物言わぬ人形と化した唯のことを思い出す。唯の様子は相変わらずだった。なにをするでもなくただ漫然と過ごすだけの日々。幼馴染として付き合いは長いつもりだったが、あんな唯を見るのは初めてだった。
和「取り敢えず言われた通り、体育館の使用許可は申請しておきましたけど……いったい何が始まるんですか?」
さわ子「さあ?」
和「さあっ、て……」
先ほど全責任は負うと言ったのはどの口か。そのあまりに無責任な発言に思わず眼鏡がずり落ちる。
さわ子「今、あの子達が唯ちゃんのために出来る、全てのことをやろうとしてるのよ。顧問の私としては信じるしかないじゃない?」
不敵の笑みを浮かべながら、何でもないことのように言い放つ。信じるしかない。その言葉の重みを全て背負いながらも、あくまで笑顔のままで。それは彼女達への信頼の現われなのだろう。ならば───。
和「じゃあ私も信じてみることにします。……それだけしか出来ないのが、ちょっと悔しいけど」
さわ子「それだけで充分よ。今の唯ちゃんにとってはそれだけで、とても心強い力になる。私はそう思うわ」
体育館の重い扉を引き開け、暗幕に包まれた空間に目を凝らす。そこには先に来ていた唯と憂ちゃんの姿があった。すぐ傍まで歩み寄り、唯の様子をそっと窺い見る。
その瞳には何も映っていない。その耳には私達の足音さえ届かない。その心にはどんな想いも届かない。記憶の中にある唯と、今の唯の姿が重ならない。もしかしてもう一生このままなのだろうかと思うと背筋がぞっとした。
和(頼んだわよ、みんな……!)
今の私に出来るのはただ信じることだけだった。唯を。唯を想う軽音部のみんなを。
照明が一斉にステージを照らし出す。そこにいるのは澪さん、律さん、紬さん、梓ちゃん。それと───スタンドに立て掛けられたチェリーサンバーストのレスポール、お姉ちゃんのギターだった。
律「いくぜぇッ、ふわふわタイム! 1・2・3・4・1・2!」
律さんの掛け声と共に聞きなれた曲が始まる。ただいつもと違うのはボーカルがお姉ちゃんではなく、澪さんという点だった。大事な何かを欠いたその光景に胸が締め付けられる。
澪さんの左指が弦の上を跳ね踊り、軽快な重低音が地を這う。
律さんの全身が震えるたび、空気が脈打つように律動する。
紬さんの両の手が黒鍵と白鍵を行き交い、薄闇を綾なすようなメロディが舞い降りる。
梓ちゃんの右手がフィンガーボードの上を奔るたびに、泣き声のような想いを綴る。
それはいつも以上に力の籠もった演奏だった。だけど───
澪(頼む、唯……!)
紬(どうか……)
律(思い出してくれ!)
梓(唯先輩!)
何かが足りない。そう感じているのは、ステージにいる澪さん達も一緒のようだった。それを取り戻すために、それを補うために一生懸命なその顔は見ていて胸が張り裂けるようだった。
傍らに座るお姉ちゃんを横目で窺う。身動ぎはおろか、瞬き一つしていない。届いていない。みんなの想いは、切なる願いは───何一つ届いていないようだった。
演奏が終わる。想いの熱は何一つ伝わらず、ただただ中空に霧散してしまった。
律「駄目、なのか……」
梓「そんな……う、うぇ…っく……」
澪「もう、届かないのか……なに一つ……!」
紬「唯ちゃん……!」
絶望が支配する。みんなの顔に諦めの色が走る。
「しっかりしなさい、あなた達!」
そんな空気を一蹴するかのような檄がすぐ隣から飛んだ。
さわ子「唯ちゃんの笑顔を取り戻すんでしょう!? ならあなた達がそんな顔してどうするの! あなた達が笑ってなきゃ、唯ちゃんが笑えるわけないじゃない!」
和「先生……」
さわ子「思い出しなさい! 唯ちゃんの笑顔を! 一緒に笑いあった思い出を! あの文化祭のステージを!」
紬「先生……」
澪「そうだ……取り戻すんだ。唯の笑顔を、あの思い出を!」
梓「私、もう泣きません!」
律「確かにこんな湿気た顔で演っても楽しくもなんともねぇ……。私達が笑ってなきゃ、あいつが! 唯が! 笑えねぇ!!」
澪「いくよ、みんな! ふわふわタイム!」
律「1・2・3・4・1・2!」
文化祭でのあのステージを思い出す。
(そういやさわちゃんの作った浴衣を着てはしゃぎまわったせいで、風邪ひいたんだったよな)
(治ったと思ったらギターを家に忘れて、取りに帰ったんでしたっけ)
(先輩が一緒じゃなきゃ意味がないって私がごねて……)
(唯がいつも迷惑掛けてごめんって、目に涙をいっぱい浮かべて……)
(だけどみんな笑ってて……)
(誰一人迷惑だなんて思ってなくて……)
(だってそういうのが友達だから……)
(一緒に泣いて、笑って、一つ一つ思い出を積み重ねていって……)
(それをこんなところで終わらせねぇ……!)
(だから唯……)
(唯ちゃん……!)
(唯先輩……!)
『思い出して!!』
「……ふ……ァ~イム」
気が付けば口ずさんでいた。私にとって歌いなれたそのメロディを。
「ふわ……タ~ァ~……♪」
自身の一部だと思っていたメロディを口ずさむたび、忘れようとしていた何かが心の奥底から湧き上がってくる。
「ふわふわタ~ァ~イム♪」
なんで忘れようとしたんだろう。こんなに大切なものを。こんなに楽しくなれるものを。こんなに心がウキウキするものを。
眩しいものに魅かれるようにステージへと歩を進める。みんなが笑顔で待っている。
なら行かなきゃ。いつもみんなで笑いあっていたのだから。
だけどなんでだろう。
うまくわらえない。
ただただなみだだけが、あとからあとからあふれてくる。
うれしいのとか、かなしいのとかでむねがいっぱいになってわらえない。
それがもどかしくて。どうしていいか、わからなくて。
「ごめん、ね……みんな……ごめん……」
ばかみたいにあやまっていた。
「いつも迷惑掛けて、ごめん。あの時、ひどいこと言って、ごめん。いっぱい心配かけちゃって、ごめん。ごめん……ごめんなさい……ごめん、なさい……」
涙が止まらない。あの文化祭の時のように。私はあの時、どうやって謝っていたんだっけ……?
「唯」
みおちゃんが手を差し伸べる。その手を掴んでステージへと上がった。
律「まったく……遅刻だぞ、唯」
唯「りっちゃん……」
紬「おかえりなさい、唯ちゃん」
唯「ムギちゃん……」
梓「もう、ほんと心配、したんですからね」
唯「あずにゃん……」
澪「お前がいないと盛り上がらないんだ。……演ろう、唯」
唯「みおちゃん……」
みんなが涙を浮かべながら笑っている。
そうだ。あの時もこんなかんじだったっけ。
唯「みんな……ただいま!」
ギー太を手に取り、ピックを構える。
なぜだろう。少ししか離れていなかったのに、ひどく懐かしく感じる。今は肩に圧し掛かる
この重さでさえ、愛しく思えた。
ムギちゃんのシンセサイザーがサビのメロディを奏でる。私達はステージの真ん中で顔を突
き合わせ、互いの呼吸を通い合わせる。
それだけで言葉にしなくてもみんなの想いが伝わってきた。
「いっくよ~、ふわふわタイム!」
……
律「うぃ~ッス」
唯「うぃ~ッス、りっちゃん」
律「ムギ~、今日のおやつはなに~?」
紬「今日はマカロンの詰め合わせよ」
唯「やったぁ、おいしそ~」
梓「みなさん、それより練習を……」
澪「まあまあ、梓」
いつもと変わらない日常。少しの間、失っていた日常がそこにはあった。
律「そういやぁ、耳の調子はどうなんだ、唯」
唯「もうばっちりですよ、りっちゃん隊員。絶対音感も無くなったし」
澪「絶対音感が無くなった?」
唯「ん~と、お医者さんが言うには聴覚を取り戻した代償なんじゃないかとかなんとか言ってたけど……よく分かんないや」
梓「分からないって……もったいないとか思わないんですか?」
唯「うん、もう絶対音感はこりごりだよ~。それに……」
梓「それに?」
唯「そんなものなくてもみんなと一緒なら音楽は楽しめるしね」
紬「唯ちゃんらしいわね♪」
みんなの顔に笑顔が灯る。胸が優しい気持ちでいっぱいになる。今ほど誰かと一緒にいて幸せを感じたことはない。
律「よ~し、じゃあ唯の快気祝いにいっちょパ~っと遊びに行くかぁ!」
唯「やったぁ~」
紬「じゃあ憂ちゃんと和さんとさわ子先生も呼ばなくちゃね」
梓「練習……」
澪「まあまあ、梓」
唯「早く行こーよぅ、みんな♪」
幸せな日々は続く。
いつかこの日に終りが来ても。
胸に宿るこの優しい音楽はいつまでも絶えることはないだろう。
fin.
最終更新:2010年01月22日 16:41