ムギは少しの沈黙を破って、言い放った。
 その言葉に感じる微妙な自信。
 また不安にさせてくる。
 何か怒られるんじゃないかって、内心ビクビクしていた。


「……なんだよ。今言って」
『直接会って話したいのよ』


 なんで直接なんだ。
 私は誰とも会いたくないのに。


「……直接じゃないと、駄目なのかよ」
『直接じゃなきゃ、伝わらない気がする』



 伝えるってなんなんだよ。
 今、皆が私に伝えたいことって。
 怒りか、悲しみか、励ましかだろ。
 そんなの要らないんだよ。

 卒業してから――いや、受験に失敗してから、そんなのばっかりだ。
 そうだよ、私が悪いんだ。
 だから当然だと思う。

 でももううんざりだ。

 もう誰とも話したくないのに。


「……ごめん。それでも、私は、今誰にも会えないんだ」


 ムギが息つく音が聞こえて、また少しだけ静かになった。
 それから、ムギが何かボソボソと言う。
 それは、私に対してじゃなくて、まるで他の誰かに――いや、恐らく運転手の斎藤さんだろう。

 その斎藤さんに何かを言ったんだ。
 それを悟った時、家の外にエンジン音が聞こえた。
 まさか。
 私はベッドから跳ね起きて、ぴったりと閉まったカーテンをそっと開いて外を見た。


「……もう着いたのか」


 軽トラックが玄関に辿り着いていた。
 ムギはすでに降りていて、斎藤さんと協力してドラムセットの入った箱を荷台から降ろす段取りの会話をしているように見える。
 紛れもない私のドラムだ。
 私はカーテンを握り締めた。

 置いていって。そこに……後で取りに行くから。
 そう願ったけれど、ムギはお構いなしだった。
 チャイムが鳴る。
 ピンポーン――。
 右手に持ったままの携帯から声が漏れる。



『……ごめんなさい。でも、本当に伝えたいの。だから――』


 電話越しから伝わる声色は、細かった。
 顔は会わせたくないけど、そんなに深刻なら話も聞いてやりたい。

 私は携帯電話を持ったまま部屋を出て、ゆっくりと階段を降りた。
 玄関のドアの前に立って、電話の向こうのムギに告げる。たったドア一枚隔てているだけだ。


「……悪いけど、本当に顔を見せるのが嫌でさ……」
『……うん』
「だから、今玄関の前……これで許してくれ」
『ありがとう。本当は、直接会いたかったけど……』



 今は、澪以外に顔なんて見せたくなかった。
 私が甘えたいのは――こんな酷い顔見せれるの、澪だけだったから。


 電話越しで、ムギが息を吸った。
 そして。





『私、ずっとりっちゃんの事が好きでした。付き合ってください』



 そう言った。


「……は?」


『……』


 ムギはそれきり黙ってしまった。



 好きだった? 
 私の事が?


 頭の中が、ぐるぐると目まぐるしく泥みたいになった。
 一年生の頃とか、部活している時のムギの顔が浮かんだ。
 ムギが――私を――。



 でも、なんだよこの違和感。
 私は――私は、澪と付き合ってたし、それでいいと思ってた。
 なんでこのタイミングなんだよ。
 どうして今、ムギがこんなこと言うんだ。


「……ムギ」


『私、絶対りっちゃんを苦しめたりしないし……その、りっちゃんと』



 ……。






 苦しめたりしないってなんだよ。
 例え誰かの恋人になったら、相手を苦しめないのは当然だろ?
 なんでそんな事をムギは約束するんだ。


 電話を持つ手が震える。
 額から汗が垂れた。
 唇を舐める。



「なんだよ……それじゃあさ、まるで澪が私を苦しめてたみたいじゃん」
『……実際、澪ちゃんはりっちゃんを苦しめてたと思う』
「……おいムギ。まさか、澪に何か言ったのかよ」



『……ごめんなさい。でも――』
「何を言ったんだよ」



 私は多分怒っていた。



『……りっちゃんと別れてって、言った』




 脳裏に梓が浮かんだ。



 ――『もう、澪先輩と別れてください!』



 梓はそう、必死に訴えたんだ。
 梓は澪が大好きで、私みたいな奴が澪を奪うから怒ったんだろう。
 大好きな人が、あんな奴に取られちゃうのは嫌だって思ったんだろう。
 だからあんなにも覇気のある声で訴えたんだ。



『りっちゃんと澪ちゃんが一緒にいたら、多分どっちも苦しいと思う……だから、私は別れた方がいいって言ったの。
 そうすれば、りっちゃんもちょっとは楽に――』



 私は。



 私は。
 澪といて、苦しかった。




 嫌だ。


 そんなの言うな。



 聞きたくない。



 澪を否定しないでくれよ。
 もうやめてくれよ。
 私を苦しませるのをやめてくれよ。
 もういらないんだよ。
 私、私は――!




「うるさい!」




 なんなんだよどいつもこいつも。


 苦しいだの苦しくないだの。ちょっとは楽になるだのなんだの。
 一緒にいたら苦しくなるだって?
 ああそうだよ。苦しかったかもしれないよ。


 私は澪のために、以前の私に戻りたかった。
 でも皆に嫌われてるかもって思って踏み切れなくて、でも澪が望んでるからって。


 そんな葛藤と自己嫌悪で、もう毎日辛かった。
 澪が以前のような――笑ってるお調子者の私の事大好きなの知ってるのに、そんな自分に戻れない自分が大嫌いだったよ!
 そんな毎日が、辛かった。息苦しかった。
 だから……。




 だからなんだよ。


 皆そんなに、私と澪を突き離したいのかよ。


 私だって澪と離れたいってここ最近思ったよ!
 一緒にいちゃいけないんだって。
 そうしたら澪を苦しめるだけだって。


 だけど。





 だけど澪は私を苦しめてなんかなかったんだ!
 私を苦しめていたのは私なんだ。澪がいるから苦しかったわけじゃないんだ!





 だって――だってだって。


 だってまだ苦しい。



 澪がいて苦しかったなら、澪がいない今は苦しくないはずだろ。
 でも違うじゃん。
 まだ苦しいよ。
 泣きたいぐらいに胸が縛られてるよ。 痛いよ、苦しいよ……。


 その理由を問いただしてみるといつも。


 いつも澪が頭に浮かぶ。
 初めて会った澪、泣いてる澪、笑ってる澪。
 全部――全部大好きで。



 やっぱり、澪が大好きなままなんだ。


 私が澪を苦しめていても、澪は私を苦しめてなんかいなかった。
 澪が私を苦しめていたとして、それを手放してやったよ。
 そらみたことか。
 澪がいなくなったって、苦しみなんか無くならないじゃないか。
 痛いまんまじゃん。
 辛いまんまじゃん。
 それどころか、もっと痛くなってるじゃん。





「……ムギ、帰ってくれ」


『でも――』


「ごめん……ムギの気持ちには応えられない」



 ムギの事は、好きだよ。
 でもそれは――それは、ただの友達までの感情でしかない。
 ただの軽音部の、バンドメンバーとしての好きでしかないんだ。
 ムギの私に対する気持ちに、応えることなんてできやしない。


 応えようなんて、思えないんだ。


 誰かが私を好きだと言ってくれたって。告白されたって。
 私は、澪じゃなきゃ。
 澪じゃなきゃ嫌なんだ。




「ドラムそこに置いておいて……ごめん」


『っ……』


 ムギは何も言わずに電話を切ってしまった。
 ドアを隔てた会話だったので、ムギの顔や姿も見えなかった。


 数秒後に、エンジンを立てて車が去っていく音が耳に入る。
 私はそっとドアを開けて、確認した。


 玄関前に、ドラムセットが入った箱が並べて置いてあった。
 誰もいない。
 私はゆっくりそれに近づいて、箱の表面を撫でた。


 ……この数日間、澪が私に何も言わない理由が分かった。
 予備校に行かない理由も。


 澪も同じように、ムギに言われたんだ。
 私と別れろって……私を苦しめるのをやめろって。


 それが悪いことだとは思わない。
 ムギは私の事を好きだと言ってくれて、私のために澪にそう言った。
 その気持ちはわからなくもない……だけど。
 私はムギに怒りを表さずにはいられない。
 例え私のためでも、澪が今塞ぎこんでいるのなら、澪を傷つけたってことだ。
 澪が傷つくのは、私自身が傷つくことよりも嫌な事。



 澪には、笑ってて欲しいんだ。
 今澪を苦しめているのは、私だけど。
 でもこれだけは言える。


 澪は、私を苦しめてなんかいなかった。
 むしろ楽しませてた。喜ばせてた。
 幸せにしてくれたんだ。



 ――澪。




 私はドラムセットを家の中に運んだ。
 いつも一緒に運んでくれてた誰かが隣にいないのが、少しだけ寂しかったかな。


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最終更新:2012年05月31日 23:48