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 それから、数日が経ちました。

 純ちゃんはいくらか暗い顔をする日が続いていましたが、

 ナプキンを使うことはなくなっていたので、体は治ったのでしょう。

 植物っぽく言えば、無事受粉できたということになります。

 私はその日も軽音部で練習し、ティータイムを過ごし、のんびりとして帰ってきました。

唯「ただいまー」

 帰ってきて玄関の沓脱ぎを見ると、純ちゃんの靴がありませんでした。

 まだ部活をやっているのでしょうか。

 ジャズ研は真面目な部活ですから、少し遅くまで練習をやっていてもおかしくはありません。

憂「おかえり、お姉ちゃん」

唯「うむ、出迎えごくろう。じゃあ着替えてくるね」

 部屋にあがってギー太を置き、あかりをつけました。

 机に白い紙が置かれているのに、そこでようやく気付きます。

唯「ん?」

 赤褐色の、目のような形をした、ころころと固い物体をおもしにして置かれた紙。

 それには数行の短い文章が書かれていました。

 紙を拾い上げ、その手紙を読んでみます。


『  唯先輩へ

  長い間、お世話になりました。

  いきなりでごめんなさい。

  私はやっぱり木の実らしく、お母さんのもとで還ることにしました。

  種が産まれたので、これは置いておきます。

  私の形見にとっておいてもらえると嬉しいです。

  今まで育てていただいた恩は絶対に忘れません。さようなら。』



唯「……」

 私は机の上に転がっていた純ちゃんの種を拾い上げ、頬につけました。

 固い感触の向こうから、ぬくもりが返ってくる気がします。

唯「……純ちゃん?」

 純ちゃんは、どこへ行ったのでしょうか。

 この手紙はなんなのでしょうか。

 一瞬、頭の中をいろんなものがぐるぐると混乱し、すぐに醒めました。

 私は状況を理解すると、部屋を飛び出て階段を駆け下りました。

憂「お姉ちゃん!?」

唯「ごめん、行かなきゃ!」

 憂が呼びとめるのも無視して、私は靴を引っかけ、

 夜の街を、あの遠くの丘に向かって走り始めました。


 初めて会った純ちゃんと手を繋いで帰った道を、全速力で逆走します。

 ぶらぶらと揺れてほどけたタイが、どこかで落ちました。

 小さな小さな子供のときに、奇跡か運命みたいな出会い方をして、

 私たちは純ちゃんを大切に育て始めました。

 それから今まで毎日心配し続けて、毎日愛でていました。

 まるで、植木鉢のチューリップを育てるように。

 そうして、純ちゃんの気持ちなんて考えずに、私はずっと、じょうろで水をやるばかりでした。

 いいえ、純ちゃんの気持ちを知りながら、純ちゃんを植物だと見ようとし続けたのです。

 だって私は人間で、純ちゃんは植物だったのですから。

 それを忘れてしまえば、

 私は迷うこともなく、木の実を愛している異常な女の子になるのですから。

 月明かりしかない丘を駆け上がります。

 張り裂けそうな胸の鼓動は、走り続けるせいだけとは思えませんでした。

唯「純ちゃん!」

 頂上のスズキノキにたどりつき、私は叫びました。

 あの手紙には、「お母さんのもとで還る」とありました。

 お母さんの木は、このスズキノキ。

 純ちゃんは、ここにいるはずです。

 けれど周囲を見ても、純ちゃんの姿は見当たりません。

 まさか、もう消えてしまったのでしょうか。

純「……唯先輩」

 そのとき、純ちゃんの声が空から聞こえてきました。

 見上げると、太い枝に純ちゃんが腰かけて、私を見ていました。

唯「純ちゃん。おりてきて」

 息を整えながら、静かに、告げるように言いました。

純「……ごめんなさい。服ですよね?」

 純ちゃんは、私が迎えに来たことを認めてくれませんでした。

 こんな私が迎えに来てくれるなんて、純ちゃんも思わないでしょう。

唯「違うよ。純ちゃんを連れ戻しに来たの」

 私は純ちゃんをじっと見つめます。

唯「私と暮らすのが嫌だったなら、無理にとは言えないけど……でも、そうじゃないでしょ」

純「……」

唯「純ちゃん、降りておいで。憂がご飯作って待ってるから」

純「……いやです」

 純ちゃんは首を振りました。

純「種が産まれて、思ったんです。私はやっぱり人間じゃないんだって」

純「少し、夢を見過ぎてました。いい加減、自然に帰るときなんです」

唯「純ちゃん……」

 こんなに傷つけてしまっていたなんて。

 それでも、このまま純ちゃんを帰すつもりはありません。

 7年の間いっしょにいたのです。

 7年ぶんの愛情で大きくしたのです。

 それを、純ちゃんのお母さんだからといって、みすみす養分にさせてあげたりしません。

唯「……わかった、じゃあ私がそっちに行く」

純「えっ?」

 私はいつかのように滑らかな幹の肌を靴底にとらえ、純ちゃんのいる枝まで登っていきます。

純「ちょ、ちょっと唯先輩!?」

唯「蹴落としたりしないでね?」

純「それはしませんけど……」


 子供のころし慣れた木のぼりは、ちょっとだけ下手になっていましたが、

 どうにか純ちゃんのところまでたどりつきました。

純「……木登り上手ですよね」

唯「ふふ。純ちゃんに木登りを教えたのはほかでもない私ですよ」

純「そうでしたね……」

 私は純ちゃんの隣に腰掛けて、足をぶらりと投げだしました。

唯「懐かしいね。ここで純ちゃんに出会ったんだ……」

純「……あのときは、嬉しかったです」

純「私、ずっと一人ぼっちでしたから……うっかり、あんな早くに生っちゃって」

 照れ笑いをする純ちゃんは、私たちが子供のころに戻ったかのようです。

唯「そうだね。私も純ちゃんはまだつぼみの時期だって聞いてたから、びっくりしちゃった」

純「でも、私をとって、育ててくれました」

純「すごく、あたたかかったです。あのときの気持ちは……」

 純ちゃんは言いにくそうにして、くちびるをぺろりと舐めます。

純「とても、幸せな気持ちで……でも、言葉にできなかったんです」

唯「……純ちゃんは、言葉を知らなかったもんね」

純「はい……ですけど、唯先輩が教えてくれました」

唯「私だけじゃないよ。みんなが……」

純「いえ、唯先輩です」

唯「……純ちゃん?」

 純ちゃんがじっと私を見ていました。

純「あの……」

純「私、本当は分かっていたんです。自分の体になにが起こってたのか……」

唯「それって、このあいだの花粉の?」

純「はい。なにが原因で、なにが起こっているのか……わかっていたんですが」

純「言いたくなかったんです。木の実だって思われるの、嫌でしたから」

唯「……どうして、そんなに植物なのがいやなの?」

純「そりゃ……人間と植物では、愛し合えないからですかね」

唯「純ちゃんって意外と乙女だね」

純「……そうですね。物心ついてからずっと、恋していましたから」

唯「そうなんだ……」

 私はちょっとがっかりしました。

 純ちゃんにだって、好きな人くらいいますよね。

純「……おかしいですよね。木の実のくせに、人間に恋するなんて」

唯「そんなことないよ。誰に恋しようと自由だって」

 私は笑みかけます。

 自分で自分を否定することはできそうにありませんでした。

純「……本当ですか?」

唯「うん、本当だよ」

 純ちゃんは私の肩に手を置きます。

純「だったら、言いますね」

唯「何を?」

純「唯先輩に教えてもらった言葉を、です」

 枝葉の間の暗闇で、純ちゃんと見つめ合います。

 なんだか……ドキドキしてきました。

純「唯先輩にもいでもらったときから、感じていました……」

純「この気持ちをあらわす言葉は、唯先輩が教えてくれたんです」

唯「純ちゃん……?」

 ふーっ、と純ちゃんは細い溜め息を吐きました。

純「わたし、唯先輩が大好きです」

純「……だから、このまま消えさせてください。私と唯先輩は、愛し合えないんですから」

純「憂のところに、帰ってあげてください……」

 純ちゃんが悲しそうに微笑みました。

 でも、私はそれどころじゃないのです。

唯「じゅ、じゅんちゃん?」

純「……」

唯「ほんとに……ほんとに?」

純「こんな嘘、言いませんよ」

唯「じゃ、じゃあ、じゅ、じゅじ、じゅんちゃんは」

 落ちついて、私。

 この調子だと、純ちゃんごと枝から落っこちてしまいそうです。

 一度、ごくっと唾をのみました。

唯「純ちゃんは、私のこと、好きなの?」

純「……はい」

 純ちゃんは静かに答えます。

純「ごめんなさい、驚かせて……」

唯「驚いたっていうか、あのね、純ちゃんっ」

 私は純ちゃんの頬に手を伸ばしました。

 純ちゃんがちょっとびくつきます。

唯「私も純ちゃんが好きだよ! 人間だろうと、木の実だろうと!」

純「!」

唯「だから一緒に帰ろう! 純ちゃんの帰るところはここじゃなくて、私の部屋!」

純「……唯先輩!」

 純ちゃんが倒れ込むように私に抱き着いてきました。

唯「わわ、あぶないって!」

純「もう死んだっていいですぅ!」

 純ちゃんは死にたがりみたいでした。

 これはどうやら、まだまだ私の手が必要そうです。

唯「ほい、背中につかまって」

純「あ……えっへへ。はい、先輩」

 純ちゃんを背中におぶさらせて、木の幹を降りていきます。

 そーっと、懸命に腕と足に力をこめて。

唯「よいしょ!」

 そしてようやく地面に降り立って、ようやく再び月を見ました。

唯「さぁ、帰ろう純ちゃん?」

純「はい! ……迷惑かけて、ごめんなさい」

 私の背中からも降りた純ちゃんに手を差し出し、ぎゅっと握ってもらいました。

 純ちゃんと手を繋いで、丘を降りました。

 街灯の下を、のんびりと歩いて帰っていきます。

 あの日と違うのは、私と純ちゃんの手の繋ぎ方と、

 私たちを見守っているのは、青白い月だけだということです。

 でも、何も怖くはありませんでした。

 純ちゃんの生まれたあの丘が見下ろすこの街で、私たちは生きていくのですから。


  おしまい



最終更新:2011年07月14日 20:58