律「うぅ~……」
またほとほとと涙が落ちる。
歯を食いしばって我慢しようとするが、どうしようもない。
師匠「ふぅむ……」
師匠はそんな私を一瞥し、徐にドラムの前に座った。
スティックを手に取ったかと思うと、カウントも無しに、
いきなりドラムソロを叩き始めた。
師匠は顔色一つ変えずに叩き続ける。
今まで習ったことから、私が知らないような超絶技巧まで。
もう唖然とするしかないようなドラミングをこれでもかと繰り広げる。
開いた口が塞がらない私を尻目に、師匠はドラムを叩き続ける。
五分程叩き続けただろうか。師匠はようやくストロークする腕を止めた。
師匠「これが今のお前」
それは何の皮肉だろうか。
律「私、そんなに上手くなんか……」
師匠「まあ聴け」
そう言うと師匠はオーディオプレイヤーを操作し、またドラムを叩き始める。
天吊りのスピーカーからは名前も知らないピアノソナタが楚々として流れている。
アクセントを加えるようなシンプルなドラム。
決して単調なのではなく、ただただ丁寧に基本を繰り返す。
リズムとメロディが寄り添い、一つに解け合っていく。
心に沁みる音楽が紡がれていく。
目を閉じて聴き入っていたら、ピアノがフェードアウトし、ドラムの演奏も終わった。
師匠「これが今、お前が欲しがっているもの」
師匠が何を言いたいのか分からず、首を捻る。
師匠「後は自分で考えろ……と言いたいところだが、
今のお前じゃまた悪い方へ考えそうだから、ヒントをくれてやろう」
スティックをくるくると回しながら、師匠が淡々と話し始めた。
師匠「別にお前は下手じゃねえよ。というよりそこいらの下手なプロより
ワンハンドロールをこなせる女子高生なんていねえよ」
律「でも……」
師匠「何よりこの俺が教えたんだ。それで下手くそなままだったら、俺がへこむわ」
スティックをこちらに突きつけて、拗ねたような口調になる師匠。
その仕草が妙に子供っぽくて、少し可笑しかった。
師匠「お前が伸び悩んでいる原因はな、お前の腕が上達しているからだよ」
律「上達しているから、伸び悩む……?」
訳が分からない。
師匠「それだけ音を聴き分ける耳が出来てきたってこった」
律「そう、なの……?」
師匠「大抵そういう時にスランプに陥りやすいんだよ。
で、お前は音合わせの時も周りの音よりも、
自分の音にばかり意識がいっちまってるから、
余計に自分の音が下手に聴こえるんだろ」
律「でも、だとしても私がみんなの足を引っ張ってることには……」
師匠「……前にも訊いたが、もう一回訊くぞ。お前、なんのために音楽やってんの?
ドラムが上手くなりたいからやってんの? 誰かと楽しむためにやってんの?」
律「わたし、は……」
ドラムが上手くなりたかったのは、みんなに追いつきたかったからで。
みんなに追いつきたかったのは、みんなと音楽を楽しみたかったからで。
みんなと音楽を楽しみたかったのは、ずっと笑顔で一緒にいたかったからだ。
律「ふぐ、うぅ~……」
私は馬鹿だ。
そんな大事なことを忘れて。
手段と目的を履き違えて。
自分の馬鹿さ加減に後悔していると、突然インターフォンのチャイムが鳴った。
師匠「はいはい、どちらさんかなっと」
師匠がすれ違いざまに私の頭をぽんぽんと軽く撫で、玄関に向かう。
師匠「どちらさまでしょう?」
澪「夜分遅くに失礼します。少々お訊きしたいことがありまして、
お訪ねしたのですがよろしいでしょうか?」
律(澪!?)
聞き覚えのある声に思わず身を隠す。
その気配を察したのか、師匠が後ろ手に扉を閉めてくれた。
いったい何しに来たのだろう?
そもそもどうしてこの場所が?
いろいろと疑問はあったが、外で澪達が何を話しているのか気になり、
おそるおそる玄関に向かい、扉に耳を着ける。
師匠「あぁ、知っているが……。それよりも君達は?」
澪「失礼しました。私達は律さんの友人です。
秋山澪と申します」
律(唯達もいるのか……)
あんな別れ方をした後だ。さすがに顔を合わせづらい。
澪「単刀直入にお訊きします。律とはどういったご関係なんですか?」
師匠「……それを知ってどうするの?」
唯「りっちゃん、ここのところ元気がなくて……。
わたし、見たんです! おじさんと泣いてるりっちゃんが一緒にいるところを。
だからおじさんなら何か知ってるんじゃないかって思って……」
律「ぐわ~……」
あれを見られてたのか。
こっ恥ずかしさのあまり、頭を抱えてその場にうずくまる。
師匠「何か、ねぇ……。それを知って君達はあいつをどうしたいの?」
紬「りっちゃんが何か悩んでいるのなら力になりたいんです!」
師匠「放っておいた方がいいんじゃない? あいつがそれを望んでるとは思えないし」
律「師匠……?」
梓「なんで貴方にそんなことが分かるんですか!?」
師匠「じゃあ君達なら分かるというのかい? 分からないから、わざわざこんな所まで来たんだろう?」
澪「それは、そうですけど……」
師匠「あいつ言ってたぜ。
友達と一緒にいると、自分のコンプレックスが浮き彫りになって辛いって。
どれだけドラムの練習しても追いつけなくて、置いていかれているようで苦しいって。
そんな自分じゃ友達と音楽をやる資格がないって。音楽が楽しめないって」
澪「律がそんな、ことを……?」
師匠「一緒いることが苦にしかならないっていうのに、それでも君達はあいつの傍にいたいの?」
澪「………………」
律「もう、やめて……師匠……」
知られたくなかった。
知られれば、もう笑って傍になんていられなかったから。
聞きたくなかった。
改めて誰かの口から聞いてしまうと、自分がどんなにちっぽけか思い知らされるようで。
こんなどうしようもないコンプレックスなんて。
だって私は───
澪「……それでも、傍に、いたいです」
澪みたいに作詞も出来ないし───
澪「あいつが私達と一緒にいることで苦しいのなら、どうして苦しいのか一緒に考えたい。
その苦しみを分かち合って、一緒に背負いたい……!」
唯みたいな才能もないし───
唯「りっちゃんがいたから、わたし、音楽の楽しさを知ることが出来たんだもん!
今、りっちゃんが音楽を楽しめないんなら、
今度はわたしがその恩返しをする番なんだ……!」
ムギみたいに作曲も出来ないし───
紬「りっちゃんがあの時、私を誘ってくれなかったら、
私はこんなに素晴らしい友達に出会えなかった……!
私は、私達はもう一度、りっちゃんと音楽がやりたいんです!」
梓みたいな演奏技術もないし───
梓「他の誰かじゃ駄目なんです……
律先輩のドラムじゃないと放課後ティータイムじゃないんです!」
それに、それに……。
澪「私はあいつの辛そうな顔なんて見たくない……。
私達にはあいつのお日様のような笑顔が必要なんだ」
扉一枚隔てて伝わってくるみんなの想いが温かすぎて───気付けばまた涙を流していた。
叶うのなら今すぐにでもここから飛び出して、みんなの下へ駆け寄りたい。
だけどあの音楽室から逃げ出した今の私では、とても踏ん切りがつかなかった。
自分の意気地の無さに腹が立つ。
冷たい扉におでこを着けて、すすり泣く。
まるでそうすれば私の想いが伝わるんじゃないかと願って。
師匠「だとさ、お嬢ちゃん」
律「え……? うわわっ!?」
勢い良く外側に扉が開け放たれた。
扉におでこを押しあてていた私はつんのめるようにして、みんなの前に転がり出る。
澪「律!?」
転びそうになった私を澪の手が支える。
思わず握りしめたその手はとても温かかった。
その温もりに安堵を覚えたのも束の間、みんなに合わせる顔のない私はすぐに身を退いた。
律「待って、律!」
扉の内に閉じ篭ろうとした私を澪が呼び止める。
澪「さっき、この人が言ってたこと……本当なのか?」
律「………………」
澪「私達に追いつけないって……置いていかれているようだって思っているのか?」
律「だって……」
絶対に口にはするまいと思っていた不安や寂しさが胸の裡から零れていく。
ひっくり返すことの出来ない砂時計の砂が零れ落ちるように。
律「だって、そうだろう……!? 私にはみんなのような才能も技術もない!
いくら努力しても追いつけなくて……苦しかった! ……寂しかった!
置いて、いかれたくなかった!!」
澪「……っ! この、バカ律っ!」
澪が腕を振り上げる。
叩かれるのが、いや、澪の気持ちを知るのが怖くて、目を瞑って、身を竦ませる。
だってしょうがないじゃないか。
私はバカだから。
だからこんな風に自分の気持ちを駄々っ子のようにぶつけることしか───
律「……え?」
優しい温もりに包まれていた。
澪「馬鹿……馬鹿ぁ! 律の、馬鹿!」
温かい雫が頬を濡らす。そっと瞼を開けてみる。
抱きしめられていた。澪に。
泣いていた。澪が。
澪「なんだよ、置いていかれるって……!?
そんな寂しいこと、言うなよ。
私達はずっと一緒だったろう!? 私達はずっと───」
澪の言葉が閉ざしていた心の扉をノックする。
澪「親友だろ!」
その音に、言葉に私は扉の内から顔を出す。
そこには遥か先に行ってしまったと思っていたみんながいた。
唯「り”っぢゃぁ~ん……」
紬「りっちゃん」
梓「律、せんぱぁい……」
みんなが涙を流しながら、私を包んでくれていた。
遠くに感じていたその温もりに、不安や寂しさが氷解していく。
律「う、う…あぁ~ん……」
春の雪解け水のように涙が後から後から止め処なく流れ出す。
私達は喜びや寂しさ、全てを分かち合うように泣き続けた。
師匠「落ち着いたか?」
律「はい……」
洟を鳴らしながら応える。
師匠「ならさっさと帰れ。ご近所に何事かと思われる」
しっし、とぞんざいに手を振り、追い払う仕草をする師匠。
律「師匠……もしかして、さっき澪達を怒らせたのって、わざと?」
師匠「……さ~ぁ、どうだかねぇ?」
師匠はすっかり見慣れた不敵な笑みを浮かべた。
師匠「じゃあもうこんなところ、来んなよ。
もう俺の教えなんて必要ないだろ」
律「そんな、師匠!」
師匠「欲しがっていたもんはもう手に入ったろ?」
律「あ……」
さっきの師匠の謎の問いかけ。
ピアノソナタとドラム。
メロディとリズム。
決して一人だけでは紡ぎだせない音楽。
師匠「音楽なんて一人でやるよりもみんなでやった方が楽しいに決まってんだよ。
言ったろ? 楽しんだもん勝ちってよ。
こまけぇことに拘ってばっかで、周りが見えなくなるなんて損だぜ」
律「……だね!」
師匠「これにて俺の教えは卒業ってことで。
次に会う時は一端のドラマーとして会いに来い……律」
律「……! 師匠。ありがとう、ございましたぁ!!」
ふかぶかと頭を下げてから、踵を返し、みんなの下へと駆け出す。
私は忘れないだろう。あの人が教えてくれた全てのことを。
ドラムの叩き方や音楽のことだけではなく、人の繋がりの大切さを教わった。
それはきっとこの先、大切な宝物として私の胸の中で輝き続けるだろう。
街の喧騒を離れて、私達は家路に着いていた。
唯「えへへ」
唯が私の手をきゅっと握る。
律「お、どうした、唯」
唯「うん、こうして手を繋いでおけば、もう離れ離れなんて思わないんじゃないかと思って」
律「……たしかにな!」
そう言うなり私は隣を歩いていた澪の手を握った。
澪「な、なんだよ、急に」
律「ま、いいからいいから」
澪は少し恥ずかしそうにしていたが、こちらの想いが伝わったのか、
軽く握り返し、反対の手は梓の手を握る。
唯の方を見てみると、反対の手は既にムギと繋がれていた。
全員で手を繋いだまま、空を見上げる。
満天の星空はどこまでも深く、見入っていると呑み込まれそうな錯覚を覚えた。
だけどもう大丈夫だ。
私達は繋がっている。
いつか本当に離れ離れになって不安や寂しさを覚える日があっても。
この繋いだ手の温もりを覚えているかぎり。
私達はずっと一緒だ。
fin.
最終更新:2010年01月22日 16:18