「じゃ、じゃあそこでいいんじゃないか?」


 恥ずかしさと高揚を隠すために、私は適当な喫茶店を指差した。
 レストランなんかよりも安いだろうし、そもそも私はそんな高級なところなど興味なかったのだ。


 律と一緒ならどこでもいい。
 なら律の負担も私の負担もない、普通の喫茶店がやっぱり良かった。
 落ち着けるのが一番いい。
 まあ、律と一緒だとドキドキもするんだけど……。
 だけどやっぱり、律の傍にいれば、いつもどこでも安心できるから。



 その喫茶店内は、あんまり人がいなかった。
 私と律は窓際の方の席を選んで、向かい合って座る。
 注文を訊きに来たウェイトレスさんに、私は和風ランチ、律は天ぷら定食を頼んだ。
 朝からずっと演奏していたのでお腹がすいているのだろう。


 律は運ばれてきた水を何度も飲んでいる。二月の寒い時期なのに氷がたくさん入っていた。


「律、そういえば謝っておきたいことがあったんだ」
「何?」


 まだあの日……まだバレンタインデーからは五日しか経っていないけれど、私には一つだけ引っかかっていることがあった。
 それを謝りたかったのだけど、タイミングもなかったし、
 律と恋人として過ごすようになってからはそれを言うべきか少しばかり迷っていた。
 恥ずかしいことでもあったし。

 私は先週の出来事を思い出しながら、言った。



「先週さ……私、律を突き飛ばしちゃっただろ」
「ああ、あれ。あったなそんなの」
「あれ、本当ごめん……」


 あの後帰っちゃったから、ずっと申し訳ないことをしたと思っていた。


「なんだそんなことか。全然気にしてないよ」
「でも、やっぱり悪いことしたなあって」
「いいよいいよ。あの時の澪、なんか変だったけどな」



 確かに変だった。
 あの日の朝は、琴吹さんにやたらと律との関係や、恋愛だとかの話をされた。
 だからそういう視点で律のことを意識してしまい、胸がドキドキして、 律とまともに目を合わせたら卒倒してしまいそうなぐらい熱を帯びていた。
 実際律と目を合わせて、恥ずかしくって、よくわからない何かで胸が一杯になって。


 だから突き飛ばして、走ってしまったのだ。


「本当にごめんな」
「いいけどさ。でも、なんか怒らせちゃったかなあって心配だったんだぜ? 
 もしかしたら澪、私が『理学部の子』と食事会行くことにすごく嫉妬してて、私がオーケーしたから怒ったのかなあとか」
「まあそれは……嫉妬してたけど」


 あの時は、その食事会に対してモヤモヤする一方で、でもこのモヤモヤがなんなのかわからなかった。
 でも、あの日律を突き飛ばして家に帰った時、律への想いが恋愛感情だと悟って、それからそのモヤモヤの正体がわかったのだった。


 だから今なら今までのそういう気持ちがわかる。
 それが嫉妬で、それが愛で、それが好きだということも。


「で、なんであんなに変だったの?」


 さっき自分で回想したのだけど……。
 でも、真剣な眼差しに私は気圧され、正直に全部話した。


「実はあの日さ――……」


 それまで、律のことを考えると胸が一杯だったけどそれが何かわからなかったことや、琴吹さんと話したこと。
 恋愛感情だとわからない悩みとか。
 律の顔を見たらもう爆発しそうで、だから突き飛ばして逃げ帰ったことも。


 全て語った。
 律は、ストローでコップの氷をカラカラ鳴らしながら唸った。


「へえ、いろいろあったんだな……」
「うう……」
「澪ちゃんは恥ずかしくて私を突き飛ばしたのかー」
「か、からかうなよ。マジだったんだぞ」


 あの時の気持ちを思い出すだけで、もう顔から火が出そうだ。
 私も冷たい水を飲んだ。
 律は白い歯を見せるけれど、少しして首の後ろに片手を回した。


「でも、嬉しいよ。そ、そんな風に悩んでくれてて」
「ば、馬鹿律……結構、辛かったんだからな」
「私もだよ。澪に、食事会行ってくれば? って言われた時は結構ショックだったんだぞ?」



 私はドキッとした。
 それも謝らなきゃいけなかった。


「それも、ごめん。あれ、照れ隠し……面と向かって、行って欲しくないとは言えなかったんだ」



 あの時は、恥ずかしいという気持ちより『どうして律に行って欲しくないのだろう』という自問の方に頭が傾いていた気がする。
 結局それは、律への恋心に発端する気持ちだった。
 律は気にしてない装いで、首を振った。


「うんわかってる。澪はそういうこと、人前じゃあんまり言わないもんな」
「言えたらいいんだけどな。でも、やっぱり、恥ずかしいし」


 結局私は恥ずかしがり屋など直っていないのだなと思った。


「いいよ。ってか、澪が恥ずかしがり屋じゃなくなったら困るって」
「な、なんでだよ」
「だってからかえないし、澪じゃないもん」
「……っ」



 律は笑った。
 私はそれに、何も言い返せなかった。馬鹿と言えば、それでよかったのかもしれない。
 でも、私自身も、この恥ずかしがり屋を直そうとは少しも思わなかった。
 そうすることは、私と律の出会いのきっかけだったそれを失うことになると思ったからだ。



「……でも、恥ずかしがり屋で、人見知りで」
「?」


 私は知らず、囁いていた。


「私が、恥ずかしがり屋じゃなかったら……人見知りじゃなかったら。
 一人じゃなかったら……律は、私に話しかけてくれなかったんだよな」



 切実に、ただ淡々と。
 恥ずかしさも何も捨て去って、そう言った。
 ほとんど、独白だった。


 私の瞳は、ただ透明な水に浮かぶ氷の、真っ白でひび割れた部分だけを見つめていた。
 いや、見つめていたのではなく、『そこがただ視界に入っているだけ』だった。


 私は今、何も見ようとはしていない。
 見ようとしているのではなくて、目に入ってきているだけ。
 私の思考と意志は、まるで雪崩れ込むように湧きあがる言葉と、そしてただ言葉を発したいだけの口に集中していた。



「私がこんな性格じゃなかったら、律と出会えなかったんだ」



 出会えなかったかもしれないことを想像した。
 それを考えることは、私にとってどんな恐怖よりも果てしない絶望だった。
 もし、律に出会えなかったら。
 出会っていなかったとしたら、それがどんなに私を苦しめるのかはもう私自身がわかっていることだった。



「だから、私……この性格でよかったよ」
「澪……」



 だけど。
 ここで、律の顔を見るぐらい私は成長した。
 と伝えたくて、私は律の顔を見た。
 律は、確かに恥ずかしそうな顔はしていたけれど、でも、嬉しさで泣きそうな。
 よくわからない表情をしていた。
 でも、口元が少しだけ吊り上っていたので、やっぱりちょっと喜んでくれたのかなと思った。



「律に、会えてよかった」



 それを言いたかった。
 もう律には、言いたいことだらけなんだ。
 でも、その一言には全部詰まってた。



「私も、澪に会えてよかった」



 律も目を逸らさなかった。
 そのまま続ける律。



「出会えてよかったって気持ちは、これからもずっと同じだ」
「うん……私一生、律のこと好きでいるよ」



 律は私の、初めてをなんでも奪って。
 初恋も奪った。
 でも、これが『最初』じゃなくて、最初で最後なんだなって思った。
 私はずっと、律の事好きでい続ける。



「私もだよ。もうずっと、澪のこと好きでいるからな」



 それからおかしくなって、笑った。
 面と向かって好き好き言えるの、本当に進歩だ。
 だから私はいつまでだって律を好きでいる。
 無垢なままで。無邪気なままで。
















 もっと早く出会っていたかった。



 だから、もしパラレルワールドってものがあって。
 田井中律秋山澪が、もっと早く出会っている世界があるなら。
 十五歳でも十歳でも……とにかく早く出会ってる世界があるなら。


 一緒にいられる時間を大事にしてほしい。




 私と律は、以前そう思った。
 だけど、今の世界に後悔なんてない。
 私たちは偶然にして必然に出会ったのだった。
 私と律は、確かに出会うべくして出会っただけ。
 こうなるのは、きっと運命だったと思う。


 だからどんな世界であろうと、時期は違えど私たちは出会っていたんだ。
 小学生時代に、出会う世界もあれば。
 中学時代に出会う世界もあっただろう。
 高校時代に出会う世界も。


 そして、ここは、大学時代に出会う世界だっただけなんだって。



 律は前まで、もっと早く出会っていたかったと悲しんでた。
 でも今の律は、そんなのあまり考えていないようだった。
 むしろ一緒にいることを私たちは素直に喜びあえている。
 もっと早く出会っていたかったけれど、でも、こうして私たちは出会えてる。
 なら、すでに過ぎ去ったことに嘆いていても仕方ないだろう。



 『秋山澪』と『田井中律』が、仲良く青春時代を過ごす。
 軽音部を作ったり、学園祭でライブしたり。
 それは、別の世界の私と律の役目なんじゃないかな。


 だから私と律は――この世界の私と律は。
 そんな律と澪とは別の人生を楽しんでるんだ。
 もっと早く会えなかったことに嘆くより、会えたことに喜んでるんだ。



 会えてよかったって、心から思う。




 だから、別の世界の律と澪へ。







 仲良くやれよ。







 私たちも、仲良くやってるよ。

















(イノセント・おわり)



最終更新:2012年06月01日 08:51