梓ちゃんがいなくなった頃から、急に辺りが冷えてきたらしい。

 オレンジ色に染まっていく空は出かけた時が嘘みたいに晴れきっているのに、風の強さは増していった。

 お姉ちゃんのかじかむ手をぎゅって握りながら、行くあてもなく通学路を逆にたどっていく。

 足が重く感じる。止まってしまえたらいいのに。自分でも分からないうちに、そんなことを思い始めてしまう。

 たまらず次の行き先をお姉ちゃんに尋ねようとした時、夕焼け放送が鳴り出した。

 立ち止まって見上げたサイレンが、夕陽の逆光で黒ずんで燃えたように見えるのが、意味もなく怖くて。


唯「よい子はもう帰る時間、なんだって」

憂「……そうだね」

 私たちは今日だけの“こども”で、それが終わる時間はとっくに過ぎていた。

 そろそろ、帰ろっか。お姉ちゃんが私を見つめて呼びかける。

 でも、動けなかった。歩みは止められないのに、止まらなかった。

 私のわがままで始まったデートの中で、私の口から、きょう一番のわがままがこぼれ落ちてしまう。


唯「――じゃあ、あの公園にもう一度いってみよっか?」

 そらしてた目をなんとか持ち上げてお姉ちゃんのほうを見たら、やっぱりあったかい笑顔が浮かんでた。


 もう一度踏み込んだ児童公園では、人影がひとつ残らず消えていた。

 さっきそこらを駆け抜けていた子どもたちはみんな放送に従って帰ってしまったらしい。

 私たちにせものの子ども二人は、凍える身体をくっつけ合うようにして木陰の遊具に近づく。

 時々吹き付ける強い風に身を寄せるたびに、髪の匂いや肌の熱を感じてどきどきしてしまう。


 結局、今日の私はにせものの、わるい子だった。

 だからわがままを言って、こんな時までお姉ちゃんにしがみついてしまっている。

 上京が近づくほどにお姉ちゃんなしでいられなくなって、

 一昨日なんて一緒じゃなきゃ寝付けないほどで、梓ちゃんや純ちゃんにも心配されちゃって、

 「陰からあの笑顔をずっと見守っていたい」なんてうそぶいたって、私はどうしようもなく子どもだった。


 握った手の汗がひどく熱を発している。

 気持ちわるくないのかな、私の手。とにかく、この手は離さなきゃいけないんだってば。

 言い聞かせるけど、三月の冷たい空気に甘えたまま、お姉ちゃんのそばで立ちすくんでいた。

唯「うーい、こっち向いて?」

 はっと振り向く。心のうちをとがめられる気がして、身をすくめる。

 するとお姉ちゃんの手が伸びて、冷えたうなじにやわらかい布がくるくるって巻かれた。

 あったかい。でも、伸びたマフラーの先は私のポケットの中にしまわれて、お姉ちゃんに届かない。

憂「えっ、いっしょに巻こうよ……?」

 切り取られたような感じがして思わずきいてしまうと、それじゃあケガしちゃうよってお姉ちゃんが笑う。

 よく分からないままの私の手を引っ張って、お姉ちゃんはブランコに私を腰掛けさせた。

唯「ね?」

 ああ、そっか……。そういうことだったら、つながってると危ないよね。

 お姉ちゃんのために編んだマフラーの温かさが、やっと私のことを暖めてくれた気がした。

 見上げたムラサキ色の空には、もう星が灯りはじめている。

唯「いくよ?」

憂「うん!」

 足をそっと浮かせると、お姉ちゃんがいきおいよく背中を押した。


 薄い色の月に向かって身体が浮かんで、一瞬、羽根をもらったみたいに重力を忘れる。

 浮かび上がった私の身体はすぐに地面へと引き寄せられて、お姉ちゃんの手のひらに戻ってくる。

 背中が押される。何度も、何度も。ひな鳥が羽ばたくみたいに、きこきこと音を立てて私が浮かぶ。


 気づいたら、お姉ちゃんと一緒になって本当の子どもみたいにきゃらきゃら笑う、私の声に気づいた。


唯「ねえっ! ……陽がしずまないうちにっ、月まで飛んじゃおうよ!?」

 めちゃくちゃな思いつき。だけど私の眼に映る児童公園が、秘密の発射基地みたく見えてくる。

憂「あはははっ! そこまで、飛べるかなあ……?」

 私の後ろ、風の吹く方に向かって聞いてみる。だけど、本当にどこへでも飛んでいけそうな気がした。

 お姉ちゃんがすぐ、「憂は飛べるよ」って背中を押してくれたから。


 しばらくブランコで遊んだあとで、向こう側に見えてたベンチに二人で腰掛ける。

 周りを取り囲む乾燥した木々のすき間から見える空の色は、とっくに赤から青に変わっていた。

唯「……冷えてきちゃったね。そろそろ四月なのに」

憂「……そうだね」

 私は自分の首に巻かれたマフラーをお姉ちゃんのうなじにそっと巻き付けようとする。

 でも、一度お姉ちゃんの方に伸ばした手があったかい身体に触れたら、動けなくなった。

 暮れていく夕陽となにもかも分かっていたみたいなお姉ちゃんが、怖くなって。

 ああ、明日の今ごろには、この町には、もう。


唯「……ねえ、」

憂「やだよ。おねえちゃんが、いないなんて……!」

 押し込めていた気持ちが声になって、自分のそれが聴こえた時。

 小さい子どもみたいに、涙があふれてきた。

 生まれたての赤ちゃんと同じぐらい泣きじゃくる私の背中を、お姉ちゃんはずっとさすっていてくれる。

 だいじょうぶ、いいこいいこ。お姉ちゃんの声が、私の心をやさしく溶かしていく。

 そんな魔法の声の呼びかけだって、明日の不安につながるばかりで、忘れてた記憶さえひもといてしまう。


 遠い昔、冗談半分に口づけをかわしたことがあった。

 まだ小学校にも行ってなかった時、テレビに映る大人の男女のまねをして。

 触れあわせる意味も分からないまま、「大好き」って気持ちばかり膨らんでいった。


 お姉ちゃんと一緒に三つの学校に通って、その気持ちはどうにかしずめていったはずなのに。

 家族として、お母さんやお父さんが私たちを見るような気持ちだって、頭で封じ込めたはずなのに。

 でも、いま、涙が止まらなくって。


唯「……うい、ごめんね」

 思わず顔を上げてしまう。ごめんね? 謝るのは、私の方なのに。

 向き合った私とうりふたつの顔が、今の私と同じように涙でくずれている。


 ――ごめんね、お姉ちゃん、ダメだよね。

 ういのことを見てると、どんどん大事にしたくなっちゃうの。

 憂はわたしと違ってなんでもできて、やさしくて、あったかくて、

 だけど甘えんぼで、がまんばっかりして、私はなんにも返せなくて、ごめんなさい――


憂「おねえちゃんは、悪くないよ」

 私だって、今日のことは、自分の気持ちを思い出にしてしまうために歩いてた。

 だけどお姉ちゃんの手の温かさと大事な思い出をいっぱい見つけてしまって、

 “こども”だからいいやってそのままにしてたらどんどん「好き」が膨らんでいって、

 ほら、こうして、お姉ちゃんを動けなくしてしまってる。

 わるい子どもは、私なんだ。


 汗の熱か涙かなにかでぐしょぐしょになったマフラーを見て、たまらなくなった。

 二人であったまるマフラーなのに、私がこんなに汚してしまったから。

憂「……私は、こどもになっちゃいけなかったんだね」

 ごめんなさい。わるい子で、ごめんなさい。


 ひとりごとみたいにつぶやいたら、お姉ちゃんが私の顔をつかまえた。

 ……急だったから、そのときのお姉ちゃんの顔はわからない。


 だけど、その瞬間、私はお姉ちゃんにキスされた。


 頭で考えるのが追いつかないままに、私はお姉ちゃんのキスを受け入れた。

 強く押しつけあった唇の熱が、いつまでも冷めない。

 でも外の寒さを言い訳に抱きしめようとするには、この胸が熱くなりすぎてしまったようで。


唯「……ほら、ね。わるい子は、お姉ちゃんのほうだよ」

 ほっぺたに流れた涙が冷たく感じだした頃、お姉ちゃんがそう言った。

 憂がわるい子なら、私はもっとわるい子でいい。

 だから、お願いだから、こどもにならなくていいなんて、そんな淋しいこと、言わないで。

 憂の気持ちは、お姉ちゃんの気持ちなんだから。


 しがみつく私を抱きとめたお姉ちゃんが、そう言った。


 ずっとずっと抱きしめていたい。このまま二人で溶けてしまえばいい。

 どうしてもそんな風に思ってしまって目をつむってみるけど、

 すぐそばの街灯がやけにまぶしくて、目を閉じていても光は見えてしまう。

 たぶん、夜が明けたらもっと強い光が私の目を開けてしまうんだと思う。


憂「……ありがとう、お姉ちゃん」

 必死になって私を支えたり、背中を押してくれた人が、さっきの私みたいに顔を上げる。

憂「あの、ね? 私、お姉ちゃんの言うこと、信じるから、そしたら、大人になれるから」

唯「うん……ごめんね。私も、大学生になるから」

憂「うん、うん……だから、きょうだけ、もう一度だけ、“こども”になっていいかな……?」


 最後の方、涙声のせいでぜんぜん言えなかった。

 だけどお姉ちゃんがぎゅってして、うなづいてくれてる。


「あのね、お姉ちゃん。

 私、お姉ちゃんのこと、だいすきだよ」

 子どもみたいに泣きながら、それだけどうにか伝えて、


 ――私はその時もう一度だけ、唇を重ね合わせた。


 お姉ちゃんは私の身体をさすってあたためながら涙がおさまるのを待ってくれた。

 あの日、私たちは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、二人で手を取りあって、

 抱きしめたり、冷えた身体を暖めあったりしながら、

 こどもを、終わらせた。


  ◆  ◆  ◆

 あの日から二週間が経って、私も高校三年生になる。

 一ヶ月ぶりに着た制服は冷たくてふるえるけど、家を出る頃には身体になじんでくれたみたい。

憂「お母さん、いってきまーす」

 忘れ物ない?って呼びかける声。お母さんはすぐ、はっと気づくと照れ笑いを見せた。

憂「ううん、大丈夫だよ」

 いつもお姉ちゃんに向けられた呼びかけを、私が代わりに返す。

 見渡した通学路がやけに遠く見えてしまう。

 一人で踏み出すアスファルトは生まれて初めてプールに入った時みたいにこわくて、でもどきどきした。

憂「……別のところで、元気、かあ」

 お姉ちゃんがうさぎみたいに原っぱを駆けている姿が浮かんで、ふきだしちゃった。

 通学路を歩きながら、あの日のことを心の中で繰り返しかみしめる。


 あの日の夜、いったん二人の気持ちは閉じこめて、いつもの私たちに戻した。

 だからお姉ちゃんが家を出た日、二人ともどうにか笑って別れることができた。

 私たちにとって大人のはじまりの日だったから、子どもみたいに泣くのはよそうって決めてたから。


 この町にお姉ちゃんはもういない。

 でもあの日、お姉ちゃんがくれたあの日、私は二人で思い出を拾い集めることができた。

 本当に二人きりでタイムトラベルに出かけていたのかもしれない。

 だからほら、通学路の標識からも、道路へ踏み出す感触からも、思い出のかけらを見つけることができる。

梓「おはよう、憂」

 ぼんやり思い返していたら、声を掛けられた。

 いつ話しかけようか迷っちゃったよ、なんて言われてごめんねって返す。

 純ちゃんは先に桜高に向かったみたい。

梓「晴れたね。よかったよ、新勧の打ち合わせもしなきゃだし」

憂「そうだねー。一年のはじまりに、いい天気なのかもね」

 そういうと、梓ちゃんもそうだねって笑い返してくれる。

 もうさすがにマフラーは暑い季節だけど、まだ指先を冷やす風も吹いている。

憂「そうだ、梓ちゃん。手、つないでもいいかな」

梓「いいけど……どうしたの、急に?」

 梓ちゃんはちょっと首をかしげたけれど、小さくてかわいい指を差し出してくれた。

 最初は冷たかった指が、だんだんあったかくなっていく。

 暖めるように握ってみると、ぎゅって握り返してくれる。

 それだけのことがなんだかおかしくって、気づいたら梓ちゃんだってにやけてた。


 またいつか会えたら“こどもの日”にしよう、ってきのう電話でお姉ちゃんが言った。

 そのときまでに、少しでも遠くの世界を知って、誰かの手も借りて、

 くずれないぐらいに大人になっていればいい。電話口にそう話した。


 子どもだったり大人だったりしてしまう私だけど、支える手はここにだってある。

 梓ちゃんや純ちゃん、いろんな人とほほえみを分かちあって、

 そしたら大人に近づいていくことができる、ということに今はしておこうって決めた。

憂「そうそう、お姉ちゃんも今日が入学式なんだって」

梓「そっか……向こうも晴れてるかな?」

憂「晴れててほしいなあ」

 梓ちゃんと手をつなぎながら、道の向こう側の空を見上げてみる。

 この太陽がお姉ちゃんのはじまりの日も照らしてくれたらいいなって、そう願って。


おわり。








最終更新:2012年01月01日 20:04