一人静かな部屋。
唯は遣り残したことは全て済ませようと思い
日記の項を捲る。

──あずにゃんとデート


バスを降りてから
唯と梓は二人手を繋ぎながら暫く歩いた。
二人の家は近所というほどでもなかったが向かう方角は同じだった。

唯は梓の手の温もりを感じながら
今日の事を思い返していた。
楽しかった──本当に楽しかった。
──そうだ、今日の事もちゃんと日記に書かないと
そんなことを考えていると妙な耳鳴りを感じ
次の瞬間には意識が途切れた。


唯は梓と手を繋ぎ静かな通りを歩いていた。
唯が足を止めると梓も立ち止まって唯に顔を向けてきた。

唯「あずにゃん、今までありがとう」

梓「なんですか?お別れみたいなこと言って」

唯「うん。お別れを言いに来たの」

梓は冗談だとでも思ったのだろう驚きと困惑の表情を浮かべた。

梓「なに、言ってるんですか?」

唯「あずにゃんは、憂から私の病気の事聞いてる?」

梓「少しですけど。憂は唯先輩の記憶が時々無くなるって・・・」

唯「そう、その間はね未来から来た私が体を乗っ取るの」

唯はわざと冗談めかせて言った。
梓も信じる事は無く笑いながら言った。

梓「そんな話信じませんよ」

唯「うん、信じてくれなくていいの」

唯「今日は、今のあずにゃんにお別れを言いに来ただけだから」

唯「多分、もう少ししたら今の私の記憶は無くなって、あずにゃんに不思議そうな顔を向けると思うけど心配しないで良いよって言ってあげて」

梓が唯の言葉を信じたかどうかは判らなかった。
ただ、唯を真剣な顔で見つめて唯の言葉に耳を傾けていた。

唯「それでね、あずにゃん。 どうしても今のあずにゃんに伝えたいことがあるの」

唯「私の時代──未来のあずにゃんにこんなこと言うと悲しむと思うから、今のあずにゃんに言うんだけど」

唯「私ね、あずにゃんの弾くギターが大好きだよ。 だから、ギター弾き続けてね」

唯「あずにゃんは可愛くて、優しくて、偶に厳しいけど、何時も私を助けてくれた」

唯「すっごく感謝してる。ありがとう。ごめんね。それから──」

唯「あずにゃんのこと大好きだよっ」

梓の瞳には涙が溜まっていた。

梓「嘘・・・ですよね。そんなこと言ってお別れだなんて・・・卑怯ですよ・・・」

唯「あずにゃん。さようなら──」

梓「嫌ですっ!嫌ですよ。私はまだ何も言ってませんっ!」

梓「唯先輩ばっかりずるいですっ。自分の思いだけ伝えて・・・。私も、私だって──」

梓の頬に一筋の涙が伝う。
梓は唯の肩に腕を回すと背伸びをして
唯の唇にキスをした。

──唯先輩が大好きです

梓の思いは確かに唯へと伝わった。


唯の目の前には涙を流した梓の顔があった。
何かあったのか?
唯は例の症状がまた表れたのだとわかった。
唯に顔を近づけて泣いている梓。
自分が何かしてしまったのだろうか
傷つけるようなことでも言ったのか
唯は不安になる。

唯「あ、あずにゃん・・・」

梓は涙を拭うと微笑んで言った。

梓「何でも無いです。何でも」

唯「で、でも・・・」

梓「心配ないですよ。唯先輩は私を傷つけるようなことはしてませんから」



唯は右手でそっと唇に触れた。
梓の柔らかな唇の感触が残っている。

──初めてのキスは涙の味がした

唯は自分が涙を流していることに気づいた。
幸せな感情が液体となって頬を濡らす。

最後にみんなの顔を見よう。
唯は日記の最後の項を開いた。



秋が終わり肌寒さを感じる季節。
授業が終わり、放課後
唯は軽音部の部室へと足を踏み入れた。

途端に意識が途切れた。



軽音部の部室にはみんなが居た。
今まで取り戻したいと願っていた、あの頃のみんなが

──でも、ごめんね。私は戻れない。

唯はこれから壊そうとしているのだ。
今ここにある風景を
今まで築き上げた関係を
唯の愛した軽音部を
好きで仕方ないものを、ずっと好きで居たいから
一番守りたいものを、守るために、壊すのだ。

──澪ちゃん、覚えてる?二人での路上演奏、楽しかったよ。

──りっちゃん、澪ちゃんを支えてあげてね。澪ちゃん寂しがり屋さんだからね。

──むぎちゃん、私がどんな道を選んでも生き方を変えなかったね。一番真っ直ぐに生きてたよ。

──あずにゃん、大好きだよ。

──みんな、本当にありがとう。


入り口で暫く立ち止まったままの唯を皆は不思議そうな目で見ていた。

唯「ご、ごめん・・・私なにか言ったかな?」

律「いや、ただぼーっと突っ立ってこっち見てただけだけど」

澪「唯、何かあったのか?」

唯は頭を振って答えた。

唯「ううん。なんでもない」

紬「いま、お茶淹れますから。唯ちゃんも座って」

紬に促されて唯は椅子に座る。




目の前に和が居た。

和「唯、泣いてるの?」

唯「うん」

和「私に出来ることある?」

唯「だっこ。して欲しいな」

和「ホント甘えん坊さんなんだから」

和は唯をそっと抱きしめた。

唯「和ちゃん」

和「なに?」

唯「私達、ずっと友達だよね」

和「当たり前でしょ。死ぬまでずっと友達よ」

もう、何も怖くなかった。


和は持ってきたDVDをプレイヤーにセットしてリモコンを唯に渡した。
唯は暫く一人にして欲しいといって和には部屋から出て行ってもらった。

唯は再生ボタンを押す。


初めての学園祭ライブ。
そして、初めてあの症状が表れた時でもあった。
確信はあった。
記憶の無くなった記憶と、記録さえあれば過去へと遡ることが出来るのだと。

演奏が終盤に差し掛かるとテレビの画面が歪み始めた。
映像は演奏の終了と同時に止まり、唯は画面へと吸い込まれる。

歓声が唯の鼓膜を震わせた。
講堂の舞台の上、あの懐かしく、達成感を伴った感情が唯の胸の裡を揺さぶった。
この清々しい気分を何時までも味わって居たくなる。

──今しかないんだ。これが最後のチャンスなんだ。

とっくに決意は固まっていた。
躊躇う必要は無い。
不安も恐怖も今は感じない。

唯はストラップを肩から外すと
ネックを両手で握り締め
ギターを大きく振り上げる。

──ごめんね、ギー太。ありがとう、そして──さようなら。

勢い良く壇上に叩き付けた。




エピローグ

澪は、矢張り音楽への道を選んだ。
音大へ進学し律と共に、新しいメンバーを加えバンド活動をしているらしい。

律は、以外にも澪と同じ大学へ進学して
一緒にアパートを借りて共同生活、いや同棲しているのだった。

紬は、生き方を変えなかった。
本当に芯の強い女の子なのだと唯は改めて感心した。

唯は──唯は和と同じ大学へ進学した。
あれ以来、ギターには触れていない。
にもかかわらず、「ふわふわ時間」だけは体に染み付いたままで
きっと、今ギターを渡されても完璧に弾きこなせるだろう。

和「唯、本当にこれも燃やしちゃっていいの?」

和はギターケースの中、襤褸襤褸になったギターを見ながら言った。

唯「うん、アルバムも全部」

和「そう。唯、なんか吹っ切れたみたいな顔してるわね」

和は優しく暖かな眼差しを向けてきた。

唯「和ちゃん、前にも同じようなこと言ってなかった?」


和「そう?気のせいじゃないかしら」

梓の近況は憂から伝え聞いた。
梓は卒業後、大学へ進学した。
毎週末には一人、路上で弾き語りをしているらしい。
その演奏は路行く人々の心を打ちTV等でも紹介されたと聞く。
梓は精力的に路上ライブを続け自作のCDを手売りして
自らの思いを込めた音楽を大勢の人に届けていた。

唯「ねぇ、思うんだけどさ」

和「なによ?」

唯「空き地でこんなもの燃やしちゃっていいのかな?」

和「細かいことは・・・って私の台詞じゃないわね」

和「兎に角さ、唯が元気になるなら私は地球が壊れたって気にしないのよ」

唯「和ちゃん、それはちょっと言い過ぎだよ」

唯が笑うと、和も唯の笑顔に釣られて笑う。
二人は声を上げて笑いあった。


灰色の煙が緩やかに空に向かって立ち昇る。
小さな空気の流れが、煙の形を大きく変える。

人もまた小さな要因で大きく人生を変えてしまう。
律のように、唯のたった一言でまったく違う人生を歩む運命もある。
紬のように、確固たる意思を持って自らの道を歩み続ける人間もいる。

唯は、様々な人生に──運命に翻弄されていただけなのかもしれない。

唯はその夜夢を見た。
行った事の無い異国の地
巨大観覧車の大きなゴンドラの中で
律と、澪と、紬と、梓と一緒にバンド演奏をしている。

観客は憂と和の二人だけ。

そんなささやかな、あの日、あの時、あの場所で、梓と語った夢を見た。
──幸せな夢を。



おしまい。



最終更新:2010年01月22日 22:59