その言葉を聞いて、胸がまたずきりと痛んだ。どうしてこんなに胸が痛むのか、今度はその理由にも心当たりがあった。
友達の自慢をするお姉ちゃんの顔はとてもまぶしくて、とても誇らしげで、私の知らないお姉ちゃんの顔がそこにあった。
こんなこと、お姉ちゃんの前で思っちゃいけないのに。それなのに、自分の思考を否定すればするほど胸が痛んで仕方がない。
「これからひとり暮らしするんだから、料理できるようにならなきゃいけないと思って、最近いろいろりっちゃんに教えてもらってるんだ。えへへ、憂においしいって言ってもらえると自信つくなあ」
「……そう、なんだ」
どうして律さんなの。
どうして私じゃないの。
それを言葉にすることだけはどうにか堪えたけれど、それはもう、疑いようのない私の本心だった。
お姉ちゃんが遠くに行っちゃう。お姉ちゃんを取られちゃう。
私のいる家よりも友達と一緒の寮を選ぶと聞いた瞬間から無自覚のうちに抱いていた気持ちの名前を、今この瞬間、はっきりと知ってしまった。
……そっか。
私じゃダメなんだ。
私じゃ、お姉ちゃんのいちばん大事な人にはなれないんだ。
胸の中を埋め尽くす感情は、そのことを私に気づかせるには十分すぎるほど大きなものだった。
「……憂? どうしたの? ……なんで、泣いてるの?」
「っ……!?」
慌てて自分の顔を隠す。でも、もう遅かった。
知られてしまった。お姉ちゃんに、私の醜い嫉妬心を。
「……っ、ご、ごちそうさまっ!」
衝動的に席を立ち上がり、そのまま自分の部屋に逃げ込む。
窓に映り込んだ私の顔は、自分でも見ていられないくらいぐちゃぐちゃに歪んでいた。
泣きたくなんてないのに、ぽろぽろぽろぽろ、次から次へと涙の滴があふれてくる。
こんな気持ち、できることならずっと知らずにいたかったのに。
もうやだ。やだ、やだ、やだよ、お姉ちゃん。
「……憂? 部屋、入ってもいい?」
こんこんと、いつもより控えめなノックの音がする。こんな顔を見られたくない。だけどそばにいてほしい。矛盾するふたつの感情を抱えたまま何も答えられずにいると、しばらくしてからゆっくりと部屋のドアが開いた。
「…………」
心配そうな顔でお姉ちゃんが私を見ている。どうしたの、何があったのって、言葉なんてなくたって目を見るだけでお姉ちゃんの気持ちが伝わってくる。
もう、隠せないと思った。
「……どうして、いなくなっちゃうの?」
とうとう口からこぼれた本心。ひとつ口にしてしまえば、あとはもう、ふたつもみっつも変わらなかった。
「……ずっとうちにいてよ。遠くになんて行かないでよ。離れたくないよ、お姉ちゃん……」
お姉ちゃんはもう、ひとりで起きられる。
ご飯だって自分で作れる。
私なんてもう、いらなくなっちゃったのかもしれない。
「今よりもっと早起きして、毎日起こしてあげるから……もっともっとおいしいご飯が作れるようにがんばるから……だから、いなくならないでよお……」
それでも、私にはそれしかできないから。
ベッドの上に座り込んで、子どもみたいにぼろぼろ泣いて。呆れられてもしょうがないって思った。
だけどお姉ちゃんは、私の目をじっと見つめたまま。
そのまま何も言わずに、私の肩をそっと抱きしめてくれた。
「……お姉、ちゃん……」
お日様みたいにあったかいお姉ちゃんの体。言葉じゃ説明できない安心感が全身をいっぱいに満たしていって、私はそれからしばらく声をあげて泣いた。
私が泣いている間、お姉ちゃんはずっとそうしてくれていた。いつもは頼りなくて目が離せないところもあるけれど、やっぱり、お姉ちゃんはお姉ちゃんだ。
それからずいぶん経って、私がようやく泣きやんだ頃、お姉ちゃんはもう一度私の顔を見て言った。
「私ね、憂がいないとぜんぜんダメなんだ」
さっきまでの私なら単なるなぐさめの言葉くらいにしか思わなかったかもしれない。
だけど、気持ちをぜんぶ吐き出してちょっとだけ楽になった今は、お姉ちゃんの言葉をすっと聞き入れることができるようになっていた。
「目覚ましはいつもかけてるの。それでもひとりで起きられたのは今日が初めてだし、あのハンバーグだって、片方は真っ黒こげになっちゃったしね」
……そうだったんだ。さっきはぜんぜん余裕がなくて、そこまで目を向けることができなかった。
片方だけ成功したハンバーグ。それが私の皿に乗せられていたことがどういう意味だったのか、今になってようやくわかる。
「憂がいてくれるから、私は私でいられるんだよ」
その一言に、私はどれだけ救われたことだろう。
もうすっかり流し尽くしたと思っていたのに、またじわりと涙が浮かんでくる。
「……よかった。私、いらなくなっちゃったんじゃないかって……」
「ど、どうしてそうなるの? ちがうよ、そんなこと絶対ないよ。私が憂に愛想つかされるならわかるけど……」
「そっ、そんなこと絶対ないよっ!!」
ありえない仮定を聞いて思わず大きな声が出る。お姉ちゃんはちょっと驚いて、声をあげた私さえも驚いていた。
私とお姉ちゃんはしばらく顔を見合わせて、それからどちらともなく、くすくすと笑った。
それからお姉ちゃんは私のすぐ隣に並ぶようにしてベッドに腰を下ろす。
「私が寮で暮らそうと思ったのは、このままじゃダメだと思ったからなの」
「……ダメって、どうして?」
「だってこのままじゃ私、憂がいないとなんにもできない大人になっちゃうもん。それじゃダメだなって思うから」
そう語るお姉ちゃんの横顔は、いつもよりずっと大人びて見えた。
今のことしか考えられなかった私と、先のことを考えようとしているお姉ちゃん。
……そっか。
やっぱりお姉ちゃんは、お姉ちゃんなんだね。
「それにね。憂にはもっと、いろんなウキウキを知ってほしいんだ」
「……ウキウキ?」
「そうそう、ウキウキ。家の中のことだけじゃなくて、もっとたくさんのことを知ってほしいの。憂には人のためだけじゃなくってさ、もっともっと、自分のために笑える子になってほしいなぁ」
そう言われた瞬間、私の脳裏に今日の学校での出来事がよみがえってきた。
人の笑顔のために何かをするんじゃなくて、自分の笑顔のために何かをしようって思うこと。
土が水を吸い込むように、お姉ちゃんの言葉は自然と私の胸の中に染み込んできた。
「今はまだぜんぜんダメだけど、私も憂がいなくても大丈夫になれるようにがんばるから。ね。だから一緒にがんばろ、憂」
「……うんっ」
「やくそく、やくそく」
ふにゃりと笑って小指を差し出してくるお姉ちゃん。私もごく自然に笑顔を返して、お姉ちゃんの小指に自分の小指を絡める。
ゆびきりげんまん。
子どもの頃からいくつも交わしてきた約束に、またひとつ新しい約束が加わっていく。
それらの約束をいまだにひとつも破ったことがないのは私のささやかな自慢。
お姉ちゃんの言葉を深く胸に刻み込んで、私とお姉ちゃんはゆっくりと小指と小指を切った。
「えへへ」
「ふふ」
もう一度、私とお姉ちゃんは笑った。
お姉ちゃんが私のお姉ちゃんでよかったなぁって、心から思えた瞬間だった。
「あのね、憂。ちょっとだけ待っててくれる?」
「え? えっと、うん、いいけど」
そう言って、お姉ちゃんは部屋を出ていった。どうしたんだろうと思ったのもつかの間のことで、お姉ちゃんはその手にギー太を抱えて私の部屋に戻ってきた。
つい最近まで私が預かっていたお姉ちゃんの大事なギター。受験が終わってからは毎晩遅くまで幸せそうな音色を奏でているのを、私は隣の部屋でずっと聞いていた。
「私、憂に何か少しでもお返しできないかって、前からずっと考えてたの」
お姉ちゃんは私の正面に座って、愛おしむようにしてギー太にそっと指を当てた。
「でも私、これくらいしかできないから。……聞いてくれる、憂?」
「……うん」
こくりと首を縦に振る。
お姉ちゃんはひとつ息を吸い込んでから、優しい指づかいで、穏やかな旋律を奏で始めた。
学園祭で聴いたときよりもゆったりとしたリズム。ギター一本だけで奏でられる柔らかなアルペジオ。
そのメロディは、ここ数日ずっと、夜遅くまでお姉ちゃんが練習していたものだった。
キミがいないとなにもわからないよ
砂糖としょうゆはどこだっけ
もしキミが帰って来たらびっくりさせようと思ったのにな
部屋を包むお姉ちゃんの歌声。
学園祭で聴いたものとは違う歌詞。
お姉ちゃんの真剣な表情が、じっと私の目に注がれていた。
キミについつい甘えちゃうよ
キミが優しすぎるから
キミにもらってばかりでなにもあげられてないよ
そんなことない。そんなことないよ、お姉ちゃん。
いっぱいいっぱい、いろんなものをもらってるよ。
キミがそばにいることを
当たり前に思ってた
こんな日々がずっとずっと続くんだと思ってたよ
そっか。お姉ちゃんも、そう思ってくれてたんだ。
私だけじゃなかったんだ。
でも、そうじゃないんだよね。
ゴメン今は気づいたよ
当たり前じゃないことに
まずはキミに伝えなくちゃ
「ありがとう」を
どうしてだろう。
悲しくなんてないのに。
すごくすごくうれしいのに、涙が止まらない。
キミの胸に届くかな
今は自信ないけれど
笑わないでどうか聴いて
思いを歌に込めたから
届いてるよ。
聴いてるよ、お姉ちゃん。
いつまでも私はここで、お姉ちゃんの歌を聴いてるから。
ありったけの「ありがとう」
歌に乗せて届けたい
この気持ちはずっとずっと忘れないよ
思いよ届け
お姉ちゃんの指先が、ゆっくりと指板から離れる。
演奏を終えて、お姉ちゃんが私の顔を見た。
「いつも、ほんとにありがとう」
どんなときも私を幸せにしてくれる魔法の笑顔。
世界でいちばん大好きな、ひとりだけの私のお姉ちゃん。
「だから、これからもよろしくね、憂」
大きく首を縦に振って、私はお姉ちゃんに抱きついた。
それから数日後。
今日はお姉ちゃんたちの卒業式。
すでに式もホームルームも終わって、今は在校生と卒業生が桜高の生徒として最後の交流を交わしているところだった。
梓ちゃんたちもそれぞれの部室に向かった。私はひとり、誰もいない教室で待ち人が戻ってくるのを待っていた。
「お待たせ、憂」
思っていたよりも早く帰ってきた純ちゃんは、にっと口元をほころばせながら私の机にやってきた。
「もういいの?」
「うん。湿っぽいのは苦手だし」
そう言う純ちゃんの目元にはほんの少し濡れたあとがあるようにも見えた。言わないほうがいいと思って黙っておいたけど。
「それじゃ、早いとこ梓をなぐさめに行きましょうか。今ごろぐすぐす泣いてるよ、ぜったい」
「あはは……」
マイペースだけど友達想いな純ちゃんと一緒に、軽い足取りで教室を出る。
「そだ。私ね、正式に軽音部に入ることにしたんだ」
「そうなんだ。でも新入生が入らなかったらって約束じゃなかったっけ?」
「そうなんだけどさ、梓ってほら、ああ見えてあぶなっかしいとこあるじゃん? たとえ新入生が入ってもひとりで部を支えていくのは無理だと思うんだよね。ここはもう私が一肌脱いであげるしかないじゃん?」
「純ちゃんって梓ちゃんのこと大好きだよね」
「なっ、なんでそうなんの?」
顔を真っ赤にしている純ちゃんがなんだか微笑ましくて、私はくすくす笑った。こうは言うけれど、純ちゃんも人には見せない葛藤があったんだろう。
「もう……でも憂、ありがとね。学園祭だけでも手伝ってくれるって聞いたら、梓もぜったい元気になるよ」
「それなんだけどね、純ちゃん」
でも、よかった。純ちゃんも軽音部に入るって聞けて。
これからのことを考えるだけで、胸が高鳴る。
「……え、なに憂? もしかして今さら気が変わったとか言わないよね? そんなこと言わないよね?」
「うーん、気が変わったといえばそうかもしれないんだけど」
「ちょ、ちょっと、勘弁してよ憂っ」
慌てる純ちゃんを見ていると自然と笑みがこぼれてくる。まずは純ちゃんをびっくりさせてあげよう。梓ちゃんはどんな顔するかな。
ウキウキに胸を弾ませて、私はこれから自分の部室になる音楽室を目指して歩いていった。
おわりです
作中では唯が一人暮らしすることについてあんまり語られてないので、きっとこういうことがあったんじゃないかなぁと思いつつ妄想全開で書いてみました
だって唯が修学旅行でちょっと帰ってこないってだけで泣いちゃう子なのに……
初のSS投稿で至らぬ点も多々あったかと思います、お目汚しすいませんでした
読んでくださった方ありがとうございました
最終更新:2011年09月18日 21:40