さわちゃんは軽音部の顧問だ。
学校で会おうと思えば職員室に行けばいいし、放課後の部室に行けば必ず顔を合わす。

それなのに何が不満だというんだろう。

自分を無理矢理納得させようとしたけれど、涙はずっと流れたままだ。

自分でもよくわからない感情が体の中でぐちゃぐちゃと渦巻いて、気持ちを整理しようにもどうすることもできなかった。
ただ、何にも言えずに俯いたまま嗚咽を漏らした。
目の前に立っているさわちゃんの顔はよく見えないけれど、きっと困らせてしまっている。

いつも困らせてばっかりの私は、きっといい生徒じゃないんだろうな。

窓から差し込んでくる夕焼けが足元を照らして、床に落ちる涙を染めた。


「なんとなーく、気付いてたけどね」

「……、……」

「最近、唯ちゃんちょっと変だったし」

さわちゃんの声が少し近づいた。
ぐっと涙を拭って顔を上げると、さわちゃんは困ったように笑う。

「唯ちゃん、嘘つくの苦手よね」

「そ……そんなことないっ……」

「ほら、今も」

両頬に温かい手のひらが触れる。
心臓が忙しなく動いていて、どうにかなってしまいそうだ。

私の頬を撫でるように滑るさわちゃんの指の感触に思わず目を閉じる。
拭えるほどの涙なんて、もう残ってないはずなんだけどな。

だけど、すごく心地いい。

「初めは勘違いかなー、自意識過剰かなーとも思ったんだけどね」

一瞬、ほんの一瞬、視界が真っ暗になった。

同時に、今までに感じたことのない温もりと柔らかな感触が唇に広がる。

ぽかんと立ち尽くす私を見て、さわちゃんは笑った。

「合ってた?」

さわちゃんが私の下唇を親指でそっと拭う。

「不思議ね……、一度意識すると、私も唯ちゃんのことばかり考えるようになってたわ……」

さわちゃんに一体何をされたのか、何を言われたのかすぐには理解できなかった。
だけど、段々と状況を理解していくうちに、自然と涙が溢れてきた。
さっきまでとは違う涙だ。

きっと、さわちゃんは私が望んでいたことをしてくれて、その通りの言葉をくれた。
なのに、私に残っている最後の理性の欠片がそれを止めようとする。

「だけど……っ、さわちゃんは先生でしょ……」

嬉しい。
だけど、素直には喜べない。

だって、私とさわちゃんは同じ立場にいないから。

「そうね。先生だし、ましてや唯ちゃんは女生徒よ?手出したなんてバレたらクビが飛ぶのは間違いないし、もう一生女子高の先生なんてできないわ」

「……そうだよ」

「それに……唯ちゃんにだってそれなりの処分はあると思う」

高まっていた感情が段々と下がっていく。
付き付けられる現実に納得しなきゃと思う自分と、それでも一緒にいたいという我儘が交錯した。
いつになく真剣な声色と眼差しに頷くことも忘れて立ち尽くしていると、さわちゃんは言った。

「それでもいい?」

その瞬間、溜まっていたものが全て流れていった。

私は声にならない声でさわちゃんの名前を呼んで、目の前の身体に抱き着いた。
縋るように泣き続ける私を、さわちゃんはちゃんと受け止めてくれた。

「さわちゃん……、大好き」

きっとこれから沢山のことを隠して、周りに嘘を吐きながら過ごしていかなきゃいけない。
だけど、私は頑張りたいと思った。
どんなに辛くたってさわちゃんと一緒なら幸せだと、そう思ったから。


********************

「さわちゃん……」

一年前の今日。
私はさわちゃんの言葉でようやく思い出した。
そして、私が今日のことを覚えていないと気付いたときのさわちゃんの表情の意味も理解した。

じゃあ、今日さわちゃんが私を誘った理由って。

「何度も忘れようと思ったんだけどね……」

さわちゃんは小さく溜め息を吐いた。

「一度別れて、唯ちゃんだって毎日学校で頑張ってるのに、私もいい加減忘れないとって」

さわちゃんは前を向いたまま、ぽつりと言った。

「だけど、やっぱり忘れられなかった……」

「ごめんね」と言うさわちゃんの声は震えていた。
私は熱くなる目元を隠すように、視線を窓側へ向けた。

もしかしたらずっとさわちゃんは私よりも私のことを考えてくれてたのかな。
付き合ってるときはそんなこと思わなかったのに。
いや、思わなかっただけで私自身が気付けなかったのかもしれない。

私だけが、さわちゃんのこと好きだって思ってた。

今日は記念日なんだ。
私がさわちゃんに“好き”と伝えてから、ちょうど一年目の記念日。

さわちゃんはちゃんと、覚えててくれた。

「……、さわちゃんっ……」

泣きたくないのに次々と溢れてくる涙が頬を伝う。
まるで一年前の自分に戻ったような感覚。
あの日の私もたくさん泣いて――だけど自分の気持ちはちゃんとさわちゃんに伝えた。

「さわちゃん……、あのね……」

だったら、今日もちゃんと言おう。
今日言わないと、さわちゃんが本当に遠くへ行ってしまう気がする。

「ずっと、言えなかったことあったんだ……」

私はさわちゃんの左手をとった。
久し振りに触れたさわちゃんの指は前よりも少し細くなったような気がした。

「私が卒業するまで待ってて欲しい」

やっと言えた。

「我儘だけど……、私はやっぱりさわちゃんとずっと一緒にいたいから……」

さわちゃんの薬指に光る指輪をそっと外して、傍らに置いてさわちゃんを見つめた。
そのまま手を握ると、さわちゃんの瞳が揺らいだ。

「さ、さわちゃん?」

目元を押さえて俯くさわちゃんにどうしようとうろたえていると、さわちゃんは顔を上げた。
そして光る目元を拭って、さわちゃんは小さく笑った。

「もう……、泣かせないでよ……」

さわちゃんはそう言って私をぎゅっと抱き締めた。

「さわちゃん……」

久し振りに感じるさわちゃんの温もり。
本当に心地良くって、やっぱり離れたくないと思った。
そして、大好きだって実感した。



さわちゃんの腕の中で私は小さく呟いた。

「……あと一年、か。長いなあ」

そしてふうっと溜め息を吐いて「待っててくれる?」と聞くと、さわちゃんはにっこりと微笑んで、

「ずっと待ってる」

と言ってくれた。




【3月1日/高校三年生】


窓から校庭の桜を眺めた。

蕾が少しだけ開き始めている。


卒業式を終え、ざわついていたはずの校舎にはもう誰も居ない。

だけど、その余韻はまだ私の中にも残っている。


教室には夕日が差し込み、全てを橙色に染めている。

りっちゃん、澪ちゃん、ムギちゃん、和ちゃんの机を順番に眺めてからみんなの笑顔を思い出す。


私は立ち上がって、傍らに置いていたギー太を背負った。

そして胸につけられた花飾りを見て、卒業証書を握り締めた。


教室を出て、ゆっくりと廊下を歩く。

三年間を過ごした校舎。

一つ一つの思い出を噛み締めるように、階段を下った。



外に出るとまだ少し寒いような、だけどいつもより温かな風が吹いていた。

そして、正門の先に見つけた背中に向かって名前を呼んだ。


「さわちゃん!」


振り返ったさわちゃんは、にっこりと微笑んで言った。


「卒業おめでとう」


そして私に向かって左手を伸ばした。

私はその手をしっかりと握り締めた。





それから二人で一緒に正門を抜けた。

正門を抜けたあともずっと、私たちは手を繋いでいた。








おしまい






最終更新:2011年08月28日 23:15