『ROCK!!』











「律ー、行くぞ」
「ちょっと待って」

 私は玄関に立って、まだ二階にいる律に声を掛けた。
 すぐに返事は聞こえるものの、どうやらまだ身支度は済んでいないようだ。
 クローゼットを開け閉めする音や、ドタドタと慌ただしく歩く足音もよく聞こえる。
 いつもこの時間に出発するのだからそれに合わせて朝起きろよと思うのだけど、
 直そうとしない……この場合直せないというのが好ましいが、それも律らしいかなとは思うようになっている。
 こうやって待っているのも、決して悪い気持ちではなかった。
 ただ言いようのない不安は、心の中でせめぎ合っているけれど。
 部屋から出てきた律が階段を降りてくる。
 そして言った。

「ごめんな、澪」

 寂しそうに、笑うんだ。
 昔から悪いことをすれば謝るあたり真面目な奴ではあった。
 律は普段は何気なく迷惑を掛けがちだったりたまに度が過ぎることもあるけど、それに酷く反省する性格でもあった。
 だから高校時代も、律がたまに謝ることに特にどうということも感じず、悪いと思ったら謝るのも律のいいところだとさらりと流していた。

 でも、今は違う。

 律は以前よりも、私に謝ることが多くなった。
 どんな些細なことでも、私が指摘しようとしなかろうと、律が一瞬でも過失を認めた瞬間、 律は簡単に謝りの言葉を口にしちゃうのだった。
 笑いながら、切なそうに笑いながら。
 ごめんと。
 正直、幼馴染を舐めないでほしい。
 そんな謝罪の言葉も、無理に作ったような笑みも、結局全部私の胸を締め付けるものに変わっているのに。
 笑っている顔を見たところで、律の心の中にある辛さみたいなものを、手に取るように感じることができてしまうのに。
「謝るなよ、いつものことだろ」
「ごめん」
 律はまた笑いながら靴を履き替えると、外へ出た。私もその後ろに続く。
 並んで道を歩いた。その中で、私たちは他愛もない会話をする。
 小学生からの付き合いだから、何の面白味もない話題だったり、面白い事を話す事は幾度となくあっただろう。
 その会話の内容が面白かろうとなかろうと、私は律と会話するそんなささやかな日常をもっと大事にしたかった。
 だけど、律は以前より冗談を言わなくなった。
 私を弄ることも、怖がらせることもなくなった。
 高校時代はそういうことも多かった。部活の中でも合宿でも、二人家で過ごしてる時も、律は私を何かと構ってくれていた。。
 私も表面では嫌々言っていたけれど、それでも律とスキンシップできていると感じたり、構ってもらえるのはちょっとばかし嬉しくもあったのだ。
 それなのに。
 それがなくなったのは寂しい。



 律は変わった。
 私の好きな、元気でお調子者な律ではない。
 だけど私の大好きな律であるのには変わりはない。
 小さな矛盾。
 律といるのは楽しいけれど。
 どこか、悲しい。










 予備校に着くと、講義室にはすでに生徒は集まっていた。
 さすがは浪人生と言ったところか。高校の時みたいに誰かと喋ることなく、黙々と問題集に向かっている。 
 シャーペンが紙を擦る音だけが部屋には響いていて、あまりの静けさに入り口のドアを開けるのに躊躇する程だった。

「私も問題集やろう」

 入り口で立ち止まっていた私を抜いて、律は空いていた席を見つけて座った。
 私も慌ててついていき、隣に座る。
 この講義室は、誰がどこの席というものが決まっていない。
 だから誰がどの席に座っていようが構わないし、毎日席が違うこともある。今日は少し後ろの方だった。
 律は席に座ると鞄を開いて、問題集を取り出した。それの端々から付箋が垣間見える。

(……すごい勉強してるんだな)

 私は律のマジ顔を横で眺めていた。本来なら私もやらなきゃいけない。
 だけど今はそんな気分でもなく、なんとも言えない気持ちで律を見つめることしかできなかった。
 律は大学ノートの真っ白なページに数式を書き込んでいく。
 ガリガリと文字を紡ぐシャーペンは、律の愛用のものだった。
 黄色いのが律にピッタリで、高かったと言っていた。
 大学受験の時はあんなに勉強を嫌がっていたのに、今はその欠片もない。
 律の家に行けばいつだって勉強してるし、あんなに綺麗だったテーブルは参考書の山で埋め尽くされていた。
 今、唯とムギが通っている女子大はそこまでレベルの高い大学というわけでもはない。
 だけど律は死に物狂いで勉強をしていたし、その努力に私は何も言えなかった。
 ちょっと寂しいと言えば、バチが当たるだろうか。
 少しの胸の痛みに気を取られている内に、律は問題集のそのページを終えて採点にかかっていた。
 白かった大学ノートは数式で塗りつぶされ、その上にさらに赤い丸が刻まれていく。
 そのページが満点であったと気付くと、私は小さな声で言った。

「すごい。百点だな」

 律はこちらを見て少し驚いたような表情をすると、目を細めて笑った。

「……今の、昔の私みたいだったな」

 そう言って、問題集を畳んだ。




『すごーい! 百点だ!』

 小学生の時、律はそう言って私のテストの点数を皆にばらした。
 今よりもずっと恥ずかしがり屋だった私は、百点に寄ってくるクラスメイトにどぎまぎしていたし、こんな事になるのなら百点なんて取るんじゃなかったと後悔してたと思う。
 それぐらい誰かと関わるのが苦手だったんだ。
 苦手だから、誰一人として友達なんていなくて。
 朝学校に来たって誰とも挨拶なんてしなかったし、休み時間には本ばっかり読んでた。
 それでいいと割り切っていただろうし、その方が落ち着いてた。
 友達なんて欲しくないと無理に思いこんでたんだろう。そうすることで、自分の弱いところをなんとか隠してた。

 でもやっぱり寂しかった。
 誰かと笑ってたかった。一緒に遊びたかった。一緒に歩いたり、話したかった。
 面白い話で笑いあいたかったし、手を繋いでいたかった。
 その癖自分からそうしようとしない辺り、私は本当に臆病者だった。
 そんな勇気もないから本心を偽ってた。
 皆もそういう私にあんまり関わらなくなって、私の周りはいつだって静かだった。
 誰か話しかけてくれないかな。
 ちょっと望んでた。
 そんな時、律と出会ったんだ。
『じー』
 昼休みに本を読んでいる私を、隣の席に勝手に座って頬杖を突いてこちらを見つめてきた律。
 クラスメイトだったから名前は知ってたし、目立つ子だったから自然と覚えていた。
 だけど向こうは私など眼中になかっただろうし、会話したのも一度や二度程度だった。
『……』
 恥ずかしくなって目を泳がせていると、律は意気揚々と尋ねた。
『何読んでるのー?』
『ひっ……』
『ねえ、見せて見せて』
 あの時は律が怖かったかな。
 でもやっぱり話しかけてくれたのは、何処か嬉しくもあったのだ。


 それから色んな事があって、律とは友達になった。
 私は律になら素の自分を見せられるし、律といるのが私の幸せだとも言える。
 今は親友で、恋人。あの時よりも、ずっとずっと距離は近いはずなのに。


『すごーい! 百点だ!』
 律はあの時そう言ってくれたんだ。
 ちょっと意地悪だったけど、律の笑顔が大好きだった。




 でも。
 回想から回帰した。

「……昔の律ってなんだよ……律は律だろ」

 私は無意識にそう漏らしていた。
 認めたくなかった。
 律は変わった。
 そんな事実を、私は認めたくなかった。
 律が以前と今で違う律になってしまったことを。

「そうだけど……今の私は、昔みたいに澪の事を弄れないよ……」

 語尾は聞き取りにくいほど小さかった。
 律は悲しそうに眼を伏せた。

「ごめん」

 また謝った。同時に先生が教室に入ってきた。

「始めるぞー」

 律に掛ける言葉がなかったから、少しだけ先生に感謝した。










 私だけ大学に落ちた。それだけ。


 もう最悪なんてもんじゃなかった。最悪を何乗したって辿り着かない絶望。
 絶対合格だって自信を持ってたわけじゃない。そりゃちょっと不安だったさ。
 あんなに勉強できる澪だって落ちるかもって思ってたんだ。逆に私が落ちない方がおかしいって。
 私が落ちない方がおかしいんだ。
 澪は公立の推薦狙えるぐらいだから元より頭がいいし、ムギも成績はよかった。
 唯は私と同じぐらい勉強は苦手だったけど、それでもギターを触らない分勉強の方が伸びた。
 和も唯の極端な所を指摘していたから、唯は今度は極端に勉強の方に才が働いたのだろう。
 駄目なのは私だった。
 私の番号はなかった。
 不合格発表を見た後、私はすぐに走り出した。
 もう情けなくて、自分を殺してやりたいぐらいだった。
 合格不合格に一喜一憂する人ごみをかき分けて、とにかく走った。
 澪たちとは顔も会わせたくなかった。
 もう必要ない受験票はビリビリに破いた。
 念のため持ってきた直前対策の参考書は、道中に見つけたゴミ箱に投げ捨てた。もう走って走って、声を上げた。
 奇声だったかもしれない。
 大学から出て、もう道なんてどうでもよくなって、もう何もかもどうでもよくって。
 過去に戻りたくて。
 でも戻れない。
 楽しかった時間は台無し。皆で夢見てた、四人で同じ大学って夢も台無し。
 もう全部全部台無しだ。
 私の所為だ。
 全部全部私の所為なんだ。
 息に詰まって足も疲れて、立ち止まったらそこは駅前だった。
 昼時だけど人は少なく、よく見れば私の家のある方面への電車が一本あるようだった。
 澪たちに悪いとは思ったけど、一人で電車に乗った。
 私の乗った車両に、誰もいない事を幸運に思った。



 何やってんだろう。
 馬鹿だ馬鹿だ。
 もう駄目だ。
 もう皆とは友達じゃいられない。澪にだって嫌われたに決まってる。
 裏切っちゃったんだ。
 皆の想いを、気持ちを。
 四人で一緒の大学に行くって。
 そんな幸せな未来、一旦ぶち壊しにしちゃったんだ。
 ぶち壊したのは誰だ?
 私だ。
 全部全部ぜーんぶ私が悪いんだ。


 涙が止まらない。
 胸の痛みが収まらない。
 マフラーはびしょ濡れ。
 スカートもびしょ濡れ。




 情けねーよな、馬鹿律。
 馬鹿律。
 馬鹿律。
 何が部長だよ。何が皆のアイドルだよ。
 結局怠けて何一つできないで、調子に乗って舐めてかかって受験に失敗する馬鹿じゃん。

「はは……」

 そうだよ馬鹿なんだ。
 いっつも澪をいじってばかりで。唯と一緒に笑ってるだけで。ムギのお茶飲んでるだけで。
 結局何もしない、何もできない弱虫でちっぽけな奴なんだよ。
 それでいいんだ。
 有言実行もできやしない部長なんていらない。
 もう私は放課後ティータイムのリーダーでもなんでもない。
 澪の恋人なんかでもない。
 唯やムギの友達でもない。
 梓の頼れる先輩でもない。


 そういうの全部崩れちゃったんだよ。









 駅に向かう途中のゴミ箱に、律と私の二人で買った参考書が捨ててあった。 大学構内を小一時間捜索しても律は見つからず、駅への道を進んでいるところだった。

「皆見て!」

 唯とムギがそれを見て、不安そうに表情を歪めた。

「それ、りっちゃんの……」
「駅に向かったってことかしら?」
「わからない……わかんないよ!」
「澪ちゃん落ち着いて」

 ムギが私の肩に手を置いた。
 落ち着いていられるわけがなかった。
 律が落ちた。
 律が落ちちゃった。
 私たち皆で通うはずだった大学に、律だけ落ちた。
 律はそんな自分を情けないと思ったのか、番号が掲示された番号をしばらく見て突然走り出してしまった。
 私はまさかと思ったけど、まさかは当たってしまっていた。
 律が――。
 律の悲しそうな顔が浮かんで、体が震える。律の涙や声が頭に残響する。
 やめてくれって頭に懇願したって、嫌でも律の顔は甦る。律の優しい声も悲しい声も全部浮かんでくる。
 ずっと一緒にいたから。何年も一緒だったから。
 律がどんな想いになってるかなんとなく想像はついてて、それが余計に胸を縛りつける。

「もしかしたら先に帰っちゃったのかもしれないわ、家に電話してみたら?」
「そ、そうだ……」

 私は今すぐにでも律を探して回りたい衝動に駆られつつも、携帯電話を取り出して律の家に掛けた。
 先ほど律の携帯に掛けてみたがそっちは電源が切られていた。
 数度のコール。
 出ろ、出てくれ律。額に浮かぶ汗と、繰り返すコール音が焦燥を助長する。
 コールが切れて、音がした。
 出た!

「も、もしもし律か!」
『えっ澪さん?』

 聡だった。

『どうしたんですか?』
「聡、律は帰ってきてるか?」

 左手で携帯を耳に当て、右手を胸の前で握り締めた。
 痛いのをこらえるのと、律がいてほしいという願いを込めていた。

『んー……靴はあるからいるんじゃ』
「よ、よしっわかった! ありがとう。切るぞ」

 私が電話を切る前に、ムギと唯は切なそうながらも笑みを零していた。私の言葉で伝わったらしい。
 聡が何か言おうとしていたが私はすぐに切って、二人に告げた。

「律は家に帰ってるみたいだ……」
「よかったね澪ちゃん!」
「あ、ああ……」

 このまま律が何処かに失踪してしまいそうな気がしたけど、そうでもなかった。
 よかった。
 ……よかった、のかな。
 嬉しいけど、やっぱり悲しい。
 複雑だ。まったく喜べない。

「じゃあすぐに行こうよ! 電車、そろそろだよ」

 唯がそう言うと、駅の方角に向かって走り出した。
 その背中を見つめて歩き出せずにいると、ムギが私に尋ねてきた。

「澪ちゃん……さっきの、本当によかったの?」

 さっきのとは、律を探す前に私がやった行動の事か。
 確かにせっかくのことだけど、迷うことはなかった。
 私がそうしたかったから。

「うん。律がいなきゃ、やっぱり……」

 ムギや唯には悪いけど。
 私は誰よりも律といたいんだ。

「……そうよね、ごめん。唯ちゃん追いかけましょ」
「う、うん」

 私たちも走り出した。
 律が捨てた参考書は、私の鞄の重みとして加わった。


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最終更新:2012年05月31日 22:39