【迷子の少女徘徊中】
あの落書きを描いてるのが誰で何で描いてるのがのかを知りたくなったわたしは、次の日の深夜、部屋を出た。
夜の町。
遠くでネオンが光っているのが見えた。
広告塔のディスプレイは現実より綺麗が売りで、空気清浄機のCMが流れていた。
『綺麗な部屋は人の心を綺麗にします』
あの綺麗な部屋の押し入れはきっと汚いんだ。
ってわたしは思った。
あずにゃんが部屋を掃除してくれたけど押し入れは汚いままだってことを思い出した。
そういえば、そのせいで水鉄砲がどこかいっちゃったな。
自販機が夜道を照らしていた。
ペプシ・コーラを売っている自販機はこの町にはなくなったと思ったから驚いた。
硬貨を入れて、屈んでコーラをとりだした。
買ってから寒いなあって思った。
ずいぶんラフな格好で来てしまった。
プルタブを思い切り引き抜いて、炭酸を一気に飲んだ。
舌がひりひりした。
夜の道は昼間と違って何度か迷いそうになったけれど、橋の下までたどり着いた。
風が吹いた。
震えた手をポケットに入れた。
携帯を落としたことに気づく。
これだから、技術の最先端は嫌なんだよ。
壁の前で誰かが動いていた。
スプレーを吹き付けて、引いて、の繰り返し。
まるで踊ってるみたいだってわたしは思った。
長い間、その動きに見惚れていた。
不意に、我に返って恐る恐る前に歩く。
あたりは暗かった。
でも、見えた。
だから、好きだったんだ。
あの落書きがさ。
そうなんだ。
「あずにゃん」
影が目の前で振り向いた。
服はスプレーで汚れていた。
梓「唯先輩?」
唯「えへへあずにゃんは悪い子だねー」
梓「あの……これは……そのですね」
唯「あのね、あずにゃんはわたしが小さい頃よくした落書きに似てるんだよ」
梓「ん……」
唯「机とかノートの端っことかいろんなところに描いた落書きにさ。
変な話だよね。わたしは落書きを消す人になって、なんでかあずにゃんは落書きをしてる。
なーんてさ。
とりあえず座ろうよ、ね?」
梓「はい」
壁に持たれるようにして腰をおろした。
わたしたちの間にはほんの少しだけの隙間があった。
唯「あずにゃんが毎日描いたの?」
梓「……すいませんっ」
唯「ううん。わたしは怒ってないよ。
わたしはあのあずにゃんの描いた落書きが好きだったんだよ」
梓「ほんとですか?」
唯「うん。毎日、楽しみにしてたよー」
梓「……そうですか」
あずにゃんは下を向いた。
唯「照れてる」
梓「ないです」
唯「そっかあー」
梓「……少し」
唯「えへへ」
梓「むう」
唯「ね、なんで描こうと思ったのー?」
梓「唯先輩の給料が上がるんじゃないかなあって」
唯「うそっ?」
梓「うそです」
唯「くそぅ」
梓「ふふっ」
あずにゃんは笑った。
ずるいっ。
わたしも笑った。
梓「消えてほしくなかったんです」
唯「え?」
梓「みんなで描いた落書きが。子どもですよね」
唯「ちょこーっと、ね」
梓「それに唯先輩が遠くなった気がしたんです」
唯「あずにゃんと遊べなくなったから?」
梓「他の先輩に比べて唯先輩は軽いんですよっ」
あずにゃんがわたしの鼻をぱこんってやった。
唯「いちっ」
梓「唯先輩に伝わるかなあって。
子どもでいたかったんですよっ……」
唯「そっかあ」
梓「別にわかんなくてもいいですよ」
唯「わかるよ。わたしもずっとそのこと考えてたから。考えすぎらしいよ」
梓「ふむ」
唯「そういえば、なんでいつも赤、緑、黄なの?」
梓「信号機。信号機の色ですよ。緑は青ですけど」
唯「しんごう?」
梓「子どもの頃から信号機が好きだったんですよ」
唯「なんで?」
梓「ほら、信号機が赤なら大人も子どもも誰でも止まるし、青なら一斉に歩き出すじゃないですか。
あれを見るのが好きだったんです」
唯「でも、誰かが信号無視したら?」
梓「わたしがこらしめてやりますよ」
唯「おねがいしますっ」
梓「えー」
唯「ほら、あずにゃんに許してもらいたいんだよ」
あずにゃんはもう一度わたしの鼻をぱこんってやった。
唯「いていっ」
ずっと向こうの高架線の上を車が走っていた。
ヘッドライトの光が行列をつくって、海になった。
唯「わたしさ、はやく大人になりたいって思ってたんだよ」
梓「唯先輩が?」
唯「大人になれば楽しいことがいっぱいあると思ったんだ。でも、ダメだよ。ぜんぜん。
かっこよくなろうとしていらないもの捨てようとしたら、いつの間にか大事なものまで捨てちゃうところだったんだ」
わたしはあずにゃんのほっぺをぐりぐりした。
唯「あずにゃんがいてよかったな」
梓「……どうもです」
唯「みんながいたから……つまんないのがね……好きになれたよ」
唯「……わたし、いろんな恐ろしい目にもあったよっ……誰にも言わなかったけど……
退屈なのが怖くて耐えられない気がしたんだ……」
あずにゃんがわたしとの最後の隙間を埋めた。
唯「でも、よかったんだ……あずにゃんがいたから……
あずにゃんはみんなよりずっとちっちゃくて子どもだから……
わたしも子どものままでいられたんだよ」
あずにゃんは何も言わなかった。
幼い子どもみたいに、ただ話を聞いていた。
わたしがずっと憧れた大人は実はまるで子どもみたいで、わたしが思ってた子どもは大人のことだったんだ。
唯「わたし勝ったんだ。大人になりたい自分に。
あずにゃんのおかげだねっ」
わたしはあずにゃんに向かって笑いかけた。
あずにゃんは照れた顔を見せて、すぐに真剣な顔を作ったけど、それは崩れて笑顔になった。
わたしは泣き出してしまう。
押さえても押さえても涙がこぼれた。
声を上げた。
あずにゃんがわたしを抱き締めた。
ちっちゃいから寒さからわたしを守ってくれたりはしない。
でも、いいんだ。
そのまま黙ってしまう。
そんな予定調和が嫌だったから言った。
唯「あずにゃん、知ってる?最先端の空気清浄機は人の心まで綺麗にしちゃうんだ」
梓「わたしはできないですよ」
唯「知ってる。あずにゃんはしてくれないんだ。いじわるだから」
梓「ばあか」
あずにゃんは強く強くわたしを抱き締めた。
わたしはへこんだ。
くにゃり。
でこぼこになる。
唯「ぺしゃんこだあ」
梓「えへへ」
二人で残りの絵を描いた。
時間が足りなくて壁の半分しか埋められなかった。
天使を描いたつもりだったけど、なんだかそれはあずにゃんに見えた。
梓「いいんですか描いちゃって?」
唯「どうせわたしが消すからいいんだよっ」
消しても大丈夫なんだ。
もう。
ちゃんと覚えてるから。ちゃんと。
【エピローグ】
朝遅く、ていうともうお昼みたいなもんだけど、わたしは家を出た。
昨日の落書きを消しにいかないといけない。
信号が点滅していたのであわてて横断歩道を渡った。
人「おいっ無職」
後ろから呼ばれた。
振り返った。
『サッカー君』が赤信号を無視してわたしのほうにやって来た。
人「あのさ、唯……」
唯「信号無視した」
人「いーじゃん別に車もないんだし」
唯「バチが当たるよー」
人「そんなことよりさあ、今日こそ……」
唯「わたしのコレ嫉妬深くてさ、ごめんっ」
いたずらっぽく小指をたてた。
人「はっ?……うわっ。いてっ」
『サッカー君』の顔面にすごい勢いの水が命中する。
人「はあ。なんだ?」
『サッカー君』はその原因を突き止められないみたいだった。
わたしも周りを見回したけど、特に何も見つからなかった。
人「おい待てよ……うわっマジでなんだよこの水。服にかかったし」
唯「そうそうわたし、もう無職じゃないんだよね。バイバイ」
わたしは走り出す。
右に曲がって、ぶつかった建物の階段を駆け上り立ち入り禁止のフェンスをジャンプで飛び越えた。
屋上に出る。
梓「あ、おはようございます……ふぁあ」
やっぱりあずにゃんは眠そうであくびをした。
唯「その水鉄砲あずにゃんが持ってたんだっ」
梓「ああ。けっこうすごい勢いで出ますねコレ」
唯「あの人撃っちゃってよかったの?」
わたしはわざと聞いた。
梓「だって、あの人信号無視したじゃないですか」
昨日の壁に向かう。
二人で並んで歩いた。
あずにゃんが眠そうだったので水鉄砲で起こしてあげたら、ほっぺをつねられた。
梓「そういえば。さっき、小指立ててましたけど、何なんですかアレ? 挑発するのは中指ですよ」
唯「し、知ってるよっ。あれはわたし流の挑発なのです」
梓「へえー」
唯「信じてないね?」
梓「ぜんぜんです」
唯「ホントの意味知りたい?」
梓「いや別にいいですけど」
唯「あーっ」
梓「どうしたんですか?」
唯「携帯あった……ジュース買った時に落としたんだあ」
携帯には二件着信があって、そのうち一件には留守電が入っていた。
歩きながらそれを聞いた。
電話は二回ともりっちゃんからだった。
律『もっしもーし、唯ー。あっれーでないぞあいつ。なあ出ないんだけど。
うん。えー、わたし留守電苦手だから紬頼むっ』
紬『唯ちゃん驚かないでよ……』
梓「唯先輩見てくださいっ。すごいですよっ」
唯「どしたの? ……あっ!」
壁一面に
『放課後ティータイム』
の文字がペンキで書かれていた。
さらにその周りには楽器の絵とか、よくわかんないものが描かれている。
紬『ってわけなの。澪ちゃんっ』
澪『あーあー 律『マイクのテストじゃないんだぞっ』 唯? 実はさ、律が消されたからもう一回落書きしに行こうって言い出してさ、唯と梓は電話しても出ないから、とりあえず三人で行ったら、唯たちがいてびっくりって話なんだよー。
ってか留守電入れるほどでもなかったなあ。あはは。
えっ、ああ。ムギに代わるね。』
紬『あとね、いい忘れたんだけど、ホントはコレいうために電話したんだけどね。
ごめんなさいっ。
唯ちゃんの仕事大変にしちゃったみたいだから。
あ、なんで唯ちゃんの仕事知ってるかっていうとね。わたしの会社の後輩で唯ちゃん知ってる子がいてわたしに教えてくれたの。時計台の落書きを消してたって。あとね澪ちゃん歌詞できたんだって。
唯ちゃんと梓ちゃん見てたら歌詞が思い…… 澪『わたしの話はいいよっ』 はいっりっちゃんも一言』
律『一言って言われてもなあ。
あそうだ。泣いてただろ? カッコわるい。ちょーっとだけ』
ぷっちん。
電話が切れた。
唯「ひどいっ」
わたしは言った。
そのあとで笑った。
ちょっとだけね。
唯「あずにゃんこりゃ消すの大変だよー」
梓「嬉しそうですね」
唯「そうだ。あずにゃんさ、そのさ、大学出たらわたしといっしょに働かない?」
梓「うーむ」
唯「わたしがんばるからさっ。もっといろんな場所で仕事できるようにするし。しっかり働きますからあー」
梓「なんで唯先輩が懇願してるんですか……でもそうですね。考えておきますよ」
唯「やったあーっ。ありがとっあずにゃん!」
わたしはあずにゃんに飛び付く。
梓「まだ誰もいいとか言ってませんしっ」
唯「すりすりー」
梓「うわっ」
唯「そうだっ。新入社員のあずにゃんにいいことを教えてあげよう」
梓「もう入社してるし……」
唯「この激落ち液はとっても割れにくいしゃぼん玉を作ることができるのです」
梓「あっ。そうやって見つけたんですか」
唯「びんごっ」
わたしはポケットからしゃぼん玉を吹く筒を出した。
液をつけてしゃぼん玉をつくる。
できたしゃぼん玉を軽く指でつついた。
唯「ほらっ、つんつんしてもわれないよっ」
梓「へえ」
今度は息を思いきり吐いた。
いくつものしゃぼん玉が空に向かってあがっていく。
透明なしゃぼん玉は光を反射して虹色に輝いた。
くちびるに人差し指をあてて、静かにってあずにゃんに合図した。
しゃぼん玉が好きだった。
だから、われないでほしいって思ったんだ。
しゃぼん玉が空のむこうのむこうに消えてしまったあとで、わたしたちは大声をあげて笑った。
おわり!
最終更新:2012年03月31日 20:43