私がこれからどうなるのか……それは私にも分からないのです。

けれども不思議と恐怖は感じませんでした。


身体の世話や食事などは、私が起きている時にまとめて済ませます。

ティータイムは前よりもずっと短くなってしまいましたが、楽しさは変わりませんでした。

みんなが代わるがわる淹れてくれた紅茶を一緒に飲んだり、私が寝ていたあいだの出来事などを話してくれたり……

形は少しちがっても、そこに不吉めいた予感など一切なく、むしろ私たちの幸せはどこまでも際限なく
続いていくのではないかと思えてしまいます。




――信じたくない。


信じたくないのに、心のどこかで抗いようのない絶対的な確信があるのでした。



動き始めた時間は、まるで慌てるように加速して私を蝕んでゆきました。

…………。

…………。

唯「…………ムギちゃん、起きないね」

澪「う~ん……もう丸一日経ったのにな」

律「今は休んでるだけなんだって。ゆっくり寝かせてやろうぜ」

梓「…………」

唯「あずにゃん?」

梓「は、はいっ!?」

唯「どうしたの?ボーっとして……」

梓「な、なんでもないです」

澪「……次はいつ目を覚ますんだろうか」

律「最近ますます起きる時間帯が不安定になってきたから……
  それを考えると、ムギがいつ起きてもいいように誰かがこの寝室にいないといけないな」

梓「となると部活はしばらく3人でやることに……」

澪「それはしょうがないよ。私たちにできることを精一杯やるしかない」

唯「私たちにできること…………そうだ!」ピコーン

梓「何かいい案でも浮かんだんですか?」

唯「みんなでムギちゃんが早く良くなりますように~ってお祈りしようよ!」

澪「まあお祈りもいいけど、しっかり看病もしないとな」

律「気持ちは立派なんだけどな……」

梓「唯先輩はいい加減ちゃんとお手伝いできるようになってください」

唯「むむ……私だってこの前お料理したもん!」フンス

律「ほとんど泥まみれだったじゃん」

澪「せめて有機的な材料を混ぜないと……。あれじゃまんま泥団子だったぞ」

梓「私たちはいいですけど、ムギ先輩はほとんど有機物しか食べられないんですからね」

唯「うぅ……ごめんなさい……」

律「ま、唯が頑張ればそれだけムギも早く元気になるかもな!」

唯「ほんと!?」

梓「そうですよ唯先輩。一人で看病できるようになれば、きっとムギ先輩も元気になりますよ!」

澪「……私たちも祈ってあげよう。早くムギの病気が治りますように……」

…………。

…………。


目が覚めたのは、それから三日ほど経ってからでした。

紬「……ん…………」

唯「あっ!ムギちゃん!」

梓「ムギ先輩!」

重たいまぶたをゆっくりと開くと、みんなが私のベッドの周りに立っているのが見えました。

紬「あれ……? 私…………」

あまりに長いあいだ眠っていたので、自分が何をしていたのか一瞬忘れてしまいます。

澪「具合はどう?」

紬「……なんだか身体がとても重くて……やっぱり動けそうにない。
  それより、私はどれくらい寝てたの?」

律「丸々三日、だな」

紬「…………」

表情こそ顔には出しませんでしたが、私は驚きと困惑に頭がクラクラしてしまいました。

私の身体はもうそんなところまで…………。

唯「よ~し!ムギちゃんも起きたことだし、さっそくティータイムだね!」

澪「こら唯、まだムギは起きて間もないんだぞ……」

紬「私なら大丈夫よ、澪ちゃん」

澪「そ、そうか?」

まだぼんやりとしか目を開くことができませんでしたが、
私はみんなと居られる時間を無駄にしたくありませんでした。

律「ったく、久しぶりだからってはしゃぎすぎだぞ」

唯「ねえねえムギちゃん、私お菓子つくってみたんだよ~」

そう言って唯ちゃんは緑色をしたクッキーをみんなの前に広げてみせました。

律「お。前よりもよく出来てるじゃん」

澪「どれどれ……うん、美味しいじゃないか」ポリポリ

唯「ほら、ムギちゃんもどうぞ」

紬「うん…………ありがとう」

唯ちゃんが私の口へとクッキーを運んでくれます。

噛む力も弱くなってしまいましたが、おかげで私はゆっくりと口を動かして味わうことができました。


梓「紅茶、淹れました」

唯「あずにゃん気が利くねぇ~」

梓ちゃんが5人分のティーカップを持ってきてくれました。

私は寝たままなので、ストローでそれを飲みます。

何もかも美味しくて、涙が出そうでした。



少し時間をおくと意識もはっきりし始め、寝たきりではありましたが
おしゃべりも弾んで自然と笑顔も取り戻すことができました。



すべてが当たり前のようにきらめいていました。



ずきん、と胸を締めつけるような痛みが走りました。

心の痛み、心の苦しみです。

決定的な未来が、今そこに私を手招いているのが見えると、

私は確信しました。



――これが、最後のティータイム



唯「あのねムギちゃん、あずにゃんが作った新曲すごく楽しいんだよ!」

梓「ムギ先輩のおかげで完成したんです」

律「早く病気を治して、またみんなで演奏しようぜっ!」

澪「ああ。やっぱりムギがいないと寂しいよ」


紬「みんな……ありがとう……」

私の言葉はもはや部屋のなかに小さく反響して、彼女たちの風景が遠くなっていくのが感じられました。


律「それにしても澪のやつ四六時中哀しそうな顔してたんだぜ。ムギいつ起きるのかな~なんて呟いてたり、
  ほんとムギよりも澪のほうを心配したぜ」

澪「なっ……律なんてムギの紅茶じゃないと物足りないとか愚痴ってたくせに」

律「それは唯じゃなかったっけ?」

唯「わたしはいつも言ってるよ~。早くムギちゃんの淹れてくれる紅茶が飲みたいな~……って」

梓「…………」ムスッ

唯「あっ ち、違うよあずにゃん!そういうつもりじゃなくて……」

梓「分かってますよ唯先輩」クス


みんなの会話は、夢のように私の意識に響いて聞こえます。

何か話そうと思っても私の喉はすでに力が入らず、静かな息が吐かれるだけです。

全身は穏やかに感覚を失っていき、まぶたはそっと閉じられていきました。

迫ってくる暗闇の奥で、彼女たちの笑顔は最後まで光りかがやいて見えました。



ごめんなさい。

こうするしかなかったわがままな私を、許して。

私は消えてしまうけれど、いつまでも永遠に、私たちは一緒だから……。


ありがとう


そして…………さようなら


――――

―――



唯「…でね~、あずにゃんったら可笑しいんだよ……あれ? ムギちゃん?」

梓「ムギ先輩?」

澪「寝ちゃったか……まだ起きてから三十分くらいしか経ってないのに」

律「幸せそうな顔してら…………そっとしておいてやるか」


梓「…………」

澪「どうした、梓?」

梓「……いえ、なんでも……片づけ手伝います」


律「久しぶりにムギと話せて、楽しかったな」

澪「そうだな……楽しかった」

唯「次に起きたときには、もう病気治ってるかもね」

梓「どうしてそう思うんですか?」

唯「だって、ムギちゃんすっごく幸せそうな顔してたよ?
  それに私が丹精込めて作ったクッキーを食べたからね!」フンス!

律「まあ唯のクッキーが病気に効いたかどうかは分かんないけど、
  私たちの祈りは届いたかもな」

澪「うん。ムギもきっと元気になるさ」


…………。

…………。



第一部終了



◆◇◆◇

ムギ先輩が最後に眠りに落ちてから、300年くらい経っただろうか。

今、この部屋にいるのは私だけだ。

ふんわりと柔らかな布団に包まれて、ムギ先輩はすやすやと眠っている。

私はベッドのわきの椅子に座って、彼女の安らかな寝顔をただじっと見つめている。



となりの部室では澪先輩と律先輩が寄り添うように事切れている。

二人は数日前にほとんど同時に動かなくなった。

部室の長椅子で、目を見開いてうつむいたままぴくりともしなくなったのだ。


その姿を見ると、私はどうしようもなく哀しくなり、虚ろな気分になる。


唯先輩はそれよりもずっと前に動かなくなった。

あの人は最後までムギ先輩のそばに居ようとした。

毎日のようにクッキーを作って、ムギ先輩が起きるのを待っていた。

時間はかかったけれど、唯先輩は色々な仕事を覚えていき、私たちの誰よりもムギ先輩の世話をしようとした。

栄養をつけるために特製のスープを作ったり、清潔でいられるように寝たままのムギ先輩をお風呂で洗ってあげたり……。

どこまでも一途にムギ先輩の元気を祈っていた唯先輩は、あるとき急に動きが鈍くなった。

クッキーも次第に不器用な形になって、ろれつも回らなくなっていった。

唯先輩の身体になにか異常があったのだと気付いても、私たちにはどうすることもできなかった。

そして数年前、ベッドのわきに座ったままぴったりと動きを止めたのだ。


澪先輩と律先輩はそんな唯先輩を見てもなんとも思わないようだった。

壊れちゃったか、とか、ムギが起きれば唯を直してくれるだろう、とか話しているそばで、
私は言いようのない不安と喪失感を考えていた。

動かなくなった唯先輩は、ラボの一室に保管されている。

私たちは最初、なんとか自分たちで修理してみようと試みた。

けれど必要最低限の頭脳しか与えられていない私たちには、コンピュータの扱いなんてできるはずもなかった。

皮膚がただれはじめ、強烈な腐乱臭を放つようになった唯先輩は、保管というよりも捨てられた人形のように
ラボの棺桶に横たわっている。


いずれ澪先輩と律先輩もラボへ持っていかなければならない。

部室にいる二人の皮膚はすでに黒い斑点が目立ちはじめ、どろどろとした液体が床に漏れていた。

それでも私は、なるべく二人を部室に置いておきたいと思った。


何故だろう。

私は哀しかった。

けれども同時に、少し優しい気持にもなれるのだった。


午後の静かな空気が、開け放たれた窓からそっと流れてくる。

薄暗い部屋に陽のひかりが差し込んで、真っ白なベッドに小さなひだまりが出来ていた。


ムギ先輩の細かな寝息だけが、かすかに聞こえてくる。


……ムギ先輩はもう目を覚まさない。

私は心のうちでムギ先輩がすでにいなくなっていることを感じていた。


唯先輩が動かなくなったとき……そして澪先輩と律先輩が動かなくなったとき、その度に私の心は震えた。

恐怖と不安と悲しみを感じた。

何かが空っぽになる感覚を知った。


この300年、私は少しずつ死を知るようになったのかもしれない。

でもまだ理解することはできない。

世界で私だけが残されたいま、永遠に眠りつづけるムギ先輩は私に死の意味を永遠に問いかけているようだった。


ムギ先輩の肌は透き通るように綺麗だった。

髪は流れるようにベッドの上で波打っている。


ムギ先輩の手をそっと握る。

生きているように温かい。


梓「……ムギ先輩」

私は先輩の名前を呼んだ。

声は消え入るように小さくしぼんでいった。


私の手は、ムギ先輩の手を包んだまま動かなくなっていた。



◆◇◆◇

――月日は流れ、地球は再び生命にあふれた。

音楽室は生い茂る木々に囲まれてひっそりと建っている。

私たちはその建物の中を覗いてみる。

誰もいない。

静まり返った部屋には、陽の光と薄い影が寂しげな模様を描いている。

埃と草木に覆われた空間には虫や動物たちの生きている気配がする。




ふと耳をすませると、どこからか楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

遠くで賑やかな音楽が鳴っている。

まるで夢のなかの景色のように、それらは淡い色彩を描いている。

ひとりの少女と、無垢な人形たちの思い出は

この音楽室をいつまでもあかるく照らしつづけていた。



おわり







最終更新:2011年10月02日 01:38