たぶん一目惚れだったと思う。
優しいブロンドの髪。おっとり優しそうで大きな瞳。
屈託のない無邪気な微笑み。
そのどれもが私を惹きつけた。
だからあの日ムギに告白したんだ。
ムギは少し困ったように微笑んで、
紬「りっちゃんじゃなくていいの?」
と聞き返した。
ムギはわかってない。
もちろん律は大切な幼馴染みだ。
律が悲しいと私も悲しくなるし、律が笑ってると私も嬉しくなる。
高校を卒業しても、就職して離れ離れになっても、ずっと友達でありたいと思ってる。
でも、恋じゃないんだ。
その旨をムギに伝えると、今度は努めて微笑んで、
紬「それじゃあ澪ちゃん。これから宜しくお願いします」
と丁寧にこたえてくれたんだ。
そういうわけで私とムギは付き合ってる。
付き合ってると言っても、頻繁にデートしているわけじゃない。
律や唯の前でいちゃつくわけにもいかないし、以前とそう関係が変わったわけでもない。
ムギから好きだと言ってもらったことも、ない。
澪「前から気になってたけどさ、それってコーヒー淹れるやつだよな?」
ある放課後、ムギに問いかけた。
紬「ええ、これはサイフォンといって、コーヒーを淹れる道具なの」
紬「面白いのよ。沸騰すると、コーヒーがダンスを踊ってるみたいにぶくぶくって…」
楽しそうに説明してくれるムギ。こっちまで嬉しくなってしまう。
紬「そうだ。澪ちゃんってコーヒー飲める?」
澪「うーん。コーヒーってほとんど飲んだことないんだ」
澪「一度ぐらいちゃんと飲んでみたいと思ってるんだけど…」
紬「じゃあ明日の部活で澪ちゃんにだけコーヒー淹れてあげようか?」
澪「それは…」
ムギの好意は嬉しいけど、私だけコーヒーというのがちょっと引っかかった。
こんなこというと、幼稚だと思われてしまうかもしれないけど、
一人だけ違うのはちょっと恥ずかしい、というか寂しい。
私がそんなことを考えていると、ムギが察してくれたようだ。
紬「以前、朝練しようって話してたじゃない」
紬「明日の朝、二人で練習しない?」
ムギの洞察力の鋭さには驚くばかり。
一時期は読心術が使えるんじゃないかと本当に疑ったぐらいだ。
澪「ありがとう、ムギ」
翌日。眠い目を擦って布団から這い上がる。
いつもより二時間早く家を出て、二時間早く学校に着く。
ムギより先に来て、練習を始めてやるんだ。
…という考えは、ムギの天使の微笑みによっていとも簡単に崩されてしまった。
紬「あら、澪ちゃん。早かったのね」
澪「いや、ムギが早すぎるんだろ。まったく…」
澪「いつから来てた?」
紬「え、えーと、そんなことより、コーヒーを」
澪「いつからだ?」
紬「…二時間ぐらい前から、かな?」
ムギは時々こういう無茶をする。
今日の朝はけっこう冷えたから、体だってきっと冷えてしまって…。
澪「ほら、手だってこんなに冷えて…」
澪「って暖かい」
紬「澪ちゃんの手のほうが冷たいね」
ムギの手から熱が伝わってくる。
ムギの手はしっとりしていて、あったかくて、やわらかだった。
白くて綺麗で細くて繊細、でも実は力持ち。
そんなムギの手が私は好きだ。
あ、いい歌詞が産まれそう。
って私、いつまでムギの手を触ってるんだ!
澪「ごめんムギ、ずっと握られてちゃ困るよな…」
紬「付き合ってるんだから気にしなくていいのに」
微笑むムギ。
一瞬、ムギに「二人の関係についてどう思ってるんだ?」って聞きたくなった。
ムギは私の表情を読めるけど、私はムギの表情を読めない。
私に手を握られて、ムギも少しはどきどきしてくれてるのかなぁ…。
紬「じゃあコーヒを淹れるね」
いつだってムギはマイペースだ
ムギは手早くコーヒーを粉末にして、茶漉しにかけ、
サイフォンに水と粉をセットし、アルコールランプに火を点けた。
惚れ惚れするような手際だ。本当にムギはなんでもできてしまうんだなぁ。
作業が一段落ついたところで、ムギに声をかける。
澪「なあ、ムギ。今日のことだけどさ」
紬「なぁに、澪ちゃん」
澪「いや、あのあと家に帰ってから考えたんだけど、ちょっと悪かったかな、と」
澪「私が部活中に一人だけ違うものを飲むのが嫌だってのを見ぬいて、誘ってくれたんだろ?」
紬「あぁ、そのことね」
澪「幼稚だとは分かってるんだけどさ…」
紬「大丈夫、私も同じだから」
澪「えっ?」
紬「私も仲間はずれは嫌だからっ」
澪「紬も?」
紬「うん。私もみんなと一緒がいいの!」
紬「それに、ふたりきりでコーヒーを飲むのも悪くないかなって」
澪「むぎ~」
思わず抱きついてしまう。
よしよしと背中を撫でてくれるムギ。
やっぱり大好きだ。
紬「ほらほら、澪ちゃん、そろそろコーヒーがダンスするから、見ててね」
沸騰したお湯が蒸発して、上から吹き出す。
蒸気がコーヒーの粉を勢い良く吹きあげる。
粉はすぐに液体になって、軽やかにリズムを刻み出す。
澪「すごい。本当に踊ってるみたいだ…」
ムギはそんな私を見て嬉しそうに微笑んでる。
澪「あ、なんか分かっちゃったかも」
紬「何がわかっちゃったの?」
ムギもきっと、私が嬉しいと、嬉しんだ。
私が笑ってると、思わず笑っちゃうんだ。
私と同じ様に張り切って、いつもより4時間も早く学校にきちゃうんだ。
澪「それより早くコーヒー淹れてくれよ」
紬「ええ」
ムギは丁寧にサイフォンの下半分を取り外し、コーヒーを注ぐ。
私の前にコーヒーの注がれたカップが置かれる。
紅茶の香りとは違う、とてもいい香りだ。
まずは一口。
紬「…どう? 澪ちゃん」
澪「…美味しい」
澪「とても香りがいいのに、あんまり苦くない」
澪「目もバッチリ覚めるし、朝の一杯に最高だな」
紬「そうでしょそうでしょ。コーヒーも上手く淹れれば美味しいんだから」
ムギが小さくガッツポーズをしたのを私は見逃さなかった。
それから二人で練習をした。
朝の爽やかな空気の中でやる練習は、とても気持ちよいものだった。
それはムギも同じなのか、いつもよりキーボードの音がイキイキしてるみたいだ。
澪「今日はいつもより調子がいいんじゃないか?」
紬「澪ちゃんこそ、いつもよりベースの音が弾んでたわよ」
澪「なんかいいな、こういうのって」
澪「ムギの淹れてくれたコーヒーを飲んで、練習をして…」
澪「なんだか一日を有意義に過ごせそうだ」
紬「澪ちゃんさえ良かったら、明日からも続けようか」
ムギの提案は素直に嬉しい。
でも、その返事をする前に一つだけ聞いておかなきゃならないことがある。
澪「ムギは私のこと好きか?」
紬「澪ちゃん? いきなりどうしたの?」
私は何も言わずに、ムギを見つめ返した。
ムギは悟ったような顔をして、まっすぐに私を見つめてこう言った。
紬「…私は澪ちゃんのこと好きよ」
澪「それは友達として? それとも恋人して?」
紬「恋人として」
澪「………よかった!」
紬「澪ちゃんもしかして、私が澪ちゃんのこと好きじゃないと思ってた?」
澪「自信がなかったんだ。ムギは私のこと好きだって言ってくれないし…」
紬「告白を受けたのに?」
澪「好きだとは言ってもらってなかった」
ムギはちょっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
この顔は知ってる。ちょっと悪いことを思いついたときの笑みだ。
紬「私も澪ちゃんに好きだって言ってもらったことないなー」
澪「え?」
紬「私も言ってほしいなー」
澪「言っただろ、最初に告白したとき」
紬「付き合ってとは言われたけど、好きだとは言ってもらってないもん」
澪「あ…」
それは盲点だった。確かに言ってないや…。
言わなきゃ。私もムギのこと好きだって言わなきゃ。
すぅ…はぁ……。
澪「私もムギのこと…」
その言葉は途中で遮られた。
ムギが突然飛び出して私の唇を奪ったんだ。
澪「ぷはっ…いきなりすぎるよ」
紬「ごちそうさまでした」
ムギは満足そうに笑ってる。
たぶんこれはムギなりの仕返しなんだと思う。
不安を抱えたまま、それを打ち明けなかった私に対する。
そして…、
初めてのキスはコーヒーの味がした。
澪「あ、浮かんだ」
澪「なんだか歌詞を書けそうだ」
紬「私も曲を思いついちゃったかも」
澪「新曲だな」
紬「新曲だね」
澪「なぁ、ムギ」
紬「なぁに? 澪ちゃん」
澪「これからも宜しくお願いします」
おしまいっ!
最終更新:2012年05月27日 00:07