

そうやって浸りながら歌っているときだった。
私以外のもう一つの歌声が聞こえたのは。

澪「あぁ カミサマお願い二人だけのDream Timeください☆」

泣きそうになりながら隣を見る。
律が小さな口を必死に動かして歌っているのが分かった。

澪・律「お気に入りのうさちゃん抱いて今夜もオヤスミ♪」

私は自分の左手に力を込める。
その中にある手は何て冷たくて、小さな手のひらだろうか。

澪・律「ふわふわ時間 ふわふわ時間 ふわふわ時間」

歌を歌い終わった。
律はまた平然とした顔で空に視線を向ける。
もうそこに飛行機雲はなかった。

澪「なあ律、この歌のことどう思う?」

私は優しく諭すように訊ねてみる。
律は少し肩を震わせてから、小さな笑みを作った。

律「良い曲だと思うよ。……この歌、大好きだ」

私も小さく笑ってから、自分の左手に力を入れ直した。

律がいなくなってしまうまであと2か月もない。
でも私はきっとその間、律が死んでしまうその瞬間までこの手を握り続けるのだろう。
青い空を見ながら、ときおり歌を歌いながら。
私は律の横顔を見て、左手に律の体温を感じて過ごしていく。

ふと、病室の扉が開いた。
中に入ってきた人物は大きな花束を持って優しい瞳で近付いてきた。

すると律は人が来たときいつも発する言葉を口にする。




             おわり






最終更新:2011年07月02日 23:19