私は立ち止まって、それを硬直しながら見つめていた。
「なあいいじゃん」
「や、やめてください」
「どうせ男いないんだろ? カラオケでも行かない?」
髪をビンビンに逆立てたいかにもチャラい男である。
外見もだらしねー感じで、なんつーか……えらそうな奴だなという印象だ。
澪ちゃんは手に小さな袋を抱えたまま、怯えた表情で必死に断っている。
私は驚きとあまりの突然の光景に、どうしようかの判断さえ頭に浮かんでこなかった。
頭は冷えている。
だけど、それ以上の何かがせめぎあっている。
私はただ、こうやってその状況をモノローグして描写することだけしかできなかった。
今の私は、きっととんでもないくらい表情を失っている。
「いいじゃんかよ」
「い、嫌です……っ」
「あー、面倒くせーな」
男が、澪ちゃんの腕を掴んだ。
澪ちゃんの手から、抱えていた袋が床に落ちる。
澪ちゃんの小さく甲高い悲鳴が、耳に響く。
おい。
せめぎあってた何かが、溢れだした。
私は今日、ズボンだった。
それを選んできてよかったと思う。
私はゆっくりカチューシャを外した。
「澪」
私は、そう呼んだ。
澪ちゃんだけが、一瞬だけこっちを向く。
私は、目が合った澪ちゃんに微笑んだ。
でも、ちゃんと微笑むことができただろうか。
笑えるような気持ちじゃなかった。
歩き出す。
「はいはい終了ー」
私は作り笑いと、作った陽気な声を出しながら二人に近づいた。
男が振り向いて私を見る。
澪ちゃんも男も驚いたような表情をしているが、男は『なんだこいつ』とでも言いたげな窺わしい表情をしている。
澪ちゃんは泣きながら、まだ真っ青でビクビクしていた。
前髪が邪魔で視界が狭いが、でもこれでいい。
私は澪ちゃんの腕を掴んでいる男の手を払った。
二人の間に割って入り、男を精一杯睨み付ける。
作った声で、男に言葉を言い放った。
「人の彼女に何してくれてんの?」
私は前髪の隙間から威圧した。
多分、私は怒ってた。
澪ちゃんは、私からすれば他人。澪ちゃんから見たって明らかに私は他人だ。
もしかしたら一方的な友情かもしれない。
澪ちゃんは一度だって自分から私に話しかけてくれたことはないんだ。
私がずっと話してばっかりで、澪ちゃんはすぐに会話を終わらせてしまうから。
だから、友達じゃないかもしれないけど。
ただの同じ学科の学生ってだけの間柄かもしれないけどさ。
だからなんなんだよ。
間柄がどうとか、友達だからとかそうじゃないからとか。
うるさいよ。
澪ちゃんが、泣いてるんだ。
それだけで、私が怒るに十分な理由なんだよ。
「ちっ……男がいたのかよ」
男は舌打ちして逃げていった。男がいたらアウトなんだな。
縮小していく男の後姿を見つめて、それが完全に消えた頃、私は振り返った。
澪ちゃんは床に座り込んで泣いていた。
「大丈夫? 澪ちゃん」
私は、しゃがんで俯いたまま喘いだり咳き込んだりする澪ちゃんに、できるだけ優しい声で話し掛ける。肩に手を置いた。
が。
弾かれた。
「さ、触らないで下さい……っ」
え?
触るなって、え?
私はあまりに突拍子もない言葉に、胸を銃で打ち抜かれたような衝撃を受けた。
まるで心臓を握り潰されたように、その言葉が心で木霊しズキズキと針を刺すように痛み出す。
触るなって……。
あはは。
だよな。
どうせ、私なんてさ。
やっぱり澪ちゃんは私なんて……。
「なんで私の、名前……」
「えっ?」
「なんで……わ、私の名前……知ってるんですか」
澪ちゃんは涙を拭いながら、切れ切れにそう言った。
何を言ってるんだ澪ちゃんは?
だって私は、昨日まで話してた
田井中律……。
って……。
私は私の眼前に揺れる物に気付いた。
なんか前が見えにくいなあと思ったら……自分でそうやったじゃないか。
男に怒りをぶつけるのに熱中しすぎて忘れてた。
「あーごめん」
私はポケットからカチューシャを出して取り付けた。
澪ちゃんは目を見開いた。
私はちょっと恥ずかしくなって頬を指で掻く。
「わからなかった? 私って――」
言い終わる前に、抱きつかれた。
高校の時に上級生がやってた、ロミジュリみたいな。
それを思い起こすぐらい、背中まで手を回されて。
澪ちゃんは私の肩に顔を埋めて、泣きじゃくった。
「うっ……っ……ぐす…………」
「澪ちゃん……」
「……怖かった……ひっく……」
コインロッカーの前。
通りがかる人は、不思議な目で私たちを見ていた。
でも、そんなの関係なくて。
今は、澪ちゃんを素直に受け止めなきゃなって思った。
「大丈夫。大丈夫だから……」
私も抱きしめ返して、背中を撫でてあげた。
泣き止んで、澪ちゃんが目元を拭いながら私からゆっくり離れた。
一応、落ち着いたようだ。だけど、まだ鼻をすすったり咳き込んだり。
どこか安定のない感じを私に与えていた。本当に落ち着いたのかなあ。
私はふと床に落ちたままだった澪ちゃんの持っていた袋が目に入った。
落とした勢いで袋から中身が少しだけ出ているようだった。
私はしゃがんでそれを拾う。
文庫本だった。
「――これ……」
その表紙に書かれているタイトル。
それは確かに、昨日澪ちゃんが言っていたオススメの本のタイトルだったのだ。
「澪ちゃん」
「あっ……えっと」
澪ちゃんは、顔を真っ赤にした。
「オススメの、それ……実家に忘れてて……約束、破りたくなくて……それで」
だんだんと萎縮してフェードアウトしていく声。
最後のほうは聞き取りにくかったけれど、でも精一杯言葉にしてくれた一生懸命さが伝わっくる。
「わ、わざわざ買いなおさなくたって、実家に忘れたって言ってくれれば、それでも私は」
「だって……約束なんて、初めてで……せっかくオススメの本、聞いてくれたのに」
澪ちゃんは、泣き腫らした声と表情で続ける。
「約束破ったら……嫌われちゃうかもって……私、田井中さんに、嫌われたくなくて……だから――」
泣き止んでやっと落ち着いたと思ったのに、澪ちゃんはまた泣き出してしまった。
「あーあー、ほら。泣かないでっ」
私は申し訳ないけど泣いてる姿が可愛いと思ってしまった。
ここにいても埒が明かないし、通りすがる人は私が泣かしたと勘違いして……いやまあ実際私が泣かしたようなものか。
でも、ここにいると目立つし。
とりあえず、休憩所――自動販売機があったり座るベンチがあるような一画――まで行った方が良さそうだ。
そこで澪ちゃんに座ってもらって、ジュースか何か飲んだら落ち着くかな。
私は澪ちゃんの手を取った。
澪ちゃんは、握り返してくれた。
嬉しかった。
笑顔が見られないように、歩いた。
■
休憩所で、澪ちゃんに温かいカフェオレを買ってあげた。
ベンチに座って、静かにそれを飲む澪ちゃん。
私も隣に座って、澪ちゃんが落ち着いてくれるのを待つ
。私もジュースを買っていたのでそれを飲んでいたけど、正直ドキドキしていて私のほうが落ち着けなかった。
「……ごめんなさい」
澪ちゃんが、俯いたままそう言った。
「えっと、何が?」
謝るような事を澪ちゃんはしていないと思うのだけど。
澪ちゃんは顔を少しだけ傾けて、私を見た。
落ち着いたようにも見えるけど、依然として顔は赤い。
「触らないでなんて、言って……私、田井中さんだってわからなくて」
『さ、触らないでください』
私の中で、その言葉がフラッシュバックして響く。
確かに、すっごいショックだったけど。
でも、それは……。
「いいよ別に。澪ちゃんは、私だってわからなかったんだろ?」
確かにおかしーよな、私の前髪。
今まで誰にも見せてこなかったけど。
でも少しでも男っぽく見せるためには仕方がなかったし……普段の私とはかなり違うから、間違えられても仕方ないだろうなあ。
「でも、ごめんなさい」
「いいよいいよ。そんなに気にしてないよ」
私は首を振った。
「それより、これ……なんかごめん」
私は澪ちゃんの横においてある袋を指差した。
もし私がこの本を読みたいなんて言わなければ、澪ちゃんはここに来ることもなかったかもしれないし、男に絡まれることなんてなかったかもしれないのだ。
私が軽い気持ちでオススメの本を借りたいって言って、約束を破りたくないからここまで澪ちゃんは買いに来た。
詰まるところ澪ちゃんがこんな思いをしているのは、私の所為なんじゃないかと思ってしまうのだった。
「私がこの本、借りたいなんて言わなきゃよかったかもね」
「そ、そんなこと……」
「だってさー、澪ちゃんってこの本を買うためだけにここに来たんでしょ?」
「買い出しも兼ねて、なんですけど」
「そうなの?」
なんか気負いして損した。
でもまたまた共通点発見。
私もここには買い出しでやってきた。
「毎週ここで買い出しとかしてるの?」
「はい。土曜日に」
「え? 私もだ」
「そうなんですか?」
「うん。まあまだ二回目だけどね。先週の土曜日もここに来たよ」
「私も、です」
すごい。
なんで会わなかったんだろう。
「すごいね。なんで会わなかったんだろうね」
「そうですね……」
澪ちゃんが笑った。
笑ってくれた。
その笑顔は、今まで見てきたどんな笑顔よりも。
私の心を射抜いた。
私はその勢いのまま、少しだけ畏まって言った。
「あっ、その」
「?」
澪ちゃんは首を傾げた。
私はさっきの一瞬を思い出していた。
やむを得ずそう呼んだんだ。
「……澪」
「――」
「澪って呼んじゃ、駄目、かな?」
さっき私は、澪ちゃんの彼氏である必要があった。
澪ちゃんを呼び捨てして、自信満々で強気に出れば、男も引くと思ったし。
だから、彼氏であることを印象付けるために呼び捨てした。
でも、それを一瞬だけにしたくなかったんだ。
「嫌なら、別に――」
「はい」
「えっ?」
「……澪で、いいです」
最終更新:2012年06月01日 08:07