得体の知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
焦燥と言おうか、嫌悪と言おうか。
結果した肺尖カタル※1や神経衰弱がいけないのではない。


……誰もいない音楽室で、私は読んでいた文庫本を机に置いた。

もう暗唱できるくらいに読んだこの本。
今ならこの主人公の気持ちがわかる気がする。
文庫本を置いた横には真っ白な紙が一枚置いてあり、先程から何一つ進んでいない。

いけないのはその不吉な塊だ。

また新しい曲を作ろうと筆を取ったのはいいが何か気にかかる。
ワンパターンというか、なんというか。
今の現状を打破したい。
もちろん今までだって余裕で作ったような表情を見せていたけども、水面に浮く白鳥のように水の中で必死にバタ足して、苦しんだ。

辛いことから逃げて怠けたい本能に忠実で、それに翻弄されるのも分かっている。
だからこうたまにスランプっていう休憩が。

それにだ、以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。あの主人公が蓄音機を聞かせてもらいに行ったように、私も律の部屋にCDくを聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。
何かが私を居堪らずさせるのだ。

それで私は一人、自分の部屋にも入れずに、街をさ迷ってみたり、海へと出かけて見たりした訳で。

もしこの苦しみに目的地があるというのであれば、近道でもしてみたいな。
できる事ならばすべて無くしたい。

そんな怠け者な私。

そういえば昔、スランプした時の私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。
いつもみたいな可愛らしい人工物のものでは無く、道端の花や、何も無い寂しい場所に一本咲いている向日葵みたいな、そんなモノに憧れた。
それは考えて見れば自分の理想図、というか律や唯みたいた私には無いものに惹かれるものであったのだろうか。
別に律や唯がみすぼらしいと言っているわけじゃないぞ、それは本当だ。
別に自分を愛して、なんていうのは大げさだけど自分を意識したり、可愛がってやれない人は他人だって愛せないよなぁ。

ペンを転がして見てもアイディアは思い浮かばない。

私は詩を書くときはまるで私がこの寂しい音楽室や居慣れた自室では無く、どこかヨーロッパの建築や、まるでメルヘンな世界にいるような錯覚を起こそうと務める。

その錯覚がようやく現実と区別付かなくなった頃、私はペンを取ることができるんだ。
けどそれっていうのはこう意識すると出来ないもので、例えばつまらない授業中や、寝る前の妄想などが一番適している。
こうやって私は錯覚の中に現実の私が溶けて混ざるのを楽しむ。
想像は一生懸命で、現実はいつもこう絶体絶命で。
……なんだかねぇ。
だけどその発展途中があるから不意にいいアイディアが生まれたりするんだけど。

さて、さっき律や唯に惹かれるといったのには他にも理由があって、特に律なんかは自分ではそう思っていないのかもしれないけど、目には映らない何かがある。
やる気っていうのかな、いつも全力で生きてて、それで全力疾走していて。
私の前には輝いて見える。とても、妬ましいまでいくほどに。


唯は……主にケーキ食べているときかな。
体重気にしないであんだけ食べれるって羨ましいけしからん。
私なんて少し痩せたからといってムギのケーキを食べたらまた戻って、なんというかすごい敗北感を味わってるけど。
けどそれって体が育っているってことで、そういう風に思うことにした。


そういえば私が読んでいた文庫本の中で、主人公が丸善というお店に行く描写がある。
そこで彼は赤や黄のオードコロン※2や洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色、翡翠色の香水瓶を眺めに行く。そして彼は一本の鉛筆を買ったりする贅沢をするんだ。
けどそれも今では借金取りの亡霊に見えるらしい。
私もそこまでひどくはないが今、そのような気分だ。フリル、綺麗な小物、キーホルダー。
すべてが私を惑わすものに見えてしまう。
だから今日の買い物も断り、私は一人ここにいるって訳。


少し話を変えようか。
この前、ムギがレモンティーを飲もうとして、檸檬をまるごと持ってきた時があった。
私は檸檬が好きだ。あの形、鮮やかな色、そしてあの味。
何もかもが刺激的なもの。
持った時のこの独特の冷たさも好きだ。
冬の日、ムギの手が暖かいといって皆で握り合った時があったが、その時のムギの気持ちは檸檬を持った時の心地良さだったのかもしれない。

……あれ、確かまだどこかにあった気がするな。
と私は立ち上がり、ムギのティーセットが綺麗に並べられている戸棚に手をかけた。

あった。

私は手を伸ばし、オブジェとして置かれていた檸檬を手にとった。
ずっしりとくる檸檬の質感。

――つまりはこの重さなんだな――

なんて言ってみたりする。

私は檸檬の重さ、冷たさを心地良く感じながら再び席に着き、ようやくペンを手に取る。

その重さこそ常々尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり……だったかな?

何がさて、私は幸福だったのだ。

「白鳥たちはそう……見えないところでバタ足してるんで、いや、するんですの方がいいか」

すら
すら
とペンを動かす。

なんで今まで気がつかなかったのだろうか。

今まで死んでしまうほど辛いことが今では快感に近いものを私に与えてくれる。

私のこの鬱憤を発散するようにペンに気持ちを込める。
孔雀だって、ここぞと言う時に羽を広げるんだ。
私はその美しさを表現しているんだと思っていた。


そういえば唯が詩を書いてきたとき、私はそれを何故か、いや理由は分かっているのだけれどそれを認めたくなかった自分がいた。
私は詩には自信を持っていたし、それが私レーゾンデートル に近いものであると思っていたからだ。
けどそれは本当は唯の発送を妬んでいるんじゃなくて、その発送に勝てなかった自分を許せないだけなんだ。

大事なのは自分を認めてあげること。

自分を許せない人間が、他人を許せるはず無いじゃないか。


―――――――――――。


しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。

最後のフレーズが見つからないのだ。

最後、というかこの詩すべてを司るものが。
ペンを握る手が疲れたような、もうすべて投げ出して、後ろに倒れこみたい気持ちに襲われる。
ペンを投げ出す、それが偶然にも檸檬に当たった。
気怠い、もの虚ろげな、それでいてこみ上げてくる焦りが。

……そうだ。

私は適当な、インクが切れたペンを取り出し、思い切り檸檬に突き刺してみた。
手に、突き刺さる感覚と、飛び出した果汁が先程まで書いていた詩に飛び散り、あの芳しい檸檬の香りが私を包む。

突き刺さった檸檬を持ち、引き抜き、また刺す。

先程穴が開いた部分から果汁と果肉が飛び出し、私は檸檬の香りを思い切り吸い込んだ。
まるで肺に檸檬を直接絞り込んだような、そんな気分に陥る。

……そこの空間はまるで今までの音楽室では無く、異質の、カーンと冴え渡るような何かが、私を包み込んでいた。

狂っているな。

この空間も、この私も。

けどそれは何か悪い感情の表れでは決してない。

Please dont say You are lazy
だって本当はCrazy。

狂っている?
いや違う。
本当は熱狂してるんだ。

こんな自分に、こんな歌詞を求めた自分に。


濡れた紙に殴り書きで書き足し、私はすべてを終える。
……ああ、そうだ。
それをそのままにしておいて私は、なに食わぬ顔をして外へ出る。

まるで彼のように。

私は穴があいた檸檬を歌詞の上に置き、荷物を手に取る。


これでこの気詰まりとした空間も木っ端微塵だろう。


音楽室から出ようとした瞬間、何か変にくすぐったい気持ちが私の身体を巡り、運動部の声がかすかに聞こえる放課後の階段を下っていった。


――――――――――――――――

律「おい、澪これ新しい歌詞か?」

澪「あ、ああどうかな?」

律「なんか今までの歌詞っぽくなくて……なんというか澪っぽくない?」

澪「私もそこを意識して書いてみたんだ」

梓「なんかカッコいい歌詞でいいですね!」

澪「だろ?クールな私たちをイメージして書いたんだけど」

律「けど音楽室に歌詞忘れるなんて澪っぽいよなぁ」
澪「そうか?いや、なんかさ出来た喜びでついな」

唯「じゃあさわちゃんに見せて新しい衣装作ってもらおうよ!」

紬「いきましょ、いきましょ」

トテトテ

澪「……」

私は後ろを振り返る。
机の上に置き去りの穴の開いた檸檬を見つめ、大きく深呼吸をする。

狂ってる。

私は自分しか感じる事が出来ないのであろう、檸檬の香りを胸いっぱいに感じながら、音楽室のドアを閉めた。






最終更新:2011年10月06日 23:58