唯「あはは、やだなぁムギちゃん。4月1日はとっくの前だよ~?」
梓「普段嘘の欠片もつかないような人が言うと真実味がありますからね」
澪「その分、律がそんなこと言い出しても誰も信じないだろうな」
律「な、なんだと~? 泣くぞ?」
紬「その……嘘じゃないんです」
唯「だからもうだめだって。一回嘘とバレたら4月バカはもう終わりだよ~?」
梓「……いや、唯先輩、これって」
澪「もしかして……本当に?」
律「……本気と書いてマジか?」

紬「はい……。本気と書いてマジなんです」

唯梓澪律「エ~ッ!!!!!」

突然の紬の告白に、4人は音楽室の気温が数度下がったような錯覚に陥った。

紬「もうさわ子先生のところに退部届も提出してきました」
律「ちょ……いい加減冗談はやめろよな」
唯「そうだよ~。ムギちゃんがいなくなったら、私達、音楽室で美味しい紅茶やお菓子が食べられなく――」
澪「ばかっ。そういう問題じゃないだろ?」
梓「そうです! 放課後ティータイムは……私達5人のバンドはどうなっちゃうんですか?」
紬「……ごめんなさい」
律「そもそも何で辞めるなんて言うのさ!?」
梓「私達の演奏が未熟だからですか……?」
澪「わ、私がムギの書いた曲にヘンな歌詞をつけたから……?」
唯「私がムギちゃんの分のケーキも食べちゃったから……?」

必死に問いただしても紬の口からまともな言葉が語られることはなく、

紬「本当に……ごめんなさい」

そう言い残して、紬は音楽室から出て行ってしまった。

取り残された4人の間には、何とも言えない重苦しい空気が漂う。
すると、音楽室のドアを破壊せん勢いで、見慣れた人影が飛び込んできた。

唯「さわちゃん先生」
さわ子「ちょっと貴方達!! 今、ムギちゃんこっちに来なかった!?」
律「来たも何もいきなり軽音部を辞めるなんて言い出して……」
梓「そ、そう言えば先生のところに退部届を出したって……」

梓の言葉に促されるように、さわ子は懐から一通の封筒を取り出した。
その表面には紬らしい上品に整った字で『退部届』と確かにある。

澪「ちょっと見せてください!」

封筒の中にはこれまた高級感漂う上質な便箋用紙、
しかしそこに書かれていたのは『一身上の都合により軽音部を退部させていただきます』
という、あまりにも無機質なワンセンテンスだった。

律「一体どうしてムギは急にこんなこと言いだしたんだ……」
梓「やっぱり私たちの演奏が……」
澪「私の歌詞が……」
唯「こっそりお茶っ葉を家に持って帰ってたのがバレたのかも……」

さわ子「わからないけど……これ(退部届)を持ってきたときのムギちゃん、
    ちょっとおかしかったわ。
    私が理由を尋ねてもちっとも答えようともしないし……。
    ああ、ムギちゃんが軽音部からいなくなっちゃたら私の安らぎの放課後ティータイム
    はどうなるの!?
    それにあの子ほど喜んでコスプレしてくれる子もいないし……ああ、私の生きがい
    が……」

音楽室が暗欝とした溜息で充満していたその頃、紬は逃げるように早足で校舎を後にしていた。 するとそんな紬の前に急停車する黒塗りの車が一台。

紬「ちょっと斉藤! 学校には乗りつけないでとあれほど……」
斉藤「申し訳ございませんお嬢様。しかし本日はこの後……」
紬「わかっています! だからしばらく離れたところで呼ぶつもりだったのに……」

紬は恭しき斉藤の所作に促されるようにリムジンの後部座席に乗り込んだ。
そして最初の信号で停車すると、運転席から斉藤が語りかける。

斉藤「お嬢様……軽音部の方はよろしいのですか?」
紬「…………」
斉藤「皆様には事情をお話しになられたのですか?」
紬「…………」
斉藤「お嬢様……今ならまだ間に合――」
紬「斉藤、余計な口は慎みなさい」
斉藤「はっ、申し訳ございません。しかし……」
紬「もういいの」
斉藤「お嬢様……」

それっきり紬は窓の外をぼうっと見つめたまま、黙り込んでしまった。

紬「琴吹家の言うことに私が逆らう余地などないんですから……」

ある日のこと、世界中を飛び回る実業家である紬の父親が、珍しく屋敷に帰っていた。
そして紬は父親の部屋に呼び出された。

ムギ父「紬よ、お前は学校で軽音部に所属しているそうだな?」
紬「!!」

紬は驚きで眉毛がひっくり返りそうな錯覚に陥った。
自分が軽音部に所属していることを父に打ち明けたことはなかったからだ。
もとより、紬の父は世界を股に掛ける多忙の身。娘の学校生活に関して、
立ち入るような余裕も暇もなかったはずだ。だとすれば父にこのことを密告したのは……

ムギ父「そう怖い顔をするでない。このことを私に教えてくれたのは斉藤ではないよ」
紬「じゃあ……」
ムギ父「私の旧い友人でね。今はレコード会社の重役を務めている男がいる。その彼がね、偶然にも見たそうだ。お前の所属するバンドの演奏をな」
紬「!!」

紬には一つだけ思い当たる節があった。
数週間前、彼女たち放課後ティータイムは初めての学内以外での演奏活動を行ったのだ。

澪「提案があるんだ。学園祭も近いことだし、その予行演習といったらなんだけど、ライヴハウスに出演してみないか?」

律「はぁ~? 私たちを出演させてくれるライヴハウスなんて、どこにあるんだよ?」

梓「私の父がよく出演しているライヴハウスがあって……そこのマスターがご厚意で私たちに
  演奏させてくれるって言うんです。 もっとも本当に小さなライヴハウスですけれどね」

紬「そう言えば梓ちゃんのお父様はジャズミュージシャンをされているんでしたよね」

唯「ライヴハウスか~、って……ライヴハウスって何するところ? 新しいレンタルビデオ屋
  の名前?」

そんなこんなでとある週末の晩、放課後ティータイムの面々は梓の父親御用達のライヴハウスで、数曲ながらも演奏を行った。
ライヴハウスというよりもジャズバーといった様相の小さなハコではあったが、
ジャズミュージシャンが出演するようなところだけあって、客の年齢層も音楽的嗜好の敷居も高く、5人は受け入れられるかどうか心配だったが、

澪『あたし もう今じゃあ、あなたに会えるのも夢の中だけ~♪』
澪『たぶん 涙に変わるのが遅すぎたのね~♪』
唯『見つかりにくいのは~♪』
唯『傷つけあうからで~♪』

客1「ヒューヒュー!!」
客2「お嬢ちゃん達、若いのになかなかやるなぁ~!!」

澪唯『最近はそんな恋の~ どこがいいかなんて~♪』
澪『わからなくなるの~ それでもいつか~少~し~の~♪』
唯『ららら~♪』
澪『あたしらしさとか~ やさしさだけは~ 残れば~♪』
唯『ららら~♪』

客3「ウチの娘にしたいくらいだよ!」
客4「いやいやウチの息子の嫁に(ry」
客5「寧ろ俺の嫁に(ry」

澪唯『まだラッキーなのにね~♪』

律が偶々その頃よく聴いていたというとあるバンドのカバー曲が好評。
さらにオリジナル曲も意外にもウケたのだった。
これに気を良くし、来る学園祭ライヴに向けて自信を高めたはずの軽音部の面々であったはずだったのだが……。

紬「まさかあの時……」

ムギ父「その通りだ。あの時の演奏をその友人が偶々見ていたそうだ。
    彼は元々ジャズもよく聴く人間だったからね。そこの常連だったそうだ」

紬「そんな……。でもそれだけでどうして私のことを……」

ムギ父「お前がまだ小さい頃の写真を見せたことがあるだけだったけどね。
    彼はすぐ気付いたそうだ。『あんな特徴的な眉毛をしているのはお前の家系を置いて
    他にいるわけがない』と、な。それにしても――」

父からの次の言葉を想像し、紬は思わず身を固くした。悪い予感が胸を過る。

ムギ父「まさかお前が私に黙って軽音楽などにうつつを抜かしていたとは――な」

紬「そ、そんなっ……!」

ムギ父「仕事ばかりでお前にかまってやれなかった私にも責任がある。斉藤にももっと紬の学
    校生活について報告をさせるべきだったと反省しているが――」

悪い予感は見事に的中した。

紬「黙っていたことは謝ります! でもっ……!!」

ムギ父「軽音楽など浮ついた不良の音楽だ。由緒正しき琴吹家の人間がやるものではない」

紬「そ、そんなことはありません!!」

ムギ父「私の時代ではエレキギターが不良の代名詞だった。
    長髪で、服装は乱れ、何かにつけて社会に反抗する輩ばかりだったよ。
    そういえば常にナイフを持ち歩いていたような危険な男もいたな」

紬「それは昔の話です!」

ムギ父「実際、私の部下に調べさせたところによるとお前のいる軽音部にはロクな人間がいな
    いそうじゃないか。
    提出書類をすぐに忘れる部長に、猫の耳を頭につけて喜び狂う後輩……終いにはアホ
    の子に衆目の前で下着を晒すような娼婦紛いの同級生まで……」

紬「みんなのことを悪く言うのは止めてください!!」

ムギ父「いずれにせよ、そんな部活にお前が身を置くことは許せん。すぐに退部しなさい」

紬「………っ!!」

数日前の父親とのやり取りを思い出し、紬は流れる景色を眺めながら小さく唇を噛んだ。
言いたいことは山ほどある。撤回させたい発言を積み上げればそれこそ天を突くほどだ。
しかし、父親の築いた『琴吹家』というブランドの中でぬくぬくと育ち、実際に今もその恩恵を受けて生きている自分を思うと、紬にはそれ以上何も言い返すことができなかったのだ。

斉藤「紬お嬢様……そろそろ屋敷の方に到着致します。
   先生の方が見えるまではもう少し時間がありますので、到着しましたら先にお食事にな
   さいますか?」

紬「…………」

斉藤「お嬢様?」

忠実な執事の声色に、自分を心配するわずかな陰りが見えたことには気づいたものの、紬はやはり黙っていることしかできなかった。

何が『お嬢様』だろうか――。
自分はただの籠の中の鳥、自力じゃどこにも飛んで行けない無力な存在――。

そんなやるせない気持ちが紬の心を支配していた。

紬が退部を告げてから数日というもの、音楽室は昼間だというのに灯りの消えた暗闇のような雰囲気に支配されていた。

律「うう~っ……ムギの紅茶とお菓子がないと力が出ない~」
唯「私なんか禁断症状で手が震えてきたよ……」
澪「どこまで欲求だけで生きてるんだお前らは」

すると、友達のいないオタク生徒の休み時間のごとく机に突っ伏す先輩の姿を見かねて、

梓「ムギ先輩の見よう見まねなんですけど……先輩が残していったお茶っ葉で紅茶を淹れてみました」
唯「あずにゃんすご~い!!」
律「でもこれ……」
澪「うん……『あの味』ではないよな」

梓が淹れた紅茶も不味いわけではない。寧ろ高級な茶葉を使っているので、舌にとろけるような美味なのは相変わらずだ。しかし、

唯「ムギちゃんの淹れてくれる紅茶は暖かかったなぁ……」
梓「そうですよね……」

唯の言わんとすることの意味が梓にも良く理解できた。

唯「ムギちゃん……教室でも最近殆ど話しかけてくれないよね」
律「殆どというか全くだな。まあ、あんなことを言い出した手前、気まずいんだろうけどさ」
澪「私も廊下ですれ違ったけど何もなかったよ……」
梓「どうしちゃったんでしょうか、ムギ先輩……」

さわ子「ちょっとみんな!! ヘンタイ……じゃなくてタイヘンよ!」

するとまたもや闘牛のような勢いで音楽室に駆け込んでくるさわ子。あまりの勢いのよさに音楽室のドアが吹き飛んだような錯覚すら受ける。

律「ヘンタイは先生の方だろ。それより今度は一体何なんだ?」
唯「今の私たちにとってムギちゃんのことより大変なことなんてないよ?」
さわ子「そのムギちゃんのことよ!」

澪「な、なんだって!? ムギが……転校!?」
梓「う、嘘ですよね……?」
さわ子「嘘じゃないわ。さっき職員室に来てね、正式に転校届を提出していったの」

律「まさか……転校のことがあったから軽音部を辞めるなんて言い出したんじゃ……」
唯「そんなぁ……どうして転校なんか……」
さわ子「しかもムギちゃんの転校先は……ロンドン。あの名門、ブラックモア音楽大学の付属
    校らしいわ」

澪「ロ、ロンドンッ!?」
梓「ブ、ブラックモア!?」
律「なんだなんだ、そのブラックなんちゃらってのは?」
澪「ブラックモア音楽大学って言ったら、有名なミュージシャンが多数卒業した名門中の名門
  大学だぞ!?」

4人は今更ながらに思い出す。
紬の実家は正真正銘の名家で、それこそ夏休みには「ちょっとそこまで」のノリでフィンランドに避暑に出かけるほどの国際派お金持ちであったことと、

さわ子「どうやらムギちゃんはクラシック音楽を専攻するコースへの編入を希望していたよう
    だわ」

紬自身も幼少のころからクラシックピアノを嗜み、コンクールで賞を獲得するほどの才女であったことを。

唯「クラシック音楽って……あのべーとーべんとかもーつぁるとか……変な髪形のオジサンた
  ちがやってる音楽?」
律「今まで1年以上一緒にやってきて一度もそんな素振りは見せなかったのに……」
梓「やっぱり私たちの演奏に嫌気がさして……」
澪「いや私の歌詞がムギの曲を台無しにしたから……」
さわ子「ただ、私にはどうも解せない点があるの――」

もはやお通夜状態の4人を前に、さわ子は俄然真剣身を帯びた口調で語り始めた。

さわ子「夏休み明けにやった進路希望調査じゃ、ムギちゃんの希望進路は国内の文系大学だっ
    たわ。
    音大もオの字も留学のリの字もなかった。それがこの数カ月で留学志望に変わるなん
    てちょっと不自然。それに――」

唯律澪梓「それに?」

さわ子「退部届を出しに来た時もそうだったけど、転校届を出しに来た時も、ムギちゃん、尋
    常じゃなく落ち込んでいたように見えたの――」

さわ子はその時の紬の、ご自慢の眉毛が額から取れて今にも落ちてきそうなほどの沈んだ表情を脳裏に思い出していた。

さわ子「それこそ、まるで誰かに無理やりこの状況に追い込まれているような……ね」

紬「そんな……軽音部を辞めるなんて……私には出来ません……」

控え目な調子ながらも紬は父親に意見した。だが、

ムギ父「紬よ、私は何もお前から音楽を取り上げようというわけではない。お前は小さい頃か
    らピアノを弾くのが好きで、才能もあったようだからな」
紬「……え?」
ムギ父「実はな、さっき話した私の旧友のレコード会社はクラシック音楽を主に扱っているら
    しくてな。それで紬の演奏に、彼は随分と感銘を受けたらしい。
    演奏していたのは粗野な音楽だったが、お前の鍵盤捌きには見るものがある、とな」
紬「それはつまり……」
ムギ父「紬、お前はクラシックのピアニストになりなさい。それならば私もお前が音楽をする
    ことを許そう」

その提案をすることで、娘の態度が少しでも軟化するとでも父は思っているのだろうか?
そう思うと、紬は自分の父親の考えの浅はかさを呪いたい気持ちになった。
音楽を演奏することが楽しいのは勿論だ。
だが紬にとっては、軽音部のメンバーで、つまりは放課後ティータイムの5人で音楽を演奏することに意味があるのだ。
それを父親は少しもわかってくれていないのは、火を見るより明らかであった。

紬「お父様、私が言いたいのはそういうことでは……!」

しかし、事態は紬の想像よりずっと深刻であった。

ムギ父「良い機会だ。お前ももう高校2年生、卒業後の進路を考えるべき時だし、海外の音大付属校へ転入して本格的にクラシックピアノを学ぶといい」

ムギ父「専属の家庭教師も付けてあげよう。勿論、すべてが上手くいけば数年後には件の旧友のレコード会社からデビューさせてくれるという話も取り付けてある――」

紬「そ、そんな……」

ムギ父「悪い話ではないだろう? 思えばお前は昔からピアニストに憧れていたではないか」

「私の意志はどうなるのか」――結局、その言葉は言えずじまい。
紬は今更ながらに、自らに課せられた『琴吹』の名の重さを、ひしひしと思い知る羽目となった。


律『最初は私と澪だけでどうなるかと思ったけど、その後すぐにムギが入部してくれたからこそ、今の軽音部があるんだよなぁ』

澪『ムギ! また新しい歌詞を書いてきたんだ! これはとある少女の甘い初恋をチーズケーキの味に例えた私の自信作なんだけど……また曲をつけてくれないかな?』

梓『ムギ先輩はキーボードお上手ですよね。バッキングにもソロにも対応できますし……。私のお父さんも「ジャズ界隈にもアレだけのプレイができる人間はいない」って言ってました!』

唯『ムギちゃん、ケ~キ~、おかわり~、もういっこ~。こうちゃ~、おかわり~、もういっぱい~』

「お嬢様、只今先生がお見えになられたようです――」


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