梓「虫歯」
どうやら虫歯になってしまったらしい。
上あごの第二小臼歯と第一大臼歯のあたりにぼんやりとした痛みを感じる。
具体的にどちらの歯のどこにあるかとまでははっきり言えないが、
たしかにそのあたりに痛みがあった。
体の中で最もかたい組織であるエナメル質という濡れた綿(わた)にくるまれながらも、
鋭さを認識させる小さな異物がそこにある。
カップに入れた熱い紅茶を飲むと、思ったとおり、少ししみた。
ムギ先輩でも、憂でもなく、唯先輩が入れてくれた紅茶はちょっとだけ苦い。
「ねえ、あずにゃん」
眉をひそめた私のことが気になったのか、唯先輩が私の名前を呼んだ。
――痛みが少し強くなる。
「なんですか」
私はわざとそっけなく問いかえす。
「むー……なんでもない」
斜め前のソファに座っている先輩は、ほほをふくらませてそっぽを向いた。
でも、目はこちらを向いている。
「なんでもないなら呼ばないで下さいよ」
先輩の視線を避けるように私は横を向く。
別に怒っているわけじゃない。
だって、唯先輩の目は笑っていたし、私の声だって、
前みたいにツンツンしてはいない。
横目で見ると、ほらやっぱり唯先輩は私の方を見てニコニコ笑っていた。
歯の痛みは、まるで砂浜にやってくる波の音のように、
やわらかくよせてはかえしをくりかえす。
今、唯先輩の家にいるのは私たち二人だけ。
静かなリビングで、その痛みはより確かに感じられた。
でも、決してそれは不快なものではない。
奥にある痛みの原因を探ろうとするように、
私は舌で歯のつるつるとした表面をなぞってみる。
水晶と同じかたさのエナメル質をこえて象牙質に入り込み、
歯髄の中に居すわっているものはなんだろうか。
そんなことをしなくても、もううっすらとわかっているけれど。
「あずにゃん」
唯先輩にまた名前を呼ばれる。
「はい」
先輩の声は、私の歯に心地よく響く。
「バレンタインのお返し、あげるね」
「今回も『あめちゃん』ですか?」
「そうだよ」
「それはもう、もらいました」
「……あずにゃん」
私の名前を呼ぶ声が変わる。
先輩が私の隣に移動して、ソファがかすかにきしむ。
――また痛みを感じる。
唯先輩が周りを見回して、誰もいないことを確かめる。
それは、何かいたずらを企んでいる子どものようであり、
いたずらを見とがめられるのをこわがる子どもがするものといっしょだった。
「目をとじて」
私は先輩の言うとおり、素直に目を閉じる。
あめを包むセロファンをほどく音がする。
そのあめ玉が先輩の口の中でからん、と転がる本当に小さな音も。
あぁ、唯先輩の温度が近づいてくる。
――治療した方がいいのかもしれない。
唐突に、どこからそんな声が聞こえた気がした。
その声は、深刻ぶった声色でエラそうにこんなことを言っていた。
――蝕まれた部分を削りとり、麻酔をかけて神経を抜きとり、合金を詰めるんだ。
――それ以上虫歯が広がる前に、歯が抜け落ちてしまわぬように。
――治療しなくちゃいけない。
――手遅れになる前に。
私はその声をはねのけるように、少しだけあごを上げた。
すうっ、と私と一緒に息を吸ったときの空気で、
唯先輩がほほえんだのがわかった。
手遅れだよね、とでも言うように唯先輩は笑った。
口のなかに広がる甘さが、痛みを消していくのを確かに感じながら、
そうですね、と私も笑った。
「虫歯は風邪と並び、どの世代でも抱える一般的な病気である。
特に歯の萌出後の数年は石灰化度が低いため虫歯になりやすく、未成年に多く見られる。」
(wikipediaより引用)
終わりです。
ありがとうございました。
最終更新:2012年03月28日 21:05