「……はぁ……」
なんとか吐き気は治まり、肩で息をしながら手の甲で涙と脂汗を拭う。
あと数日で夏休みが終わる。
少しずつ食事は出来るようになったとはいえ、思考は霞がかかったように漫然としていて
浮かんだ言葉は上手く結べず、ぽろぽろとこぼれ落ちてしまう。
そんな調子だから、時折澪たちから届くメールにとても返信する気にはなれなかった。
学校に行ってもまともに授業を受けることすら出来ないだろう。
それに、学校に行ったって、いや、どこに行ったとしても、もう唯は居ないのだし。
「……二人で出掛けようって、言ったじゃない」
唯の嘘つき。そう呟いたら、また涙がこぼれた。
ーーーぎしり。ふいにベッドが軋んで目が覚めた。
少しまどろんでいたらしい。いつの間にか日が傾いて、
オレンジ色の西日がレースカーテンの隙間から部屋の壁を頼りなく照らしていた。
背中越しに誰かの気配を感じた。妹か弟が様子を見に来たのだろう。
寝返りの要領で身体を捻って視線を上げた瞬間、私は言葉を失った。
「えへへ、来ちゃった」
「……」
「うわ、酷いクマ。頬もげっそりしちゃって……。駄目だよ、ご飯ちゃんと食べないと」
「……どうして」
思うよりも先に出た声は、乾いた喉に引っ掛かって酷くかすれてしまった。
彼女はベッドに両手をついて、私を覗き込むように見下ろした格好で
和ちゃんに逢いに来たんだよ、と山吹色のリボンを揺らして笑った。
「…………ゆ」
「うい、だよ。和ちゃん」
呼ぼうとした名を遮られ、訂正される。
「知ってるでしょう? お姉ちゃんはもう、死んじゃったんだよ」
「……」
「信じられないって顔してるね」
「……」
「……まあ、しょうがないか」
彼女は少し困ったように微笑むと、ベッドから右手を浮かせて私の頬を撫でた。
それからゆっくりを顔を近づけて、乾いた私の唇に触れるだけのキスを落とした。
ーーーーーー
『あのね、和ちゃん。私いいこと考えたんだ』
『いいこと?』
『うん。えっとね、架空の妹を作るの』
『……へ?』
『んで、私がその妹になって、和ちゃんの恋人になるんだぁ』
『……なにそれ』
『んと、私が本当はいない妹になって、和ちゃんが本当はいないその子と恋をするの』
『……』
『そうすれば……。二人だけの空想ってことにすれば、誰にも、遠慮しなくていいでしょ?』
『……二人だけの?』
『そう、二人だけの』
唯自身も、思いつき半分、遊び半分だったのかもしれない。
けれど私はその、おままごとじみた提案に乗って架空の女の子と恋人になった。
そうすることで、誰にも言えない二人の関係をずっと守っていけるかもしれない、と
何の根拠もない、ただ淡いだけの期待を抱いたからだった。
……そのくらい、あの時の私たちは幼なかった。
唯は架空の妹に《憂》という名前を付け、普段の自分と区別をつけるため
《憂》でいる間は山吹色のリボンで後ろ髪を縛ることにした。
『憂はね、とってもお料理が上手で家事もなんでも完璧で、すごいんだよ』
『ふぅん』
『おまけに頭もよくて優しくって、和ちゃんがみんなに自慢したくなるような子なんだ』
『そうなんだ』
『大人になって憂が和ちゃんのお嫁さんになったら、きっと毎日が幸せだよ!』
『……そうかもしれないね』
二人で作り上げた空想上の女の子は、
唯とキスを重ね、身体を重ねるたびに不思議とその存在感を増していった。
やがて、山吹色のリボンで後ろ髪を束ねた唯が自身を「お姉ちゃん」と呼んだ時、
確かに私の目の前で、彼女がーーーー《憂》が、微笑んでいた。
ーーーーーー
気がつけば、あんなに煩かった蝉の声がぴたりと止んでいた。
キィン、と小さな耳鳴りをおぼえながら、私は目の前で微笑む彼女から目を逸らせずにいた。
彼女のーーーー《憂》の手が、再び私の頬を撫でる。
感覚が麻痺してしまったのか、その手が暖かいのか冷たいのかも分からない。
「ごめんね、和ちゃん。悲しい思いをさせて」
《憂》はそう言って、ベッドの端に腰を下ろした。ぎしり、とスプリングが沈む。
彼女の右手が私の左手をとらえて、指を絡ませてきた。
「……あなたは、幽霊なの?」
私の質問に彼女は少し眉を上げて、それからくすくすと笑った。
「そういうとこ、和ちゃんらしい」
「え?」
「こんな状況なのに妙に冷静っていうか」
「……冷静ってわけじゃ、ないけどね」
そう応えたら彼女はぺろりと舌を出して、それもそっかとおどけてみせた。
「……。ねえ、和ちゃん」
「うん?」
「和ちゃんは、お姉ちゃんと私、どっちに逢いに来て欲しかった?」
「……」
「質問がいじわるだったかな。ゴメンね」
「……」
「お姉ちゃんが死んじゃったから、二人の空想ももうお仕舞いなのかな」
「……」
「私たち、もう、一緒に居られないのかな? ねえ、和ちゃん」
「……」
絡めた指に力を入れて、彼女の手をぎゅっと握ってみる。
彼女の手が、ぎゅっと握り返してきた。
そこには確かに、彼女がいた。
ほんとうは私も唯も、気付いていたんだ。
二人の関係を守るために作り、積み上げたはずの空想は実際、
脆く柔らかな殻の中に閉じこもっていただけだということに。
殻の中に満たされたぬるい空気の底で互いの肌の温もりを求め、
二人だけの空想の中に見い出そうとしていた幸せは多分、偽りだということにも。
「……和ちゃん」
彼女の顔が再び近づいて、二人の唇が重なる。
ちゅっ、ちゅ、と音を立てて、乾いていた私の唇が次第に水分を取り戻す。
「和ちゃん……すき」
まるで息継ぎするように、彼女はキスの合間に私の名を呼ぶ。
「すき……大好き」
彼女がベッドに膝を乗せ、ぎしり、とスプリングが軋んだ。
絡めていた指を外して両手を持ち上げる。
覆いかぶさるようにして私を見下ろす彼女の背中を抱きしめると、
彼女は少し泣きそうな目で笑ってから、私の首筋に吸い付いた。
「…………憂」
「うん?なあに?」
「ありがとうね」
「えっ……」
彼女はぴたりと愛撫を止めて、ゆるゆると顔を上げて私を見た。
互いの息がかかるほどの距離で、見つめ合う。
「和ちゃん?」
不安そうな顔をした彼女の頬を、優しく撫でてやる。
「さっき聞いたわよね。あなたと唯、どっちに逢いに来て欲しかったかって」
「……」
頬を撫でていた指を少し上げて、柔らかな栗色の髪に触れる。
「私ね、あなたのことも大好きよ。憂」
「……」
手ぐしを通すように彼女の前髪を撫で、更に手を伸ばす。
「今までほんとうに、ありがとう」
「……!! 和ちゃん、ダメーーーー」
気付いた彼女が上体を起こすよりも早く、
私は指先でつまんだ山吹色のリボンを一気に引いた。
ーーーーーー
「……なんで」
結びを解かれた栗色の髪が、今にも泣き出しそうな表情を半分覆い隠している。
再び手を伸ばして、唯の頬にてのひらをくっつける。
「……今までごめんね、唯」
「……」
「憂を演じさせて、ごめんね」
「……なんで?なんでこんな……」
「もっと早く、言うべきだったの」
「……」
「私は、あなたが居てくれればそれでよかった」
「……」
「愛してるわ、唯」
じわりと視界が濡れて、こめかみを伝った涙がシーツに落ちる。
私を見下ろす唯の両目がみるみる潤んで、
あふれた涙は頬に触れたままの私のてのひらから腕を伝い落ちて、一筋の跡を作った。
「……はぁ。あーあ、やっぱ来るんじゃなかったかなぁ」
「え?」
唯は鼻をすすって、少し困った顔で微笑んだ。
「最後にもっかいだけ和ちゃんに逢って、さよならするつもりだったんだけど」
「……」
「憂の格好なら大丈夫かなーなんて、思ったんだけど」
「……」
「どうやら和ちゃんを侮っていたようだよ、私」
まさかここにきて愛の告白をされるなんて、と
おどけてみせた唯につられて、私もつい笑みをこぼす。
「キスしといて、大丈夫もなにもないと思うけど」
「あ、えと、それは……つい?」
「つい、で死んだ子にキスされる私って何なの」
「うっ……」
「……まあ、いいけど」
「でも、どうしよう」
「うん?」
「和ちゃんと離れたくなくなっちゃった」
「……それは、私に取り憑くってことかしら」
「んー、っていうよりは……」
「よりは?」
「連れて行く、って感じ?」
「……」
てへっと舌を出した唯を、しばし絶句して見上げる。
「……そういうとこは死んでも変わらないのね、あんたは」
「今のは地味に刺さったよ、和ちゃん」
「……まあでも、」
「うん?」
「私も、もう無理ね」
「へ?無理って、何が?」
「唯と離れるのが、よ」
「……」
大きく開かれた唯の目からこぼれた一粒が、私の頬にぽつりと落ちた。
「……いいの?ほんとに?」
「言ったでしょ。あなたが居てくれれば、それでいいの」
「……」
「だからもう泣かないの、ほら」
ぐい、と涙を拭ってやった私の左手を、唯の右手がとらえる。
「和ちゃん」
「なあに?」
「大好き」
「……違うでしょ?」
「ふぇ?」
「私が愛してるって言ったら、なんて言うの?」
「…………あっ!」
唯はしまったという表情を見せると、今のなし!と叫んで姿勢を正した。
「コホン、……準備はいいですか?」
「いつでもどうぞ」
「うむ、」
「……」
「……私も愛してるよっ、和ちゃん!」
キリッと決め顔を作った唯と視線を合わせて、一瞬の間。
こらえきれずに噴き出して、二人してくすくすと笑う。
「ふざけてるようにしか思えないんだけど」
「えぇ~!私は真面目だよぉ」
「うん、まあ……いいわ。ありがとう、唯」
「……うん」
唯はこくりと頷いて、掴んだままの私の左手に優しくキスをした。
「だけど、ほんとにいいのかな。私が和ちゃんの幸せ奪っちゃって」
私の左手を口元に寄せたまま、唯が呟く。
「……ねえ、唯」
「うん?」
「唯の言う幸せって何?」
「え。んと……みんなみたいにフツーに生活して、フツーに年を取って……」
「みんなって、誰?」
「…………。ねえ和ちゃん、こんな会話、前にもしなかった?」
眉を寄せた唯に少し笑って、頬を軽くつねってやる。
「それじゃもちろん、私の返事も分かってるわよね?」
「……」
「私は、誰かを基準にしないと計れない幸せなんて、別に欲しくないわ」
唯はちょっと泣きそうな顔をして私の名を呼び、ゆっくりと深くくちづける。
触れ合う唇から次第に熱が広がって、二人の身体が溶け合っていくような錯覚に陥る。
知らずこぼれた一粒の涙を、ぺろりと舌先で掬いとられた。
涙、しょっぱいね、と囁いた彼女の唇が緩やかな弧を描くのを、
私はただ微笑みながら見上げていた。
おしまい
最終更新:2011年08月03日 18:29