――――3月某日――――
『ホワイトデーのご準備はお済みですか~?』
『定番のクッキーから、オシャレアイテムまで、色々とりそろえてまーす』
いつもの三人で出かけたある休日。
まだ3月に入ったばっかりだってのに、気が早いというか。
どこへ行っても、早くもホワイトデームード一色。
憂「そういえばもうすぐホワイトデーだね~」
梓「そうだねー」
純「まあ、私らにはあんまり関係の無いイベントですけどねー」
バレンタインにチョコレートをあげたりはするけれど。
お互いに交換、みたいになっちゃうから。
ホワイトデーに何かするって、たしかにないなぁ。
憂「クッキーでもつくろうか?」
純「おっ!いいねー!憂のクッキー食べたいなぁ」
梓「むしろ純がつくりなよ……。憂からチョコもらったでしょ?」
純「あー…まあ、それはそれってことで。てか、梓ももらってたじゃん!」
梓「私は憂にチョコあげたもん」
純「ぐぬぬ…」
バレンタインのお返しなんだから…。
梓「お返し…か」
その時、頭をよぎったのは。一人の先輩の姿。
その人は、やっぱりバレンタインの日に。
いつものように、といえばそうなんだけれど。
でも、いつもとはちょっと違う、特別なお菓子を持ってきてくれて。
どこかの王室御用達の、とってもおいしいチョコレート。
……実は、私も先輩たちに、チョコレートを持ってきてたんだけど。
あまりに美味しすぎて、渡すの忘れちゃったんだよね…。
梓「そっか…。そういえば、なにもあげてなかった」
純「…ん? 梓?」
思い返せば、バレンタインのことだけじゃない。
あの人は、いつも私たちに、とても色んなものをくれるのに。
当然、感謝がないわけじゃないけど。
それが当たり前すぎて。甘えてるんじゃないかって。
そんな風に考えなくてもいいって、あの人はきっとそう言うけれど。
私は、あの人に何かしてあげられてるんだろうか。
せっかくなら、何かしてあげたい。
梓「……そうだ。ちょうどいいかも」
バレンタインのことも。それにいつものことも。
ありがとうございますって、伝えたいな。
梓「ねぇ憂。私、クッキー作りたいな」
憂「うん!じゃあ一緒に作ろっか!」
だから、おかえし。その日はきっとぴったりで。
純「ありがとー梓!」
梓「純にあげるんじゃないよ」
純「えー!そんなぁ。じゃあ誰にあげるのさ?」
誰って? それは……
梓「ムギ先輩」
純「ムギ先輩?」
憂「紬さん?」
梓「…と軽音部の先輩たちに」
なんだろう。ちょっと気恥ずかしくなって。
もちろん、他の皆さんにもあげるつもりだったけど。
でもやっぱり、ちょっとだけ。
あの人のために、特別なものをあげたいかな。
――――平沢邸――――
梓・純「よろしくお願いします、憂先生」
憂「もう。からかわないでよ~」
梓「結局純も作るんだね」
純「まあねぇ。ジャズ研の先輩にでもあげようかな、と」
そんなこんなで、ある休日。
三人でクッキーを作ることになりました。
憂に教わりに来た。といったほうが正しいけど。
純「梓はムギ先輩にあげるんだもんねぇ」
梓「ちゃんとみんなにあげます!」
あの日から、なにかにつけて誂われる。
悪い気はしないけど、何というか。
そりゃ、ムギ先輩のために、あげようと思ってるのもあるけどさ…。
憂「でも、紬さんって素敵な人だよね~」
純「すっごいキレイだしねー!」
梓「純ったらカッコイイとかそういうのばっかり…」
純「綺麗なのはホントのコトじゃん!それにさ」
純「中身ばっかりは、付き合ってみないと分かんないしね」
その通り。ムギ先輩なら尚更だと思う。
知れば知るほど、いろんな面が見えてくる人だから。
純「というわけで、今日は梓によるムギ先輩講座と行きましょうよ!」
梓「クッキー作るんでしょ…」
憂「私も紬さんの話聞きたいなぁ!」
梓「憂まで!?」
憂「作りながらでいいからさ、お話もしよう!」
憂が食いついてくるのは予想外だったよ…。
純「さあさあ、思う存分語ってくださいよ」
梓「そう言われても……」
憂「話しやすいことからでいいんじゃない?」
梓「…じゃあ」
ムギ先輩。綺麗な人。優しそうな雰囲気。
キーボード、すっごく上手で。とっても素敵な曲が作れて。
優しくて、いつもみんなを思いやってくれて。
すっごくしっかりしてるのに、変なところで子供っぽくて。
時には誰よりはしゃいで。そんなところが可愛くて。
梓「それでね!…あれ?」
さっきから、私ばっかり喋ってるような…。
…なんだろ。二人ともすっごくニヤニヤしてる。
憂「ホントに素敵なひとなんだね!」
純「まさか梓のこんな熱弁が聞けるとは思わなかったよー」
梓「…そんなに熱弁してましたか?」
純「してたしてた。なんていうかねぇ」
純「恋する乙女って感じ?」
梓「へっ!?」
純「梓、実はムギ先輩のこと好きだったりして?」
好き。私が、ムギ先輩を。
心臓の音が大きくなって。ふっと体中が熱くなる。
誂われてるってのは、分かるけど。
心の何処かに、それだけじゃない恥ずかしさがあるような気がして。
純「…あずさ?」
梓「そっ、そんなわけないじゃん!」
純「おわっ!?」
梓「いや!嫌いだってわけじゃないよ!好きだけど!!」
梓「でも、そういう好きじゃなくて!その、あの!」
…そんな気持ちを悟られないように、なのか。
純「そんなに慌てて…。怪しいですなぁ」
梓「だから違うってばぁ!」
憂「梓ちゃん可愛い」
梓「もう!憂までそういう事いう!」
しばらくの間、余計にいじられたのは言うまでもない。
――――中野邸――――
梓「よし、オッケーかな!」
これは、ムギ先輩にあげるクッキー。
私なりに、ちょっと手を加えてみた。味も美味しい、と思う。
梓「喜んでくれるといいなぁ…」
ムギ先輩の喜ぶ顔を想像して。それだけで何だか嬉しくなって。
…また、あの感じがした。
ちょっとだけ、くすぐったくなるような。
恥ずかしいのに、どこか心地いい、あのドキドキ。
梓「…純が変なコト言うから」
私はどう思っているのか。
そりゃ、ムギ先輩はとっても素敵な人だと思うけど。
私の気持ちは、この動悸は。そういう、好きなのかなって。
普段そんなこと考えたことなくて、ただ誂われただけで。
それで意識しちゃってるだけなのかもしれなくて。
―――だから?
―――でも?
どっちなのかは、分からないけど。
優しいムギ先輩。頼りになるムギ先輩。
可愛いムギ先輩。どこか放っておけないムギ先輩。
考えれば考えるほど、今まで知らなかった感情が沸き上がってくるような。
そんな不思議な感覚が、私の中にあるのは、確かだった。
…でも今の私は、まだ答えを出せないみたいだから。
梓「……あ~。わかんない。もう寝よう」
――――3月14日――――
梓「どうやって渡そう…」
ホワイトデー当日。
今日は、事前に私がお菓子を用意する旨を伝えてある。
そこまでは良かったんだけど。
…ムギ先輩に渡すタイミングがないような、ってことに今更気づいたわけで。
いや、皆さんの前で渡してもいいんだけど。
まだ私は、あのドキドキを、答えを出せないまま。ずっとずっと引きずっていて。
むしろあれからずっと考えてたら、悪化したくらいだ。
…恥ずかしいだけなのかもしれないけど。それはきっと誰にも分からないことだけど。
今の私には、それが一大事のように思えて。
そんなことを悶々と考えていたら、ガチャリと。
ドアの開く音が、一人ぼっちだった部室に響く。
紬「あら、梓ちゃん。お待たせ」
梓「こんにちは、ムギ先輩。……あれ、お一人ですか?」
紬「ええ。皆は掃除とか日直でもう少しかかるかしら」
今日だけは、神様の悪戯みたいなものを、信じてもいいような気がした。
紬「今日は梓ちゃんがお菓子用意してくれるっていうから、楽しみだったのよ~」
梓「そ、そうですか?お口にあうといいんですけど…」
紬「心配しなくても大丈夫よ~。じゃあ、お茶淹れるわね」
梓「あの、その前に、ちょっといいですか?」
ちょっとだけ、包みを変えて。少しだけ、味も違って。
梓「これ、どうぞ」
紬「あら、これが今日のお菓子?」
梓「いえ、これはムギ先輩に作ってきたものです」
いっぱいの感謝と……まだハッキリしていない、私の気持ち。
梓「私、いっつもムギ先輩にお世話になってるのに、何もしてないって思って」
梓「バレンタインの時も、チョコレートもらったので…」
梓「その、手作りなんで。あんまり美味しくないと思いますけど、受け取ってください」
梓「私からの、感謝の気持ち、です。こんなので申し訳ないんですけど」
そう言うと、ムギ先輩は。可愛らしくきょとんとして。
そのあとびっくりしたように目を見開いて。
紬「え……。わ、私に、くれるの?」
梓「そうですよ。ムギ先輩に。そのために用意したんですよ?」
その包みを。まるで宝石でも持つように。大事そうに、そっと抱えて。
紬「…嬉しい。本当に嬉しい!」
紬「ありがとう!梓ちゃん!!」
花のような笑顔って、こういうののことをいうのかな。
柔らかくて。暖かくて。眩しい。満面の笑みを浮かべてくれた。
いつもニコニコしている人だけど、そんな人でも滅多に見せないような。
そんな笑顔が、私だけに向けられている。
胸が高鳴る。おんなじ鳴り方。あの時から、今日まで。ずっと鳴ってる。
ムギ先輩を思うたび、おんなじ音で鳴る。
でも今日のは特別だ。いままでの、どんな音よりも、ずっと大きい。
梓「い、いえ。どういたしまして」
梓「喜んでもらえたら、その…わ、私も、嬉しいです」
体を包む熱さにも似た高揚感。そのせいで上手く喋れない気もするけど。
何だかそれすらも心地いいような。
私は不器用で、鈍感な人間だと思うけど。
さすがにこうまでなっておいて、自分の気持は、間違えようがない。
ガチャ
唯「ヤッホ~!あずにゃん、ムギちゃん!」
律「遅れてごめんよー」
澪「律が遊んでるから…全く」
どこまでも鼓動が早くなっていきそうな中、図ったようにやってくる先輩達。
緊張してたのかな。少しだけ、ほっとしたけど。
…やっぱり、二人きりの時間が終わってしまった寂しさが大きい。
紬「待ってたわよ~♪」
梓「…こんにちは、みなさん」
クッキー、どうするんだろう?なんて思っていると。
ムギ先輩は、そっと包みを鞄に仕舞って。
紬「二人だけの、秘密にしましょ?」
私の気持ちを知ってか知らずか。そんなことを耳元で囁くものだから。
収まりかけた動悸が、一段と激しくなる。
紬「じゃあ、お茶淹れるわね~」
ムギ先輩はいつも通り。でも、ちょっとだけ。嬉しそう。
それはきっと、私にしか分からない。微かな変化。ふたりだけの秘密。
そんなことで、どうしようもなく舞い上がってしまう。
……それはどうしてか?
簡単なこと。私は、ムギ先輩が、好きだから。
だからそれだけで、色んなことがずっと素敵に思える。
これからどうするのか。ムギ先輩は、私をどう思っているのか。
きっと。もっと。考えることはいっぱいあるんだけど。
でも今だけは。もう少しの間は。
この春の陽気みたいな、暖かな幸福感に浸っていようかな。
今日は私が、恋を知った日だから。これくらいの贅沢は、してもいいよね?
おしまい
最終更新:2012年02月01日 23:13