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律「わ、私が帰ったらいくらでもいちゃついていいから! あと10秒我慢しろ!」

 私はなるたけ急いで、階段を降りる。

唯「あっ、外まで送るよ。ていうかカバン忘れてるし!」

律「あー、とってくれ!」

 人んちだから当然かもしれないが、私のペースなんてあったものじゃないな。

 玄関でカバンを受け取り、肩にかけながら靴を履く。

律「じゃ、明日な」

唯「りっちゃん」

 唯も靴をひっかけて、外までついてくる。

律「ん、なんだよ?」

 ブラウンの瞳が、私の目をまっすぐに見つめた。

唯「……わたし、恋人をとられたときは、きっと怖いことするからね。本気だよ」

律「……」

唯「憂は絶対に渡さないから」

律「……あのな、私は別に」

 ただの冗談で言ったんだから、そこまで引きずらなくても……。

唯「りっちゃんには冗談でも、私は本気で怖いし許せないの」

 唯は静かに言いつける。

唯「私の全てより大好きだから、絶対にとられたくないの。1秒だって! 想像もさせられたくないよ!」

律「わ、わかったって……もう言わない」

 まともに恋愛したことのない私が、口を挟める問題ではなさそうだ。

唯「……じゃ、おやすみ。また明日ね」

律「おう、じゃあな」

 駆け出すようにして歩き始める。

律「ふー……しかし、ムギの言ってたことがマジだったとは」

 ムギの妄想もたまには当たるということか。

 普段は部室でひけらかすように妄想を語るし、

 わざわざトイレに連れ込んだのはかなりの確証があったからかもしれない。

 ……つまり、もしかしたら、誰かがムギにトイレに連れ込まれた数だけ、

 この学校にレズビアンのカップルが存在するということではなかろうか。

 その前にムギにレズの噂が立ちそうだが。

 ……まあ、それはどうでもいいとして。

 レズの噂ならば、私が振り撒いた唯と憂ちゃんのことのほうが心配だ。

 大丈夫だとは言われたが、確実に耳にした奴はいる。

 それに火消しをしてくれと言われても、どうすればいいのだろう。

  「律って唯と仲いいよね、唯とあの妹さんが付き合ってるってマジ?」

 ……どんな対応をするのが正解なのか。

 それはまだマシな例だ。

  「昨日トイレでさ、唯と妹の子が付き合ってるって言ってたよね。あれマジ?」

 どうごまかしたらいいんだ……。

律「……澪にでも相談するか」

 一度家に帰って、それから澪の家に押し掛けよう。

 私の家で電話をするのでは、万が一弟に聞かれる可能性がある。

 制服とカバンを持って泊まるつもりで行けば、遅くなっても問題なかろう。

律「よし、急ごう」

――――

律「げっ……」

 シャワーを浴びて、カバンに翌日用の制服を詰めようとして、私はようやく気づいた。

 弁当箱の包みが2つ。言わずもがな、片方は澪に渡されたものだ。

 どうせ今から向かうのだから、お弁当の空き箱を返していなかったのはまだいい。

 お弁当をもらって礼も言わず、その感想もまだ伝えていない。

 あれだけ料理の腕を上げるのに、澪がどれだけ努力したかは定かじゃない。

 だが、澪に会ったらすぐにでもそれを称賛したいと決めたはずだったのに。

律「くっそ……バカだなもう!」

 急いで支度をして、聡の部屋に家の弁当箱を投げ込む。

律「たのんだ!」

聡「おい、これぐらい自分で出せよ姉ちゃん! ……ったく、これだから女はいやなんだよな!」

 なんか言ってるが無視して家を飛び出した。

 澪の家の前まできて、携帯に電話をかける。

澪「もしもし……?」

 10コールくらいかかって、ようやく繋がった。

律「澪、いま玄関にいる」

澪「えっ……どうして?」

律「弁当の感想を伝えに来たのと、あと……」

 言い終わる前に受話器の向こうの澪の気配が遠のいた。

 秋山邸がにわかにドタバタと騒がしくなる。

 玄関を開けた澪は、なぜか息切れしていた。

澪「ま、またせたな……律」

律「いや、私のほうこそごめんな」

澪「いいよ。その格好、風呂上がりだろ。湯冷めするから上がってけ」

律「ああ、ていうか泊まってくぞ。いいだろ?」

澪「えっ、ああ。大丈夫だけど……いきなりだな」

 澪の部屋に上がり、カバンを開ける。

律「ハイこれ」

 お弁当の空き箱を渡して、ベッドに腰かける。

澪「わざわざありがとう……ちょっと流しに持っていくな」

律「うん」

 澪が去って、ベッドに倒れて天井を眺める。

律「……意外と怒ってなかったな」

 澪と友達になって何年したか数えてないが、澪の機嫌はいまいち読めない。

 ちょっとのことで激怒したかと思えば、なんでもないことですこぶる上機嫌になる。

 自分の中に世界があって、その世界で起こっていることに感情が大きく左右されるのだ。

 昔、告白してきたときも、そんな決意をしているようには全く見えなかった。

 今回は……たぶん、唯と憂ちゃんのことで、頭がいっぱいいっぱいで、

 お弁当のことなど忘れていたのではないだろうか。

 後が怖いな。

澪「お待たせ」

 ぼーっと怯えていると、澪が戻ってきた。

澪「ぜんぶ食べてくれたんだな」

律「そりゃまあな。……しかし」

澪「……なんだ?」

律「澪、おまえすっごい料理うまくなったな!」

澪「ほんとうか?」

 澪は半ば駆け足で私の隣に座った。

 浮かべた笑顔は見ているだけで心地がいい。

律「ああ、私びっくりしたぞ! いつの間に成長しやがって!」

澪「そうか、じゃあさ、さっき食べた憂ちゃんの料理とどっちがおいしかった?」

律「そっ……う」

 なんでこのタイミングでそれを訊くかな。

 いつの間にか澪は笑顔じゃなく、真剣な目をしていた。

澪「……どうだ?」

律「比べられるの、いやじゃなかったのか」

澪「どうなのかって訊いてるんだ」

律「澪……そんな目の敵にすることないだろ?」

 世の中、努力で越えられる相手と、どうにもならない相手がいるものだ。

 それは諦めるしかないことだ。

 むしろ諦めるほうが賢い選択だといえよう。

律「どうして憂ちゃんなんだ? 澪の母さんくらい上手かったら、女として問題ないと思うけど」

澪「……だって」

律「うん?」

 唐突に澪の目頭から、涙があふれた。

澪「りつは……憂ちゃんが好きなんだろう……?」

律「……」

 その泣き顔への変貌には、既視感があった。

 私が澪を……傷つくことを拒絶した、5年前のバレンタインデーだ。

澪「わたしは律にかわいいって言ってもらえないし……いい子だなって、頭を撫でてもらえないし」

澪「律のためだけに料理作っても、全員に作った料理に負けて……お嫁さんに欲しいなんて、言ってくれるわけない」

律「みお……」

澪「なにかひとつでも勝たなきゃ……律は、……ぜったい私を振るもん……」

 何も変わっていなかった。

 私は、何も成長していない。

律「……好きだなんて、そんなわけないじゃんか」

澪「律は気付いてないだけだよ……自分の視線を、意識したことはある?」

 生まれて初めて好きになったのが女の子で、その恋を3年ひきずり、

 それからも毎日その女の子と過ごしていた女が、やすやすとノンケになれるものか。

律「……澪。人を好きになるなんて、簡単なことじゃないんだぞ」

 私はただ、何も変わらないことで逃げ続けただけだ。

律「そう誰や彼や憂や好きになれるほど、私の恋は軽くないんだ。澪が初めてだった、私の恋は」

澪「……え?」

律「私たちが子供で、女同士で、好き同士なのに付き合えなかったこと、覚えてるだろ」

澪「すきって……律、じゃあ……」

律「……あんとき、澪がそれでもいいって言ってくれたら、もしかしたら私も勇気を出してたかもしれない」

 澪は俯いた。

律「ごめんな、子供で、びびりで」

澪「……」

 せめて私は、その髪を撫でた。

律「私さ……いまだに恋できないんだわ。びびって澪を振っちゃったあの日から」

澪「そうなんだ……」

律「魅力あるやつ見てさ、ときめいたり、性欲が出たりはするんだ。……でも、大事にしたい、されたいって思えない」

律「この人のそばにいて、支え合いたいなって……思えないんだ」

澪「……怖いのか?」

律「……そうだな、怖い。いつかその想いを裏切ったり、裏切られることが怖い」

律「だったら初めから、恋なんかしなきゃいい……って、ガキ論法なんだろうな」

澪「律は、それでいいのか……?」

律「……」

澪「私のこと好きだったのに、周りの目なんか気にして振っちゃったこと……後悔とかしてないのか?」

律「あ、それは悔しいな……。こんなにわたし好みに成長しやがって。料理もうまくなったし」

澪「……律」

 澪は前ぶれなく、ベッドに私を押し倒した。

律「……やめとけって、澪」

澪「……りつぅ!」

 澪は呼び合うことを求めるように、私の名前を喉からしぼりだした。

 私だって悔しい。

 切なくて泣きたくなる。

 だからってこんなことしたら、澪に対して恋心のかけらもないことが余計に悲しくなるばかりだ。

律「……」

澪「りつ、なぁ、律……」

 ぶるぶると震えて、澪は力なく私の上に落ちてきた。

 手首が解放されて、自由になった腕で私は澪を抱きしめた。

律「……ごめんな」

澪「……ううん」

 あー、柔らかいなあ……。

澪「私さ、律が、律の恋心を信じて……また恋ができるように、ずっと律のこと愛してるよ」

律「ありがとう」

澪「いつもそばにいるから。お弁当も毎日作る。もっと上手くなって、律の料理人になるからな」

律「……ああ」

澪「……ありがと、もう平気だ」

律「ん、そっか」

 澪と少しだけ離れて、ベッドに「二」の字に横になる。

律「てゆーかさ、聞いたんだろ? 唯と憂ちゃんのこと」

澪「なんだ……やっぱ律も聞いたんだな」

律「知ってるなら、憂ちゃんのこと好きなのかーとか訊くなっての。唯の前でやってみろ、ぶたれるどころじゃない」

澪「……いや、もう言った」

律「はえっ?」

 あくびをしかけていて、変な声が出た。

澪「放課後さ、憂ちゃんに宣戦布告したんだ。律は渡さないぞって」

律「ど、どこで」

澪「梓が部室に行ってから、憂ちゃんの教室で。1階に律たちは来ないだろうし、安心してたんだが」

律「……なるほど」

 唯が私のほんの冗談にあれだけ突っかかってきたのも、それなら頷ける。

澪「唯が来たのは知ってるんだな……まあ、口論になってさ。その勢いで唯と憂ちゃんのことも知らされた」

律「……教室で? 唯が言ったの?」

澪「うん……大丈夫なのか、心配だけど」

 大丈夫じゃないだろう……。

 いや、あの二人は大丈夫なんだろうけど。

律「まあ、いいんじゃないか。しばらくおとなしくしてりゃおさまるって、唯が言ったんだから」

澪「ならいいけど……」

律「私らは、余計なこと言わないように常に唯や和の近くにいれば問題ないだろ。梓には、憂ちゃんがつく」

澪「……そうだな」

 澪はしばし目を閉じ、ため息をつくように言った。

澪「そうしよう」

 そして、ベッドを鳴らして立ち上がり、電灯から垂れた紐に手を伸ばす。

澪「寝ようか、おやすみ」

律「ああ、おやすみ」

 布団をかぶり、私たちは眠りについた。

 翌朝は澪の作った朝食を食べて、

 いつものようにお弁当を持たされて、二人で歩き始めた。

 それが私の日常になった。


  おしまい



最終更新:2012年02月18日 20:02