「あ、曽我部さんじゃないかあれ」


 その日の講義が終わって廊下を歩いていると、律が声を上げた。
 視線の先には、桜ケ丘高校時代に生徒会長をやっていた曽我部さんが確かにいた。
 相変わらずだと思うけど、私が高校時代に先輩を見た時より数段綺麗になっている印象だった。
 大学生ってこんなにも変わるものなのかな。私はまったく変わっていないなあ。
 すれ違い様に、二人は立ち止まった。



「あら、田井中さん」
「どーもっす」


 律は知り合いなのか。
 そう突っ込もうとするけど、人前だから言えなかった。



「澪は知ってるよな。生徒会長やってた曽我部さんだよ」
「……こんにちは」


 初対面の人との会話は本当に弱い私だ。
 律以外は大抵初対面になるのだけど、人見知りはほとんど直っていない。
 少しぐらいそういうの直せるかもと期待して律の口調を真似る特訓を二人で半年ほどしたけど、結局似たような口調になるだけで性格は直らなかった。


 しかもその口調を使えるのは律の前だけで、他の人には敬語で接してしまう。
 初対面の曽我部さん。私は委縮して緊張した。
 でも、一応挨拶だけはできたぞというわずかな達成感はあった。
 それだけで達成感なんて本当に弱い。



「こんにちは。えっと……?」


 曽我部さんは言いながら首を傾げた。
 私の名前がわからない、のだと思う。曽我部さんは律を見た。
 律は私を見て一瞬呆れると、私の肩に手を置いた。


「こっちは秋山澪です。私たちと同じ桜高だったんですよ」
「そうなの。じゃあ私の後輩ってわけね」
「……」



 喋りたいのに喋れない背徳感。
 それは律と出会った最初の頃からひしひしと感じていた。私は喋りたくないわけじゃないんだ。だけど喋りたくなんかないんだ。
 私が喋ったって、どうせおどおどして途切れ途切れで……相手に迷惑を掛けちゃうだけだから。

 だから極力あんまり話したくないといつも決めているのに。
 曽我部さんは私に何も言わずに、律に話しかけた。



「どう? もうすぐテストみたいだけど」
「え? は、はい。まあなんとかやれてますよ」


 律は取り繕うような笑いを見せた。
 嘘つけ。さっきまで私に困ったように懇願してきたくせに……。
 私は苛立ちを感じずにはいられなかった。


「おーい恵! サークル遅れるよ!」


 先を歩いていた曽我部さんの友達が、声を上げた。



「あ、ごめーん! それじゃあ二人とも。またね」
「お疲れ様ですー」



 律は駆けていく曽我部さんの後ろ姿にそう言った。
 私はなんだかそわそわして落ち着かなくなって、何も言わずに胸の前で手を握りしめていた。
 初対面とはつくづく相性は悪く、結局変われていない自分の情けなさを痛感するばかりだ。



「はあー、すげーな大学生って」
「……うん」
「大学入って二年であんなに変わるのかねー」
「律は、大学入る前の曽我部さんを知ってるのか?」



 知っているかのような口ぶりの律に、私は聞くしかなかった。
 律は両手を後頭部に回して、呑気に返す。


「私バスケ部の部長だって話はしたじゃん? だから会議とかで生徒会室とかに行く機会があったんだけど、その時に知り合いになったんだよ」
「あ、そう……」



 バスケ部の部長、か。
 その話は会った時からよくする。律は快活で元気な、運動神経のよい女の子だ。
 バスケをする姿はよく映えるだろう。部長になっても不思議じゃない。
 となると部長会議なんかに出てても普通だから、その関係で曽我部さんと知り合いになったんだな。


「私は全然変わってないよなあ、一年なのに」
「そうだな」
「澪は変わったけどな。口調なんて、四月と比べるとさ」


 律は無邪気に白い歯を見せる。
 もう曽我部さんの話題は終わったのに、なぜかモヤモヤは尾を引いた。
 心の中の私は、なんとか振り切って律の言葉についていく。



「口調だけしか変わってないけどな……」
「それでも、強そうに見えるよ」
「見えるだけで、中身は……」
「でも少なくとも、私に対しては前よりも自信持ってくれるじゃん」



 それは律に、心を許しているからだ。
 律は私を、どんどん崩していく。
 今まで頑なに誰かと一緒にいることを拒み続けて、逃げて逃げて逃げまくった私を簡単に捕まえて。
 優しい笑顔で、ずっと話しかけてきたのだ。


 それが私にとって最初は大変でも、いつからかそれだけが安らぎに変わっていて。
 律にだけ、私は……――。



「それより、帰ろうぜ」
「この後は何するんだ?」
「とりあえずセッションだけしない?」



 講義を終えてから、律の家で一時間ほど楽器をつつく。
 それで六時くらいになって、私はやっと家に帰るのだった。
 それが去年の十月ぐらいから続いていた。



「ああ」



 ただ今日は、ちょっとだけ乗り気になれなかった。
 律のことを好きな子が理学部にいて、その子が律を食事に誘ったこと。
 それがバレンタインの日だということ。
 私以外の人と、律が以前より知り合いだったこと。
 律には、私よりもたくさんの友達がいること。
 いろんなことが、引っかかりすぎている。




「行こっか」
「……うん」



 こんなこと、なかったのに。
 最近律を意識することが、顕著になってきた。
 それは。
 どういうことか、よくわからないけど。












 私はベースを買った。
 この十カ月、私はいつも律と一緒にいて、律といろんなものを共有して……好きなものまで一緒になって。
 結局楽器を始めることになったのだ。


 初めて律の家に遊びに行った時、律にザ・フーというバンドのDVDを見せてもらった。
 その時、ちょっとだけ興味を持った。
 それ以前から少しだけ音楽のことに興味を持っていたけど、結局何もしていなかった。
 だから、律が音楽が好きだと知って、私も何かやろうかなって思い出したように考えたんだ。


 こっそり律の音楽雑誌を読んで私も楽器をやろうと思った。
 でもギターはなんか目立つから嫌だった。だから悩んだ末にベースを購入したのだ。



 私もベースやろうかな、と言った時の律の喜びようと言ったら……。
 私の名前を何度も呼んで、抱きついてきた。
 あの時の律は、どこか変だった。
 喜んでくれるかと思ったけど、律は泣いたのだ。
 それがよくわからなかった。




 律の部屋で、セッションをした。
 あいにくバンドを組んでいない……というか元よりバンドを組むつもりはさらさらなかったので、二人だけでずっと演奏するのが普通だった。
 ベースとドラムはリズム隊という一つの括りなので、一応はセッションが可能だった。
 『ベースとドラムは一括り』というのは、なんとなく嬉しかった。
 律はというと、あまり盛大にドラムを弾けないのが悩みだった。



「隣に迷惑なんだよなあ……音がすごいから」
「ベースも同じだよ。まあただのアパートでセッションすること自体いろいろと間違いなんだけど……」

 律も私も、住んでいるアパートは防音で楽器は持ち込み大丈夫の物件だったが、しかし少しは音は漏れる。
 ベースもドラムも音はすごい。だから、思いっきり楽器を弾くことはできなかった。特にドラム。
 律はドラムセットのシンバルに触れた。私はベースを担いだまま立っていて、その律の様子を見ていた。




「はあ……やっぱり、軽音サークルに入ったほうがいいのかなあ」


 律が溜め息混じりにそう言った。
 一瞬喉が詰まった。


「サークル……」


 無意識にそう呟いていた。


「澪?」



 名前を呼ばれたけど、私は反応できなかった。
 サークルに入れば、思いっきり演奏はできるだろう。
 防音がされているとはいえアパートの一室でアンプに繋げてベースを鳴らすのも、勢いよくドラムを叩くのにも限界はある。
 他の住民の方に迷惑だし、何より目立つ。
 だから、サークルに入れば思う存分演奏はできる。
 それはいいことだろう。



 でも、私は釈然としなかった。
 サークルに入るなんて……。


 すでに出来上がっているサークルの輪。どのくらい人数がいるのかわからないけれど、でもすでに四月から十カ月だ。


 もうメンバーは仲良くなっているだろう。
 そんなすでに出来上がっている仲良しサークルに、今更入るなんてことは私にとって怖くてたまらなかった。


 ただでさえ人と話すの苦手なのに、サークルだなんて。
 しかもすでに出来上がった仲良しの中に入り込むなんて。



 頭の中でサークルに入った私を想像してみる。
 でもどうやったってオロオロして、どぎまぎして、律の傍にずっといて……話しかけられたって全然会話は繋がらなくて。
 それで皆に呆れられて、嫌な思いさせて、それで一人になっちゃうんだ。



 律も、私を放ってサークルの人と――。



 律?

 律は私と違って、明るくて、友達を簡単に作れて……。
 律がサークルの人たちと仲良くやっている姿が浮かんでくる。
 そして、私は、遠くからそれを眺めてて……。



 それが頭で再生されると、胸が一杯になった。


(……律に嫉妬してるのかな)



 私なんかと真逆で、太陽みたいに明るくて、皆を笑顔にする。
 だから、律のことを好きな子がいたって不思議じゃない。
 律が誰かと仲良くしたりする姿を想像したり、実際律が誰かと仲良さそうにしたり……私にはできないことを平気で律はやってのける。
 私はそんな律が、羨ましいと思っているのかもしれない。
 だから、こんなにも痛いんだ。




「澪、どうかしたのか?」



 律が私に声を掛けた。
 私の気持ちも知らないで、呑気に構えて。
 なんだよ……。



「なんでもないよ……今日は終わりにしよう」


 私はベースを下した。
 律は私を見て怪訝な顔をするけど、そうだなと返して立ち上がった。











 夜、律と電話した。
 結局律が誘われたバレンタインのお食事会の話題になった。
 私は布団に寝転んで、律の声に耳を傾ける。



「食事会、どうしようかな」
「なんでそれを私に言うんだ? 律が自分で決めればいいだろ」
「そうだけど、でも……澪なら、どうする?」



 考えてもみない質問だった。



 私が律なら、どうするのだろう。
 私のことを好きだと言ってくれる子がいて、その子が一緒に食事しませんかと誘ってくる。
 でも、どうなんだろう。私は律と一緒にいたいから、断ってしまうかもしれない。
 だけどその子の気持ちもありがたいと思ってしまうかも。


 いや、私は何を言ってるんだ。
 律と一緒にいたいからってのはおかしいだろ。今私は『私が律だったら』の例えを考えているんだ。
 私が律だったとしたらの話だ。それなのに律と一緒にいたいからってのはおかしい。
 律が二人いることになってしまう。


 だとすれば、逃げる理由がなくなる。
 だって私が律なら……。
 私が律なら、澪と一緒にいたいから断るなんて選択肢はないんじゃないか。


 だって律は、友達がたくさんいて。
 私みたいに、『律だけ』っていうのがないから。



 律は私を特別な奴だと思っていないんじゃないのか。
 それが怖くて仕方がない。


 随分前に、私のことを特別だと言ってくれた律。
 でも、それが今でも続いてるのか。
 そう考えると、律じゃない私は何も言えない。




「おい澪ー、寝るなよ」
「寝てないよ」
「じゃあ答えろって。澪ならどうするの?」



 私が今ここで何を言えば、律はその子の元へ行かないのだろう。
 食事会を断る選択に律を導くことができるんだ?


 ……馬鹿澪。
 そこは律が決めることだって自分で言っておいて。

 結局、律のことが好きだというその子の恋路を邪魔しようとしてる。
 行けばいいだろって、昼間は言ったくせに。
 そう言って、律がそうするって言わなくてよかった。
 私は私の発言が一番わけがわからない。



 律に断ってほしい。その子との食事を。
 そう言うのは、間違いなのかな。


 でも、そうしたいんだ。
 律に、そっちに行って欲しくないんだ。



「断る、かな」
「……そうか。じゃあ私は、どうしようかな」




 律は普通の、波のない普通の声で言った。
 私は自分の馬鹿さ加減に呆れる通り越して怒りが高まってきた。
 自分勝手すぎるよ私。

 私は居た堪れなくなって……本当はもうこれ以上この話はしたくなくて。
 何より律がこの話題のことを考えているという事実から目を背けたくて。



「そんなことより、課題やりなよ」
「そうだった! じゃあ、電話切るな。また明日」
「ああ……」





 私は携帯を枕に叩きつけた。


 ……もう、胸が痛くなるばっかりだ。
 私はどうにか時間が痛みを消してくれることを願って、さっさと寝た。



 私は、どうしたんだ。
 律と一緒にいたら、私は変になってるんだ。


 律が誰かと仲良くなること。
 律とすでに仲のいい誰かがいること。
 律のことを好きな誰かがいること。
 ……私は、そんな律に嫉妬しているかもしれないこと。



 ああもういいや、寝ちゃおう。
 そうすれば、また明日律に会えるんだから。
 こんな痛みとも、お別れできるはずなんだから。


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最終更新:2012年06月01日 08:25