澪は葛藤していた。
元来怖がりの彼女である。見るも悍ましいこの世ならざる者と相対した時点で、普段の彼女なら卒倒していたであろう。
そうならずに、彼女が今なお自意識を保つことができているのは、幼馴染を思う強い心からであるだろうか。

澪(私は…あの亀と一緒だ)

澪は先ほど右手に触れた、ブロンズ像を思い出していた。

澪(のろまで憶病で…うさぎさんのような律に迷惑ばかりかけて、守られて…)

今の澪には、あの亀が、踊り場で待つうさぎの影に隠れ、守られている臆病者の自分であるように思えてならなかった。

澪(思えば今まで本当にずっと、律に頼って生きてきた…)

『4年1組 秋山澪さん、どうぞー!』

『澪~!!軽音部に入ろうぜ~!!』

『軽音部が誇るデンジャラス・クイーン! 秋山~!み~お~!!』

律と過ごした思い出が甦ってくる。
今まで律はずっと自分を守ってきてくれたのに、彼女が苦しんでいる現在、自分は何もすることができないのか…

できることなら助けてあげたい。
しかし、グズでのろまで…憶病な自分が行ったところで、足手まといにしかならないのではないか。

澪(そういえばあの亀…)

ふと、どこかで聞いたあの手すりにあるウサギとカメに関する逸話を思い出す。

澪(この学校の創設者も、昔はグズでのろまで虐められてて…)

澪(そんな時に、先生に『誰も見ていないところで努力をし、ゆっくりでもいから前に進め』って言われたんだっけ…)

私にも、なれるだろうか。

あの亀のように前に進んで、律を守れるようになるだろうか。

目を見開いて、前を向く。

澪「私もやります」

澪「やらせてください!」

その眼は、今まで見た彼女のどんな表情よりも、力強かった。


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律「そろそろ…か」
月明かりに照らされた時計の長針を見ながら、律がそう呟く。

澪「ああ…」
小さく、しかし力強く澪は答えた。

律「さわちゃんの作戦だと、こっちから仕掛けるんだよな…?」

澪「……」

あの後、さわ子から聞かされた作戦を思い出す。


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さわ子「それじゃあ…作戦を説明するわね」

さわ子「まず、4人のメンバーに鏡を用意してもらうわ。
    場所は講堂。鏡は全部で4枚必要だから…1人1枚。いえ、2人で4枚の計算なるわね」

さわ子「次に、りっちゃん。あなたにはその間、リリーを引き付けてもらうわ」

さわ子「もちろん1人でとは言わないし、残った1人にはサポートとして付いてもらうわ。」

さわ子「別にリリーを目の前で挑発する必要なんてないわ。
    ただ校舎内に入って、どこかに隠れてるだけでいい。
    それだけで、アイツはりっちゃんを探すことだけに集中するはずよ」

さわ子「それとりっちゃんの補佐に付く人なんだけれど…ごめんなさい、私は行けないわ。
    鏡の配置について監督しないといけないから…」

さわ子「一番危険な役割なのに、ごめんなさいね」

紬「仕方ありませんよ。鏡の配置を間違えたら、封印自体できないんですもの」

梓「後は人選が問題ですね」

唯「そっかぁ…りっちゃんのサポートに、誰がつくかだね」

澪「…私がつく」

律「!? …いいのか?」

紬「澪ちゃん、大丈夫?」

澪「私なら大丈夫。それに、さっき邪魔をしたせいで、私とさわ子先生もリリーに敵として認識されたみたいだったからな」

澪「私たち2人が揃って不審な動きをしていたら、アイツに狙われてしまうかもしれないだろ」

さわ子「…そうね。もしかしたら、りっちゃんより先に私たちを排除しようとするかも」

さわ子「でも…本当にいいの?」

澪「…大丈夫です」

さわ子「そう…」

さわ子「気を付けてね。何かあったら、すぐに私たちを呼んで」

澪「わかりました…」

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澪「…行こう」

そう、律に優しく語りかけた。

教室の隅で隠れている間、律が小刻みに震えているのに澪は気づいていた。
自分の命が狙われているのだ、当然だろう。

澪も当然、恐怖に駆られていた。
正直に言うと、今にも逃げ出したいくらいである。
しかし、『変わろう』と決意したあの瞬間から、何故か落ち着いていられた。

律「…ああ」

澪の言葉に答え、立ち上がる。
震える手をギュッと握り締めて、澪と目を合わせた。

普段より力強い澪の瞳は、どこか頼りになる気がする。

携帯電話を取り出し、サイレントモードを解除する。

律「じゃあ…いくぞ」

周りにリリーがいないか細心の注意を払いつつ、扉を開いた。

ギィー…と扉の軋む音が、どんよりとした廊下の暗闇に消えていく。

気付かれたか、と危惧するが辺りにヤツの気配は無い。

耳を澄ますと、ガラン…ガラン…と金属が転がるような音が遠くで聞こえた。

リリーだろうか。
音から察するに、ゆっくりと階段を下りてきているようだった。

ヤツは2階に着いた頃だろうか。

律たちのいる1階まで、あと少し。

音が次第に大きくなっていく。


ガラン…



ガラン…



ガラン…


ガラン…


ガラン…

ガラン…

ガラン…
ガラン…
ガラン…ガラン…ガラン…

『Pppppppppp…Ppppppp…』

携帯の着信音が鳴り響いた。
さわ子からの、準備が完了したという合図。

ガランガランガランガランガラン!!

リリーが走り出したようだ。
その音とほぼ同時に、律と澪の2人も行動に向かって走り出す。

講堂まで、一直線に走り続ける。

ガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガランガラングチャgチャグチャガラン

月明かりの差し込む渡り廊下に出る。

講堂まであと数メートル。



ゴキッ…



澪の視界の端で、律が崩れ落ちた。

澪「律っ!!」

なんで…

どうして…

あと少しなのに…

振り返ったその先には、頭から血を流す幼馴染の姿。

その傍らには、中身の抜けた消火器を手に持ったリリーの姿があった。

リリーは律を一瞥した後、もう一度消火器を振りかぶった。

…ふざけるな。

もう二度と、律に手を出させるものか。

澪「あ゛あ゛あ゛ぁぁぁあっーーー!!!」

リリーに向かって、決死のタックルをぶちかます。

鼻をつく腐臭、体の内外問わず這いずり回る蛇、ムカデ、ゲジ、ヤスデ、クモ…

関係ない。
コイツもろとも吹き飛ばしてやる。

澪はリリーの放つ不快感を押し切り、そのまま後ろへ大きく吹き飛ばした。

澪「律!!大丈夫か!?」

律「ああ…」

急所は外れたのだろうか。意識ははっきりとしているようだった。

澪はそのまま律の手をとり、講堂へと走り抜けた。


講堂の中は閑散としており、冷たい空気が張りつめていた。

澪は暗闇の中、目を凝らして目的のモノを探す。

…あった。
ステージ前に凹字に並んである3つの四角い物体。あれが目的のモノだろう。その傍らには、同じような四角い物体がもう一つ並んである。

澪はちょうど3つの四角形に囲まれるようにして立ち止まり、後ろに律を避難させる。

入口の方へと振り返ると、リリーがこちらと少し距離を置き、立ち止まっていた。

これで、全てを終わらせる。

講堂の空気と共に、神経が張りつめていく…

リリーの表情がニヤっと歪む。

そして勝利を確信したかのように、リリーはゆっくりと歩き出した。

律「澪…」


リリーが近づいてくる。


澪(………)



人生の半分近くを共にした、律との思い出が脳裏をよぎる。



『澪ちゃんをいじめるなー』



澪(律…今まで守ってくれてありがとう)



リリーが目の前で立ち止まる。



『パイナップルのまねー』



澪(今度は私が…守るから)



『男っぽい言葉を使うと、自信満々に見えるよ!』



澪「どうしたリリー…びびってるのか?」




澪「かかって来いよ」



リリーの腕が澪の首元へと伸びてくる。

刹那、まばゆい光が辺りを埋め尽くし、リリーは動きを止める。

紬「スイッチオン~♪」


作戦開始の合図。

先ほどまでの静寂が嘘のように、講堂の空気が動き出した。

さわ子「おぉらぁあああーー!!!」

唯・梓「せーのっ!!」

掛け声とともに、さわ子・唯・梓の3人が鏡を動かし、凹字に蓋をした。

リリーは手で影を作りながら辺りを見回し、そして気づいた。

前、右、左、後ろ…四方に見える自身の姿。

自分の周囲を囲んでいる物体の正体に気づいた瞬間には、もう遅かった。




律『リリー、去れ。リリー、去れ。リリー、去れ』


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明るい日差しの差し込む軽音部部室。

春の陽気に彩られたそこには、昨晩の恐怖は微塵も感じられなかった。

和「もう少しで出番よ。スタンバイをお願い」

唯「ほーいっ!」

梓「みなさん、新歓ライブ頑張りましょうね!!」

紬「梓ちゃんの為にも、ね」

唯「あずにゃんの為ならえんやこら、だよ!」

いつもと変わらぬ部員の笑顔。

律「よ~し!それじゃ、行くか」

その中でも、とびっきりの笑顔で律は高らかに宣言した。

律「いくぞ~!!」

澪・唯・紬・梓「お~!!」

掛け声とともに、階段を駆け下りていく軽音部メンバー。

1階へとたどり着き、講堂へと駆け出していく。

最後尾の澪は、そんな仲間たちの姿を見ながら、手すりにあるブロンズ像をそっと撫でていた。

律「みーお! おいてくぞ~?」

そんな澪に、律は振り返り、向日葵のような笑顔で呼びかけた。

澪「今いく~!」

親友の元へ、綺麗な黒髪を揺らしながら駆け出していく澪。

その傍らには、ウサギとカメの像が寄り添うようにして鎮座していた。



~Fin~






最終更新:2011年10月26日 21:15