「澪先輩は……まだなんだ……」
私は、少し乱れた息を整えながら呟いた。

「まぁ、当たり前か」
時計を見ると、まだ待ち合わせには30分ほど余裕があった。
いつものことだけど、気持ちが急いて早く着すぎてしまったらしい。

「あっ、タルト大丈夫かな?」
私は、急ぎ足になってしまったため、振動などでタルトが壊れていないか気になり、そっとケーキボックスをのぞいた。

「大丈夫みたい……」
私は、きちんと収まっているタルトを確認すると、安心して微笑んだ。

今日は、澪先輩と付き合いだして始めてのバレンタイン。
好きな人と、二人っきりで過ごす、初めてのバレンタイン。
そう思うだけで、胸の中が熱くなる。

思い切って告白した澪先輩の誕生日。
一度は振られてすごく悲しかったけど、その後、澪先輩が私を追いかけてきてくれて、私達は付き合うことになった。
それからは、時々一緒に帰ったり、こうやって週末にお出かけしたり、幸せな日々を送っていた。

「でも、それだけなんだよね……」
澪先輩と付き合いだして一ヶ月。
一般的な恋人同士が、どのくらいでそう言う関係になっていくか分からないけど、私達はキスどころか、ろくに手をつないだこともなかった。
ただの先輩と後輩の時は自然に出来た、手をつなぐと言う行為さへ、お互い、なんだか気恥ずかしくなってしまって。

「よしっ」
私は、手鏡を取り出し、身だしなみをチェックする。
折角のバレンタインなんだから、今日こそは二人の仲を進めなきゃ。
そう思ったときだった。

「梓」
「はひっ!」
急に肩に置かれた手に、飛び上がり、変な声を挙げてしまった。

「もう、澪先輩……」
振り返ると、驚いた私がおかしかったのか、澪先輩が楽しそうに微笑んでいた。

「ごめん、待った?」
「いえ、私も今来たところですから」
本当は20分近く待っていたけど、私は嘘をついた。
20分待ったと言っても、私が来るのが早すぎただけで、澪先輩が遅れたわけじゃなかったし、
澪先輩だって、待ち合わせ時間より、10分近く早く来てくれていたから。

「そっか、じゃぁ行こうか」
「はい」
私達は並んで歩き出す。

今日は、澪先輩の家で、二人で、バレンタインをお祝いしようと言うことになっていた。

「今日は寒いですね」
「あれ?梓、手袋してないの?」
私が、かじかんだ手をこすり合わせながら言うと、澪先輩が尋ねた。

「はい、あわてて来たら憂の所に忘れてきちゃって」
「じゃぁ、これ」
私が答えると、澪先輩は、自分の右手の手袋をはずし、私の右手に嵌めた。

「でも、澪先輩が冷えちゃいます」
「こうすれば大丈夫だよ」
そう言うと、澪先輩は私の左手を取り、そのままコートのポケットにしまいこんだ。

「み、澪先輩……」
「い、いやだった?」
私が、驚き、澪先輩の顔を見上げると、澪先輩は不安げに問いかけてきた。

「い、いえ、嬉しいです……とっても……」
そして、なんとなく、気恥ずかしくなった私達は、澪先輩の家まで、黙って歩いていった。

―――

「さぁ、入って」
「ここが澪先輩の部屋なんですね」
私は、初めて入る澪先輩の部屋に歓声をあげる。

「じゃぁ、お茶淹れてくるからちょっと待ってて」
「はい」
「そうだ、何かCDでも選んでてよ」
「分かりました」
私は、一人になると、CDを物色し始めた。

「ううん、落ち着いた感じのがいいよね」
さすが澪先輩と言ったところで、澪先輩のCDのラインナップには、ロックやポップスだけでなく、ジャズやクラシックまで含まれていた。

「じゃぁこれにしようかな」
私は、ビル・エヴァンスのCDを選ぶと、プレイヤーにセットした。


「お待たせ」
しばらくすると、ティーカップの乗ったトレイを抱え、澪先輩が戻ってきた。

「やっぱり、ビル・エヴァンス選んだんだ?
梓ならビル・エヴァンスを選ぶと思ってたよ」
そう言って、澪先輩は微笑んだ。
なんだか、そうやって、自分のことを分かってくれているんだと思うと、本当に恋人同士になれたんだなと嬉しくなった。

―――

「じゃぁ……はじめよっか……」
「はい……」
澪先輩も私も、恋人と過ごすこう言うイベントは初めてで、なんだか緊張してしまっている。

「えっと、じゃぁ私から……
梓、ハッピーバレンタイン」
澪先輩は、そう言うと、小さな箱を手渡してくれた。

「ありがとうございます。
じゃぁ私も……
澪先輩、ハッピーバレンタイン」
私は、大切に抱えていたケーキボックスを手渡した。

「ありがとう、梓。
開けてもいい?」
「はい」
私が答えると、澪先輩は、そっとケーキボックスを開けた。

「……すごいかわいいタルトだな」
「ありがとうございます。
じゃぁ私も開けますね」
「うん」
私は、かかっているリボンを外し、小さな箱を開けた。

「うわぁ、すごいおいしそう」
中から出てきたのは、売り物にしてもいいぐらい、完成度の高いチョコレートムースだった。

「ありがとうございます澪先輩。
澪先輩、お菓子作るの上手なんですね」
「そんなことないけど……」
澪先輩は、私の言葉に、耳まで真っ赤になってしまった。

「うふふふ、澪先輩、かわいいですね」
「も、もういいだろ」
そんな風に、ちょっとからかうと、澪先輩は少しすねたそぶりを見せた

「うふふふ、じゃぁ、食べましょうか」
「あ、ちょっと待って」
「え?」
「折角だから半分ずつにしない?
……なんだかその方が……こ、恋人っぽいかなって……」
「うふふ、そうですね」
消え入りそうな声で、そういう澪先輩がとてもかわいくって、私は続けた。

「じゃぁ、もっと恋人っぽいことしませんか?」
「え?」
「はい、澪先輩、あ~んしてください」
私は、タルトを一口サイズに切ると、澪先輩の口元にフォークを持っていった。

「あ、梓……」
「……だめですか?」
「う、ううん」
私が、少し寂しそうに尋ねると、澪先輩はあわてて首を振った。

「じゃぁ、あ~ん」
「あ、あ~ん」
私は、小さく開いた澪先輩の口に、タルトを入れた。

「どうですか?」
「うん、おいしいよ」
「じゃぁ、次は澪先輩、お願いします」
「う、うん……」
澪先輩は、チョコレートムースをスプーンですくうと、恥ずかしそうに、私の口元へと運んだ。

「じ、じゃぁ、あ~ん」
「あ~ん」
「ど、どうかな?」
「すっごくおいしいです!」
「ほんと?」
「はい」
私が答えると、澪先輩は安心したように微笑んだ。

―――

「あ、梓……ちょっと目を閉じてくれない?」
私たちは、チョコレートを食べ終え、二人寄り添い、ビル・エヴァンスのピアノに耳を傾けていたが、しばらくすると、澪先輩が少し、そわそわし始め、躊躇いがちに口を開いた。

「は、はい……」
私は、平静を取り繕い、言われるままに目を閉じたが、内心は穏やかではなかった。
とうとう、その時が来たんだ。
私は高鳴る鼓動を感じながら、その瞬間を待った。
澪先輩が、私の右手を取り、そっと引き寄せる。
そして―――

「もう、目を開けていいよ」
「え?」
期待していたことが起きず、私は少し拍子抜けして、目を開けた。

「梓には緑が似合うかなと思ったんだけど、よかったかな?」
その言葉に、少しの違和感を感じた右手首を見てみると、私が、澪先輩の誕生日に作った物と同じデザインの、ビーズのブレスレッドが輝いていた。

「……はい、ありがとうございます……すごく嬉しいです」
私は、なんだか、泣きたいような気持ちになって答えた。
期待していた出来事とは違ったけど、澪先輩が、私のために、おそろいのブレスレッドを作ってくれたなんて―――

「澪先輩、ありがとうございます……ほんとにありがとうございます」
「梓が喜んでくれて嬉しいよ」
私が、澪先輩の手を握り締めお礼を言うと、澪先輩もそっと手を握り返して答えてくれた。
そして、しばらく見つめあい、どちらともなく、顔を寄せ合った、その時だった。

澪先輩の携帯が震え、着信を知らせた。

「……ごめん」
澪先輩は少し躊躇うそぶりを見せながら、電話を取った。

「ムギ、どうしたの?
……うん」
どうやらそれは、ムギ先輩からの電話らしかった。

「え?何で?
……そっか……」
なにを話しているのか、澪先輩は少し恥ずかしそうに尋ね返し、そして、こちらをチラッと伺うと、ふんわりとした優しい笑顔で続けた。

「うん、幸せだよ」
そして、そう言うと、澪先輩は、今度は私に携帯を手渡した。

「ムギ先輩ですか?」
『ごめんね、二人っきりのところ邪魔しちゃって』
私が、電話に出ると、受話器の向こうから、ムギ先輩の穏やかな声が流れてきた。

「いえ、大丈夫ですよ」
『ねぇ、梓ちゃんは今、幸せ?』
「はい!ムギ先輩のおかげです。
ありがとうございます」
私が、突然の問いかけに驚きながらもお礼を言うと、ムギ先輩は優しく答えてくれた。

『ううん、そんなことないわ。
梓ちゃん……澪ちゃんと仲良くね』
「はい!」
私は、ムギ先輩の言葉に、元気よく答えた。

―――

「ムギ、私たちのこと、心配してくれたんだな」
私が、電話を返すと、澪先輩は感慨深げに呟いた。

「あの時、ムギ先輩が澪先輩を説得してくれたんですよね?」
「うん……ムギがいなかったら、私、梓への思いに気付けなかったかも知れない……」
「ムギ先輩には本当に感謝です」
「……私も」
「いつか……ムギ先輩にお礼がしたいですね」
「……そうだな」
私たちは、ムギ先輩への感謝と、お互いへの思いをしっかり胸に焼き付けながら、肩を寄せ合い、穏やかな気持ちで瞳を閉じた。
そして再び、ビル・エヴァンスの、美しいピアノに耳を傾け、いつまでもそうしていた。



   おしまい






最終更新:2012年03月12日 20:16