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明け方にようやくインタビュー部分の文字起こしを終えて、純にメールで送った。
聞き直すたびに涙があふれて、いつもよりずいぶんと時間が掛かってしまった。


梓「あー……目痛い……」

やり残していた物置の片付けをこなしながら、
泣き過ぎと寝不足で腫れた瞼を時折濡れタオルで冷やす。

ライブはとても盛り上がったと、昨晩純からメールで教えてもらった。
さわ子先生と和先輩も来ていたそうだ。ちょっと逢いたかったかも。


バイクの音が家の前で停まって、郵便受けがコトンと音を立てた。
室内から玄関へ回って、届いた郵便物を確かめる。

請求書やダイレクトメールに混ざって、
一人暮らしをしていた住所から転送された絵はがきが1枚届いていた。

梓「律先輩、こんどは南米に行ったんだ……」

きれいな風景の写真を眺めて、もう一度宛名の下に書かれたメッセージを読む。
途中で雨に濡れたのか、ところどころ文字が滲んでしまっているけれど
律先輩らしいちょっと雑で跳ねた文字に、懐かしい気持ちになる。


……ふと、視線を感じて顔を上げた。


梓「……」


梓「……」

唯「や、やっほーあずにゃん! アイス買ってきたから一緒に食べよ?」


ギターケースを背負った唯先輩は門扉からぴょこんと顔を覗かせて、
コンビニの袋を揺らしながらニッコリと笑った。


唯「ねえあずにゃん、ここってなんていう名前だっけ」

律先輩からの絵はがきを目の高さに掲げて、
唯先輩が2本目のアイスを頬張りながら聞く。

梓「マツ、マチュ、マチュピツ、ですよ」

唯「あは、言えてないよあずにゃん。マツピツだよ。……あれ?」

梓「唯先輩だって言えてないじゃないですか」

唯「えへへ、そうだね。りっちゃんほんと色んなところに行ってるねえ」

梓「そうですね。そんなにアイス食べたらお腹こわしますよ?」

唯「だいじょーぶだいじょーぶ」

へらりと表情を崩す唯先輩から目を逸らして、私は物置の片付けを再開した。

唯先輩は一昨日の事も昨日の返事も聞こうとせず、
掃き出し窓の桟に腰掛けてニコニコと私を見ている。


唯「あっ!あずにゃんそれ!」

梓「えっ?」

ふいに唯先輩が大きな声を出して、びっくりして振り返る。

唯「それって、ビニールプール?」

梓「あ、はい。ちっちゃい頃に使ってたやつですけど。母がまだ捨ててなくて」

手に持った子供用のビニールプールをちらりと見て、唯先輩にこたえる。

唯「なつかしーねー、うちにもあったよ。ねえ、それ膨らませてみない?」

梓「えっ、これをですか?」

唯「そそっ。そこにポンプもあるし」

梓「はぁ……。長い事このままだったし、膨らみますかね」

両手で広げようとしたら、長い間折り畳まれてくっつき合っていたビニールが
べりべりと耳障りな音を立てた。


しゅこしゅこ、しゅこしゅこ

唯先輩が足踏みポンプを踏む様子を、窓辺に座って眺める。

しゅこしゅこ、しゅこしゅこ

空気を送られたビニールプールは少しずつ膨らんで、
本来の姿を見せ始めている。

しゅこしゅこ、しゅこしゅこ


梓「……代わりましょうか?」

唯「大丈夫だよー、これ結構楽しいし。アイス食べた分、消費できるし」

唯先輩は額に汗を浮かべつつ、ニコリと笑ってみせた。


30分ほどかけてようやく膨らんだビニールプールに、ホースで水を張る。

唯「気持ち良さそうだねー、スイカとか冷やしたくなるねえ」

梓「唯先輩は食べ物のことばっかりですね」

唯「えー、そんなことないけど……。よしっ、入っちゃおう」

梓「えっ」

唯先輩はさっさとジーンズの裾を捲って、
ざぶん、とビニールプールの中に両足を入れた。

唯「うひょお、ひゃっこい!」

梓「ああほら、ジーンズの裾もっと捲らないと、濡れてますよ」

唯「だいじょーぶだよ、すぐ乾くから。あずにゃんもはやくおいで」

ほら、と手を差し伸べられて、反射的にその手を握る。

ざぶざぶと波打つ水面が太陽の光を反射して、きらきら光っている。
サンダルを脱いで、おそるおそる片足を水に浸す。

梓「……つめた」

唯「気持ちいいねー。ほらあずにゃん、もう片方も」

梓「っと、そんなに引っ張らないで下さい、唯先ぱーー」

強く手を引かれたはずみで、先に入れたほうの足がつるりと滑った。
そのまま身体のバランスを失って、唯先輩に抱きつく格好で倒れ込む。

ばしゃーん


梓「……」

唯「……」

梓「……スミマセン」

唯「……こちらこそ」

梓「……」

唯「……ぷっ、くくっ」

梓「……ふふっ」

唯「あずにゃん、やっと笑ってくれた」

梓「えっ」

至近距離で、唯先輩がとても優しい笑顔で私を見ていた。


小さなビニールプールの中に座り込んで、びしょぬれのまま、
唯先輩の両手が私の両手を包み込む。
その手が冷たいのにあったかくて、ずきんと胸が痛む。


唯「ずっと心配だったんだよ。あずにゃんちっとも笑わないから」

梓「……」

唯「なんで音楽やめちゃったのか……何があったのか、聞いてもいい?」

梓「……」

唯「無理にとは言わないけど……もしよかったら、でいいから」

梓「……わかりました」


……初めて参加したライブツアーのサポートは、最初のうちは順調だった。
知らない街で初めてのお客さんを目の前にして演奏する、刺激的な日々。

ツアーも後半にさしかかった頃、リードギターを担当しているメンバーに言い寄られた。
まったくその気が無かったし波風を立てるのも嫌だったので、できるだけ丁寧に断った。

すると今度は、そのメンバーから嫌がらせを受けるようになった。
最初は小さないたずらじみた内容だったけれど、
徐々に、ライブ本番中にまで行為が及ぶようになってしまった。

すれ違いざまに身体を触る、私のエフェクターを踏む、ギターを倒す……。
他のメンバーには見えないようにやるので、注意されるのはいつも私だった。

それでも、メンバー間の不和が原因でツアーを駄目にしちゃいけない。
そう思って、だんだんとエスカレートしていく彼の行為を、私は我慢し続けた。

梓「今考えれば、早く誰かに助けを求めるべきだったんです」

唯「……」

梓「我慢してるうちに、ストレスで胃を痛めてしまって」

唯「……」

梓「しばらくは薬でごまかせていたんですけど、本番中に倒れちゃって」

唯「……」

梓「動けなくなって、当然演奏もストップしちゃって」

唯「……」

梓「すぐにスタッフさんに助けてもらったんですけど、その時に」

唯「……」

梓「一番前にいた、ちょっと酔っぱらったお客さんが怒っちゃって」

唯「……」

梓「持ってたグラス投げられて、それがオデコに当たって……」

唯「……」

梓「脳しんとう起こしちゃったみたいで、気付いたら病院のベッドでした」

水の中で、握られた手がゆらゆらと揺れている。
唯先輩は何も言わず、ただ静かに私が話すのを聞いてくれている。

いちど目をつぶって、深呼吸して、再び口を開く。


梓「その日から、ギターを持つと手が震えるようになっちゃったんです」

唯「……」

梓「お医者さんは、やっぱり精神的なものだって」

唯「……」

梓「当然お仕事も出来なくなって、それでここに帰ってきたんです」


唯「……そんなことがあったんだ」

梓「……はい」

唯「もしかしてだけど、そのギターの人って、今回のバックバンドの……?」

唯先輩の問いに、こくりと頷く。

唯「ああ……。それでこの間は、帰っちゃったんだね」

梓「あの時は……すみませんでした」

謝った私に、唯先輩はふるふると首を横に振った。
濡れた髪から水の粒が散って水面に落ちる。

唯「あずにゃんのせいじゃないよ。あずにゃんは何も悪くない」

こつん。
唯先輩の額が、私の額に触れる。

唯「……大変だったね、あずにゃん。よくがんばったね」

梓「……」

唯「ねえ、あずにゃん」

梓「……はい?」

唯「泣いてもいいんだよ?」

梓「…………ッ」


押し殺していた感情がいっぺんにせり上がって、涙が溢れ出した。
びしょぬれのまますがりついて、子供みたいに大声で泣いた。

唯先輩は何も言わず、私が泣き止むまで優しく背中を撫で続けてくれた。



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梓「……せっかく目の腫れが引いてきてたのに、台無しです」

唯「まあまあ。泣いてすっきりしたならいいじゃないですか。……それに」

梓「それに?」

唯「久し振りにあずにゃんをギュッてできたから、ちょっと嬉しいかも」

梓「何言ってるんですか」

真っ赤になっているだろう私の目を覗き込んで、唯先輩が微笑む。


梓「それより、どうするんですかコレ」

唯「ほぇ?」

梓「下着までびっしょりですよ」

唯「あ……あー、どうしよっか……」

今更のように現状に気付いて、唯先輩の眉が八の字に下がった。

唯「憂は会社に行ってるしなぁ……」

梓「もう、考え無しにこういうことするからですよ?」

唯「えーっ、まさか転ぶなんて思わなかったんだもん」

梓「うっ……。それは……スミマセンでした……」

唯「いえいえ……こちらこそ……」

梓「……」

唯「……」

梓「……ぷっ」

唯「ふふっ、えへへ……」

お互いの顔を寄せて、くすくすと笑う。
初めて会った時から変わらない彼女の笑顔を、とても愛おしく感じる。

梓「とりあえず私が着替えて下着買ってきますから、唯先輩は待っててください」

唯「えー、このまま?」

梓「プールの外に出てもらっても構いませんけど」

唯「んー……折角だからこのまま待とうかな」

梓「……好きにしてください」

ビニールプールから上がってサンダルを引っかけ、びしょぬれのTシャツを絞る。
唯先輩は水面からはみ出した膝小僧をぺちぺち叩きながら、
ねえあずにゃん、と私を呼んだ。

梓「はい、なんですか?」

唯「むったんどうしてる?」

唯先輩の質問に、Tシャツを絞る手が止まった。
視線は合わせずに、額に張り付いた前髪を掻き上げる。

梓「部屋の……クローゼットに入れっぱなしです」

唯「あとで一緒に弾いてみない?ギー太も持ってきたし」

梓「……でも、全然触ってないから…弦錆びてるかも」

唯「替えの弦がなかったら、買いに行こうよ」

梓「ブランクがあるから、うまく指が動かないかもですよ?」

唯「リハビリだと思えばいいよ~」

梓「……手が……。また、震えちゃうかもですよ」

唯「ねえ、あずにゃん」

膝小僧を叩く音がやんだ。
ゆっくりと振り返って、唯先輩と視線を合わせる。

梓「……はい」

唯「大丈夫だよ」

梓「……」

唯「怖くなんかないよ」


何か根拠があってそう言っているのかは、分からない。
唯先輩のことだから、きっと根拠なんてことすら考えていないだろう。


だけど。


唯先輩にそう言われたら、なんでだか、大丈夫って思っちゃうんだ。

むかしっから、そうだった。
この人の優しさに触れたら、いつだってそうだった。


唯「……ね?」

首を傾げてみせた唯先輩に、つい、笑みがこぼれる。


梓「……ビニールプールで体育座りしながら言われても、説得力ありませんよ」

唯「あれぇ? ダメだった?」

梓「適当なところで上がっちゃってくださいね。ホントにお腹こわしますよ?」

さっきアイス食べ過ぎてましたし、と付け足したら、
唯先輩は肌についた水滴をきらきら光らせながら、子供みたいに笑った。



着替えを済ませて、財布と携帯を持って玄関を出る。

庭を覗くと唯先輩はまだビニールプールに入ったままで、
いってらっしゃ~いと間延びした声で手を振った。

いってきます、と私も手を振り返して門を開ける。


コンビニへの道を急ぎながら、携帯を開いて着信履歴を表示する。
最新の番号を選んで耳に押しあてると、5コール目で親友の声が聞こえた。



梓「あ、もしもし純? 昨日はありがとう。……うん。それでね、今……






おしまい



最終更新:2011年09月16日 22:11