私は携帯の画面を凝視した。無意味に三人のメールを交互に開く。
学校。行きたいわけじゃ、ない。でも、行きたくないわけじゃない。さっきお風呂でも考えた。
学校へ行くことは、それほど苦じゃない、はず。『はず』なのは、わかんないからだ。
行くことと行かないことの両方に、それぞれちゃんとした理由がある。
行ったら、少しぐらいはこの現実から目を背けられる。だけど行ったっていろいろ声を掛けられたりして、結局は現実に戻される。
皆にも迷惑がかかる。対して行かなければ、誰かに迷惑はかけない。
迷ってたけど、やっぱり行かない方がいろいろと都合がいいかもしれない。
お風呂では、学校に行った方が律のことを考えないで済むって思ったけど……逆だ。私は、律のことをずっと考えてたい。
さっき口に出して解った。恋人同士だもん。いろいろ私は律と一緒にいて、考えて、律のことをずっと愛しく思いながら、家で引き籠るんだ。
それに、二人で遊んでもいい。変装でもして街を歩いてもいい。いつもよりずっと律が愛おしい。
大好きって気持ちが溢れてる。
だからこそ触れないこと、怖いから。
だけどそれをいい機会に、律との二人の時間を作ってもいいかもしれなかった。
いや、それはただの取ってつけた理由付けだけど。
でも、私はどうでもよかった。
肝心なのは律なのだ。
「私は別にどっちでもいいんだ。律は……律はどうなんだよ」
「私? 何言ってんだよ澪ー、誰にも見えないんだから私こそどっちでもいいだろー。行っても行かなくても変わんないんだしさ」
「そうじゃなくて。律は、私に学校に行って欲しいの?」
「澪が行くなら行く! 行かないなら行かない!」
「じゃなくて、律はどうしてほしいんだよ。それを聞いて考えようかなって」
「いやだから、私の意見は澪の意見ってことで」
私たちは見つめあった。
このままじゃ埒が明かない。私の意見が律の意見で、律の意見が私の意見。
うーん、私は律が行って欲しくないって言ったら行かないし、行ってほしいと思ったのなら行くのに。
でも、それは律も同じことだとは思った。律は幽霊だから、選択権は自分にないと思ってる。
私と同じように、私が行きたいといったら行く、行かないといったら行かない。
結局私たちは、一緒にいることを選ぼうとしてるようだった。
やっぱりそうだよな。
私は悩んだ。
行った方が、そりゃ学生としてはいいだろう。元気なのに休むのはよくない。いや、元気じゃないけど私。
皆がいろいろ声を掛けてくるぐらい、多分私、皆から声かけなきゃ黙ってられないくらい酷い顔してるんだろうなって。
律があんなににあって不安で、それが顔や表情にも出てるから、皆あんなにも声を掛けてくるんだろう。
多分明日学校に行ったら、三人や和、あとクラスの皆からいろいろ言われるんだろうなって。
大丈夫とか。
「……」
嫌だな。そんなの。
心配でとか、私のために声を掛けてくれてるんだから、そりゃ少しは嬉しいよ。
でも、あまり快くはなかったかな、こんなこといったら、失礼かもしれないけど。
過度な言葉は、かえって私を追い詰める。
だから、今はあんまり、優しくて綺麗な言葉を聞きたくなかった。
そんな言葉を聞いて、私の心が晴れるわけない。
律が元通りになるわけない。
わかってるからこそ、余計に痛いよ。皆の言葉が。
私は、三人への返事を後回しにして、携帯を閉じた。
「行かないことにしよう」
私は告げた。
■
私と律はベッドに潜った。私が壁側、律が外側だ。
部屋の電気を消して真っ暗にしたけど、あんまり眠れなくて。
昨日も全然眠れなかった。
二日も連続で眠れないなんて寝不足だ私。でも、眠れないぐらい考えることが多かった。
昨日よりはまだ気持ちが楽だった。昨日は、律は隣にいなかったから。
でも今も、隣にいるけど隣にいない。
二人で並んでベッドに入るのに、特にじゃれあうこともなかった。
私はただ壁の方を向いて横に寝ていた。律の姿は、視界にはない。壁の白さだけが見えている。
もちろん律は制服姿だった。幽霊の律には、私たち人間の概念が通用しない。
結局お腹が空くことはなく晩御飯も食べなかったし、お風呂も入らなかった。
あと、服を脱ぐという行為は出来ない。律にできるのは、私と喋ること、持とうと思えば物に触れられること、物を通り抜けられること。
大したことはできなかった。だけど、今はこうしてパジャマの私と、制服の律が並んで一緒の布団に入っている。
幽霊は寝れるのか、わからない。でも、寝ようとしているのか、律はまったく喋らずにいた。
壁に目を向けている私には、今律がどんな顔をして、どんな恰好をしているのかわからなかった。
寝れない。
眠れない。
暗闇に目が慣れた。ぼんやりとした視界が、余計に眠りを妨げる。
時計の音が気になる。
カチカチカチカチって。
うるさい。ホラー映画で、こんな感じの見た。
ベッドの下から幽霊が這い上がってくるんだ。でも、怖くなかった。
だって、幽霊なら隣にいるじゃないか。でも、落ち着けないし心がそわそわする。だから眠れないんだ。
「……律、起きてる?」
「起きてるぞー」
律は呆けた声で返事をした。だけど、こっちは向いてくれなかった。
「幽霊って、眠るのか?」
「わかんない。でも、多分眠れると思う」
「そっか」
心なしか、律に元気がないように思った。
何を言ってるんだ私は。
元気がある方がおかしいんだよ。
律は幽霊なんだ。
体がないんだ。
私にしか見えないんだ。
私にだって触れられないんだ。それなのに、元気がある方がおかしいんだって。一番辛いのは律なんだって、ずっと考えてたじゃないか。
一番今、苦しいのは律なんだって。なのに、元気がないと思うなんて私は馬鹿だ。
律が元気がないのは当たり前なんだ。むしろ、寝る前まであんなにも律が笑ったり私をからかってくれたりしたことの方が変なんだよ。
私は途端恥ずかしくなって。律の気持ちを、まだ汲んであげれてないことが情けなくて。律とは反対の方向を向いた。だけどやっぱり眠れなかった。
「律は、今、何を考えてる?」
咄嗟にそんなことを言ってしまった。後悔した。
だけど、そんな質問が出たということは、心の中でその答えを聞いてみたいと思ってたってことだった。
だから、撤回も弁明をもせず、静かに答えを待った。ちょっとだけ律がもぞもぞする音が聞こえた。
私の視界には、壁しか映ってない。だけど、後ろに律がいるんだってわかる。本当に幽霊かどうか疑うぐらいだ。
「わかんない。もう、考えることが多すぎて」
「例えば?」
「早く元に戻りたいなーとかさ」
私は布団からはみ出た自分の指を見つめた。親指で人差し指のお腹を撫でる。私の質問は、律を傷つけてはいないのだろうか。
怖かった。だって、私自身が傷ついているから。
律の心に感情移入してしまうし、早く戻りたいんだって律が切実に考えてるんだってことも伝わってくる。
「澪は何考えてんの?」
明るい声で言われた。
私……。
私は何を考えてるんだろう。
気持ちの整理がつかない。よくわかんない。ずっとそうだ。もう心の中はぐちゃぐちゃで、本人の私が一番分かってないよ。
誰か教えてくれたら楽なのに。
だけど、もう苦しいのには間違いなかった。
不安だし怖いし、でも、律が傍にいて安心してる気もするし……。
それでもやっぱり、私の考えてることは。
「律のこと」
私の声は、思ったよりも穏やかだった。
止まらなかった。
「昨日からずっと。律が事故に遭ったって聞いた時からずっとずっと、律のことばっかり考えてるよ」
私は律と幼馴染でお互い好きあってる恋人同士だけれど、普段から四六時中律のことばかり考えてるわけじゃなかった。
晩御飯の時は忘れてるし、宿題してる時も律のことは考えてない。
メールする時や電話の時、あとお風呂とかベッドとかだったら律のことを考えてた。
だけどずっとずっと律に想いを馳せてるわけじゃなかったんだ。
でも、それが当たり前だったし、むしろ恋人同士でも一日中相手のことを考えてるわけじゃない。
安心してるからだ。
恋人の存在を、律の存在を、今は一緒にいないけど別の時間を過ごしてるって、ちゃんと存在してくれてるんだって私は知ってたから。
だけど今は違う。
事故に遭ったって連絡を受けてから、私はもう律のことだけだった。
律律律律ってさ。
はは……。
律のことばっかりなんだよ。頭にはもう律のことしか浮かばないよ。
まるで初めて律のこと好きだって気付いて、普段とはなんか違って頭がぽわぽわしてるみたいに。
初恋かもしれないって律のことずーっと考えてベッドで転がってた時みたいに。律のことばかり考えてる。
でもあの時よりも、もっと残酷で、冷たい頭の中だった。
「律のことしか、考えれないんだ」
「澪……」
布団がたわむ音がした。多分律は、上半身を起こして私の方を見ている。
だけど私は振り返らないで、ただ律の方を見ないで、ずっと壁の一点を見つめていた。
恥ずかしくなって唇を舐める。振り返ったらもっと駄目になるから。
「ありがとな澪。私も、澪のこと考えてるよ。ずっとずっと」
律は続けた。
「こういう時、澪に抱きつきたいのに、それも無理なこと、ホントに辛い」
私の喉を、すっと冷気が締めた。
今、私律に触れないんだ。
そんなの知ってる。
だから、抱き締めることもできないんだ。
律を愛おしく思っても、求めても触りたくても、温もりを感じたくても。
全部全部、できないんだ――……。
「おやすみ、澪」
「……おやすみ、律」
今度こそ、本当の沈黙が訪れた。
私は静かに暗闇を受け入れて、まどろみの中に落ちていった。
■
ごめん、やっぱり無理そう。だから学校は休むよ。
朝起きて、皆にそうメールした。ママにも学校は休むと伝えて、部屋に戻った。
朝の八時だった。普段なら学校に向かってる途中ぐらい。土日は学校に行っていないし、昨日も学校に行ってない。
もう何日も学校に行ってないんだ。まあ律がいないんだったら、学校なんて行ってもどうせ退屈そうだし。
部屋に戻ったら、律は窓際に立って外を見ていた。そこから見たって、特に景色が見えるわけじゃないのに。
それでも外を見つめる律の横顔は、朝の爽やかな陽光と相まって、とても大人っぽく色気を帯びていた。
笑ってるようにも見える。でも、そうだともいい切れない微妙な表情。
私は立ち尽くして、何も言えなかった。
律が私に気付くと、白い歯を見せた。
「おっ、ママさんなんだって?」
「うん。休むって言ったら、そうしなさいだって」
「そっか。うん、そうしなさい」
「そうするよ」
私は律の隣に行って、一緒に窓の外を見た。空は明るくて、どこまでも青が続いてる。
私の家は隣の家とかはなくて、少し広い所に一つだけあるみたいな感じだから空がよく見えた。
鳥は鳴いてたし、いつもと変わらない穏やかな世界だった。
でも、私たちは全然日常的じゃなかったし、私の心だって、天気の良さや空気の和やかさに感嘆できるほど踊ってもいなかった。
ただ律と並んで、窓際に手を付いて、外を眺めるだけ。
本当に、いつもと違う日常なのかと自問した。
でも、今はいつもと違うんだ。何回も、そう思ってしまう。
「どうする澪」
「んー……」
「学校行かないとなると、何にもすることないな」
「んー……」
「聞いてるか?」
「んー……」
私は聞こえていたけど、でも、どうにも返事をする気力がなかった。
元気もないしやる気もないし。なんだか頭がぼーっとする。
寝起きだから、じゃない。でも、まるで寝起きみたいに、ふとしたら特に大したところもないような場所を見つめてたりとかしていた。
疲れてるのかもしれない。だからさっきのような、間抜けな返事ばかりしてしまうのかもしれなかった。
「まさか一日中家?」
「駄目?」
「いや、駄目じゃないけど……何すんの?」
「うーん……読書、とか」
「こら。りっちゃんが読書で一日潰せるとお思いで?」
「なら、DVD見るとか」
「それなら一日潰せるかもな。澪んちにあったっけ?」
「最近は見ないからなあ。そこの本棚にないか?」
「うーん」
律は窓際から移動して、本棚まで行った。その姿を私は見つめる。
DVD見て一日潰す? それで私はいいんだろうか。
別にいいし、出来れば家に引きこもってたい。
でも、今はそんなの見ても楽しくなんかないだろうなって思った。読書ってさっき提案したけど、実はそんなのやりたくなかった。
気が滅入ってるから、活字をじっくり読んだらますます気疲れしてしまいそうだ。
そう思うと、私の家には一日中暇を潰せるようなものがまるでない。
まあ普通誰の家にもそんなのないかもしれないけど……漫画だってちょっとしかないし、だいたい休みの日は律と出かけたり一緒に雑誌読んでるだけで時間が潰せるから。
でも、今は雑誌読んだりじゃれあったりするだけじゃ時間は潰せないってこと、私は薄々分かってた。
いつもと違うんだ。私が雑誌読んでたら、律が膝に乗ってきたり後ろから抱きついてきたりする。
そこから私が怒って、そのままじゃれあって、律のこといじったり、そのままああいうことに発展してお互い触りあうけど。
でも、今はそういうのにならないんだよ。律は私に触れないし、私は律に触れないんだから。
律は本棚から適当なDVDを取り出して、近場にあったDVDプレーヤーを持ち出す。
部屋の中央の小さなテーブルの上に置いてセットし、起動した。
私は窓際にいてもあれだったから、ベッドまで移動して座る。
律の横顔が見える位置。でも、全然楽しそうじゃなかった。
「澪は見ないの?」
律がボタンをポチポチ押しながら私を見た。
別にいいや、と断った。見たくないわけじゃなかった。でも見たいわけでもない。
今見て、いつも一緒に律と見てる時のような興奮を呼び覚ますことができれば、それはいいことかもしれない。
でも、頑張って元気出してもどうしようもない気がした。
私は律の横顔が見えるようにベッドに横になった。
「えっ、寝るのか?」
「いや。律を見てる」
「なんじゃそりゃ」
最終更新:2012年06月01日 09:23