#08 ギー太の愛した数式
――そして、文化祭当日。私たちのライブの日がやってきた。
舞台袖の暗がりから、一歩一歩、踏みしめるように私たちは歩き出す。
不思議な感覚だった。
7ヶ月前の春、私はこの人たちの演奏を遠くから見ていた。
それが今は、こうして一緒に演奏しようとしている。
――時間の流れは、いつだって私にとって冷酷なものとして写っていた。
それは私と唯先輩が積み上げたものを、端から崩してしまう冷たい刃でしかなかった。
平等な死神を恨みこそすれ、感謝する日がくるなんて思いもしなかった。
幕はまだ舞台に下りていて、喧騒と静寂の線引きをしてくれていた。
スポットライトもまだ点けられておらず、足元は暗い。
それが逆に、今から全てが始まるという予感を感じさせてくれていた。
澪「……唯。大丈夫? このプログラムのままだと、75分超えちゃうけど――」
澪先輩が、心配そうな声で唯先輩を見る。
新曲のイメージにあわせて、衣装は満場一致で制服になった。
衣装作らせてよぅと駄々を捏ねるさわ子先生を説得するのに骨が折れたのは言うまでもない。
生贄として澪先輩一日着せ替え人形券を発行するまでに至った。尊い犠牲である。
唯「だいじょーぶっ! ……でも、わかんなくなった時は、
新歓ライブの時みたいに助けてね、澪ちゃん」
唯先輩は、いつもどおりに言う。
みんなは呆れたように笑うけど、それでもやっぱり仲良しだった。
――ずっと私の心に巣食っていた不安が、明確な形を取っていくのがわかった。
確証、と言ってもいいくらいの強さで、瞬時に私を覆い尽くしていく。
静かに進行している事態に気づいているのは私一人だけで、他の先輩方は暢気なものだ。
それは、きっと、誰よりも唯先輩を見ていた私だからこそ気づけた小さな違和感だった。
もちろん、納得できるだけの理由もある。
『りっちゃんは14228、澪ちゃんは14536。私は14264だよ……ね?』
事故を境にして壊れてしまった唯先輩の人間関係を、私は破片を拾い集めるようにして修復してきた。
『あずにゃん、私ね――』
『唯先輩』が戻ってきたとしても、何ら混乱のない状態に、戻してきたのだ。
『りっちゃんは14228、澪ちゃんは14536。私は14264だよ……ね?』
それから、時間。約一年という歳月は、きっと――
『「新歓ライブの時」みたいに助けてね、澪ちゃん』
唯先輩の脳の小さな傷を癒すのに、十分な歳月だったに違いない。
梓「――……」
シールには、「社交数」としか書かれていなかったはずで、誰がどの番号なのかは解るはずがなくて。
唯先輩の部屋で思いを確認しあった時、私は「あずにゃん」なんて紹介をしていない。
そして、ついさっき。唯先輩から出てきた、明確な「過去」の出来事。
それらは全て、積み重ねた端から崩してきた
「75分だけの唯先輩」が、消えていくことを意味していた。
嬉しいのか、悲しいのか。怖いのか、辛いのか。喜び、不安、ドキドキ。
全部の感情がミキサーにかけられてぐちゃぐちゃになっていく。
それでも、唯先輩を愛しいと想う気持ちだけは、揺らぐことがなかった。
けいおん部は、円陣を組んで、手を重ね、おう、と元気よく掛け声を交わす。
そして、幕が――――開ける。
/
つつがなく――とは言い難いような失敗も少しだけあったけれど――
プログラム最後の曲である、『NO,Thank You!』が始まる。
澪先輩の歌声が、身体にしみ込んでくるような凛としたそれが、熱気で満ちた講堂に響いていた。
澪『思い出なんていらないよだって"今"強く、深く愛してるから』
その歌詞は、『今』『そこ』にしか存在できない全ての少女の歌。
私には、澪先輩なりの唯先輩への気持ちを歌った曲に聞こえてしかたがなかった。
澪『ビート刻むそのたび プラチナになる』
多分、正解なんだろう。
澪先輩は、この歌に全部の気持ちを込めた。肝心なところで今一つ言葉の足りない彼女だから、詩という形で。
でも、いつからか、目的のための手段だったはずのそれが、少し、ずれてしまった。
本気だったからこそ、失敗は許されなかったのだろう。澪先輩も辛かったはずだ。
澪『だって"今"以外、誰も生きれないか、ら――っ』
感極まって、澪先輩の歌声が詰まった。
最後のサビに掛かる前の伴奏部分。嗚咽がマイクスタンドから漏れる。
律「――唯っ!?」
律先輩が呼んだのは、澪先輩ではなくて唯先輩だった。
全員がはっとして、唯先輩を見る。
全部の音が一瞬、気をつけなければ解らない程度に間延びして――気がついた。
唯先輩の記憶がちょうど尽きる75分が、今、過ぎた。
ギターと会話するように下げられていた顔が、こちらを向く。
先輩の瞳は、やはり無垢なものだった。
穢れなく、純真で。
唯先輩を端的に表している光。それが皆を捉え、キラリと輝いていた。
演奏部分が終わり、最後のサビが始まろうとしている。
だけれど、澪先輩は固まったままで。
歌声のないまま終ろうとしていた私たちの曲は
唯「――――――――NO,Thank You! 思い出なんて いらないよ」
唯先輩の歌声がきちんと引き継いでいた。
梓・律・紬・澪「「「「!」」」」
律先輩は息を呑んで、ムギ先輩は目を丸くさせて。
澪先輩はボロボロ泣きながら1フレーズ遅れてハミングする。
私は、ギターをかき鳴らしながら――笑っていた。楽しくて、嬉しくて、少しだけ、悲しくて。
唯「けいおん、だいすきーーーーーーーー!!!!」
曲が終わり、汗を飛び散らせながらも唯先輩は叫ぶ。
情熱が炎になったように熱い歓声も、重力を空に跳ね返すような拍手も鳴り止むことがなかった。
ふいに、アンプからギターの音が響く。
私は触ってもいないから、唯先輩の音だ。
そが何かを認識した瞬間、顔に血液が集まっていくのがわかった。
溢れ出した思いが、一筋の涙となって頬を伝う。
D、♯の7-5(セブンスフラットファイブス)。
おしまい!
おつかれさまでした。以上で投下は終了です。
この作品は小川洋子先生の「博士の愛した数式」の設定だけを借りたクロス作品です。
とても良い作品ですので、未読の方は、ぜひ一度手にとってみてください。
色々と言葉足らずで説明不足なのに冗長な作品でしたが、
ここまで読んでくださったあなたへ感謝を。本当にありがとうございました。
ゴタゴタありましたが代行をしてくださったID:gqiqufcO0には頭があがりません。
こんな夜更けまで、ありがとうございました。
次回からはSS速報使いますね。本当にすんませんでした。
ではみなさん、良い夢をみてください。
最終更新:2011年07月19日 22:56