「ご、ごめん……律……ごめん」
「謝るなよっ……でも、わかってて欲しいんだ。私、澪のことずっと好きでいるから。私が怖いのは、澪に触れないことなんだよ」
「……私も、律に触れないの辛いよ」
「だから、笑わなきゃ、駄目なんだ。別に、澪のこと好きじゃないわけがないし、どうでもいいとか、まったく現実見てないわけじゃないんだ」


 言葉が、私を刺していく。
 痛くはあったけど、それは後悔の痛みだった。
 自分に対する情けなさから来る痛みだった。馬鹿澪馬鹿澪。
 あんなこというなんて馬鹿だ。
 律はこんなにも苦しんでたのに。



「……泣けよ」
「泣いてなんか、ない」
「泣いてるよ、律」
「……っ……でも、澪は私を、抱きしめられないんだろ……」




 ――澪の胸の中でしか、涙は流したくないのに。



 律は続けて、そう言った。


 でも、私は抱き締めることができなかった。
 こんなにも愛しい律が、泣いてる律が、苦しんでる律が、こんなにも近くにいるのに。
 泣いているから、私はそれを抱きしめてあげたいのに。


 それができない。
 できないんだ。それがどんなに辛いことか身に沁みた。心に沁みた。 」



 触れないって、もう最悪だ。
 律に触れたい。
 涙を受け入れてあげたいよ。


 抱きしめてあげて、泣く律を穏やかに受け入れたいのに。
 持っていた布団にしずくが垂れていたのに気付いた。


 私も、泣いた。
 律も、泣いた。
 でも、抱きしめられなかった。
 悲しかった。










 泣き疲れたので、私と律はベッドで天井を見つめたまま倒れていた。



「どうなっちゃうんだろ、私たち」



 私はぽつりとそう言った。



「元に戻るよ、絶対」



 律は細いけど、でもはっきりと言った。




「そんで、また澪といろんなことするよ」
「例えば?」
「たくさんチューする」
「うん」
「突っ込まないの?」
「いいよ。やりたいもん」
「ああ、やろうな」
「エッチなこともしていいよ」
「澪がそんなこと自分から言うなんて」
「いいだろ別に。したいものはしたいんだ」
「そーだな。このままいくと、随分ご無沙汰になっちゃいそうだもんな」
「あと、いっぱい抱き締めて欲しい」
「うん」
「あと、髪、撫でて欲しいよ」
「言われなくてもやる」
「もう、やりたいこといっぱいだな」
「触れなくなっただけで、やれないことたくさんあるんだなー」
「うん」
「それだけ普段、触れ合ってるってことだよな」
「……うん」
「ごめんなー澪」
「別に、お互い悪くなんかないよ」
「そーだけど……」
「だから、早く戻りなよ。待ってるからさ」










 次の日は、ちょっとだけ恐れながら学校へ行くことにした。









 次の日。
 学校に行くと、梓が後ろから話しかけてきた。


「澪先輩!」


 梓は私に追いつくと、私に並んで、嬉しいような、だけど穏やかな言葉を繋いだ。


「もう大丈夫なんですか?」
「大丈夫って?」
「だって律先輩があんなだから、澪先輩、もう学校にも来れないぐらいにいろいろと大変なんじゃないかと思ってたんです」


 まあ実際すっごく大変だし、結構無理して学校に来てる節があるからなあ。
 結局律と話し合った結果、とりあえず学校には行ってみようということになったけど。
 こうして登校してると、やっぱり日常を取り戻した気分にはなる。 隣には律がいるから、一見ただの日常だ。


 でも、私の隣にいる律の存在を、誰も気づいてはいない。

 梓も気付いてない。
 それはまた、私に気持ちの上でダメージを与えた。

 肝心の律は、私の少し後ろで空を仰いでいた。きっと、私と梓の会話に入って私を動揺させまいとしているのだろう。
 律の声は私にしか聞こえないけど、梓には聞こえない。だからこそ、聞こえない梓は私の行動に違和感を覚えるはずなのだから。



「まあ大変だけど、でもあまり休みすぎてもあれだから」
「そうですか。でも無理はしないでくださいよ」


 昨日は部活をいつも通りしたようだけど、ちょっとだけ練習をしただけであまりやらなかったそうだ。
 もちろん三人は「ふたりのために練習しておこう」という気持ちにはなったようだ。
 だけど、ベースとドラム――私と律がいないと、演奏にまったく締まりがないらしい。


「やっぱり、律先輩と澪先輩の二人が揃ってないと、軽音部はちょっと不安定ですね」
「そっか。ごめんな」
「いえ、大丈夫です。それに唯先輩、こういうときだけやる気が出るんですから困ったものですよね」


 校門に向かって歩きながら、梓が呆れたように言った。それでも面倒を見たのだから、やっぱり梓も思うところがあるんだろう。


「まあ、唯も何か頑張ろうって思ったんだよ」
「そうですよね。多分澪先輩たちのことを考えると、何かしなきゃって気になったんだと思います。私もムギ先輩もそうですし」
「えっ?」
「あ、いえ、なんでもないです。それじゃ、私はお先に失礼します!」


 梓は逃げるように、ひゅーっと生徒玄関の方へ先に走って行ってしまった。私は立ち止まってその後ろ姿を見つめていた。
 しばらくして、律が追いついて私に並んだ。どうやら話だけは聞いていたようで、梓が逃げたのを見て、なんなんだと声を漏らした。








「とにかく、やっぱり一日経っても、私は澪にしか見えないんだな」


 一時限目が始まるまでの時間、トイレで律がそんなことを言った。


「まあ、澪だけで十分なんだけど」


 私は昨日から悩んでた。
 律の姿を目視できるのは、私だけだった。それは、嬉しいことなんだろうかって。

 私は律を一人占めしたかったし、たまに律が私以外の誰かと仲良くしてるのを見ると胸が痛かった。
 酷い時は、世界が二人っきりになっちゃえばいいのにって思ったこともあった。
 今はそんな風に思わないし、恋人同士なんだから落ち着けてるけど。

 でも、私の独占欲と嫉妬は、ちょっとあんまりだと自分でも思う。
 今、世界には私と律しかいない。
 律は今、一人ぼっちだった。だって、その姿を認めてくれる人が私以外に一人もいないんだから。


 言うなれば、二人ぼっちだ。
 私はいつも通り人間で、律とは別の誰かと話せるし姿を認めてもらえる。

 でも、私にとって世界は律を中心に回ってる。
 その律が一人なら、私も悲しむしかなくて。やっぱりそれは、一人ぼっちに値するのだった。



「本当に、私だけが見えてれば十分なのか」


 私は手を洗いながら問うた。トイレには私たち以外誰もいない。
 だけど遠慮なく話せるかと言ったらそうでもなくて、誰かがいきなり入ってくるんじゃないかとビクビクしていた。



「澪がいれば何もいらないってわけじゃないけどさ」


 律のこと独占したいとは思ってたけど、いざそうなると、やっぱり皆に律の姿を見て欲しい気もした。
 私の恋人はこんなに可愛くてすごいんだって、皆に知ってほしいんだ。 


 それに……やっぱり律がこのままなんて、寂しすぎるよ。

 この世界は、『私たちだけ二人きり』じゃなくて、いろんな人たちの中の『二人』なのに。
 律も私も、いろんな人たちの中のつながりを生きているのに。
 律にも、家族や友達、知っている人だってたくさんいるのに。


 嫉妬とか、独占欲とか、そんなのは本当にちっぽけなことだ。
 そういうのは、律がたくさんのつながりを生きているから言えることで。
 律が今、私にしか見えないって現実は、やっぱり悲しすぎる。



「ま、しばらくすれば元に戻るんだ。そういうの、ちょっと我慢しようぜ、お互いに」
「うん……」


 しばらくの我慢か。
 律はまだ笑ってる。でもこれは、昨日の涙を受け止めたうえでの笑顔だと私にはわかってた。
 それよりも、幽霊の律と一緒にいて、いつも通りの生活を私が遅れるのか気になる。

 元に戻るまでの間、私は『皆には見えない律』と共同生活だ。
 もしかしたら、とんでもない失敗をしでかす可能性もある。皆の前で律に話しかけちゃう可能性もなくはないのだ。
 トイレから出て、私は律に言った。少し騒がしいので、ひとり言だとは思われないはず。


「律、皆の前では極力話しかけないでくれよな」
「なんで? あ、そっか」
「そうだよ」


 話しかけられたら反応したくなる。反応したら皆に変な目で見られる。このまま負のスパイラルにでも突入したら、ちょっと困る。
 こんな時まで他人の視線を気にしてる自分が情けない。
 律のことだけ考えてればいいのに、やっぱり他人から変な目で見られるのが怖いんだ私。


「わかってるよ。あ、でも話しかけちゃうかも」
「はあ……まあできれば誰もいないところでな」
「はーいはいっと」


 私たちは教室に向かった。




 誰もいなかった。



「あ」
「どした澪」
「一限、体育」



 始業まで、あと五分を切っていた。












「結局サボリか」
「仕方ないだろ。今から行っても間に合わないしさ」


 私と律は、屋上で町を見下ろしていた。突然先生が入ってくることもあるかもしれないけれど、でも、なんとか言い訳すれば逃れられると思った。
 それに、無理に授業に間に合おうという気にもならなかった。今はあんまり体育みたいな運動をしたいわけじゃなかったから好都合だ。
 こうやって、二人でのんびりしてる方がちょうどいい。正直、二時限目からも出たいという気持ちはそれほどなかった。


「澪」
「何?」


 私たちは屋上のフェンスに腕を乗せて、風を受けてる。
 青を見つめてる。
 律が今どんな顔をしてるか、私には見えなかった。見たらまた、なんか泣いちゃいそうな気がしたから。


「しりとり、しよっか」
「なんだ突然。いいけど」
「じゃ、私からな」
「うん」
「きりん」


 私は律を見た。律は笑ってるような、ちょっとやっちゃったなとでも言いたげな焦りの表情を見せていた。

 しりとりしようって言って、すぐ終わらせるか普通。
 そう突っ込もうと思ったけど、なんだか馬鹿らしくなって、私は吹いてしまった。



「ぷっ……あはは、ははっ!」
「おっ」
「……なっなんでしりとり吹っ掛けてすぐ終わらせるんだよ、くくく……」


 笑う気分じゃなかったはずなのに、でも、笑ってしまった。
 律もそれにつられて笑った。

 もう笑っちゃえと思った。


 そのまま流れに身を任せて、ずっと笑ってた。
 なんかもう、この頃全然笑ってない気がしたから、とにかく笑った。


 涙も出た。
 でも、悲しい涙じゃなかった。楽しくて、笑ってばっかりだから出た涙だった。


「あーおかし。ふふっ……なんできりんなんだよ、はは」
「澪笑いすぎだろ」
「だって、律が」


 多分、笑わせてくれたんだろうなって思った。

 律はいっつもそうだった。
 私が緊張してたら、笑わせてほぐしてくれるし、泣いてたら笑わせてくれる。
 今度もそうだった。泣いてなんかいないけど、私の心は少し突き詰まってた。

 律はいっつもそうなんだ。私の心を柔らかくしてくれる。
 多分、さっきのもそうなんだって。
 笑いが落ち着いて、私は言った。




「……ありがとな、律」
「えっ?」
「幽霊でもさ、律が傍にいてくれるだけで、随分助かるよ」



 悲しいことばっかりだけど、触れないけど。
 幽霊の律が、私の傍にいてくれるだけで、私はまだ救われてる。
 少しだけ笑顔を取り戻せてる。

 いろんなことがあって、悲しかったり辛かったりしても、幽霊の律はちゃんと傍にいてくれるんだ。


 もちろんその、悲しいことっていうのは、律が事故に遭ったり目が覚めなかったり、幽霊になったことではあるけど。

 矛盾してるけど。
 私は律が幽霊になったことに悲しんでて、律が幽霊になっても傍にいてくれることに少しだけ安心しているんだ。


「あ、えーっと、ま、私が澪の傍にいるのは、と、当然というか」
「照れるなよこんな時に」
「う、うるせ」



 律はフェンスに手を乗せて、顔を赤くしながらそっぽを向いた。可愛いと思った。


 抱き締めたい。


 律が幽霊になって、何度目なんだろう。
 失ってから初めて気付くこともある。
 そんな歌とか台詞、聞き飽きたはずなのに。
 私も知ってしまった。


 いや、違う。
 失うことを受け入れたら駄目なんだ。
 私が律を今、こんなにも愛おしいと思うのは……。
 やっぱり、失ったからなのかもしれないけど。
 『触る』ことを、失ったから愛しくなったわけじゃない。

 いつだって愛しかった。
 そのはずなのに。
 今は無性にも、心が疼く。
 一つ言えることは。
 もし律が幽霊にならなければ、こんなにも愛しくはならなかったかって言われたら、絶対そうじゃないんだ。


 確かに『触る』ということができなくなったから、いろんなことをやりたいと思うようになった。
 抱くとかキスとかいろいろ。そういうのやりたいと思う。

 でも、それは別に律が幽霊になったからやりたいと思うようになったわけじゃない。
 いつだって私は律とそういうことを望んでいたし、結局のところ、幽霊だろうとなかろうと、私は律を好きなのには変わりはなかったんだ。



 でも。



「やっぱり、悔しいよ」
「澪?」


 風が私の髪をさらった。右手で押さえる。
 こういうこと全部仕組んだの。神様なんだろうか。



 だったら、神様は意地悪だ。
 私、こんなの要らなかった。




「律に触れないの、ホントに悔しいよ」




「澪……」



 私は腕を組んでフェンスに乗せると、そこに顔を埋めた。もしかしたら泣いたかもしれない。
 その泣き顔を、今は見られたくはなかった。


 律にだけは見せていい泣き顔だけど。でも、ついさっき笑わせてもらっておいて、すぐ泣くなんて。そう思ったのだ。

 律は何も言わなかった。私は顔を腕に埋めてたから、視界は真っ暗だったけど。でも、律も心なしか、静かに泣いてるのかなって思った。
 私たち、どうも感傷的だ。


 ちょっとのことで、簡単に泣いてしまう。
 大人になったら、成長したら、泣かないなんて嘘だ。



 神様の意地悪。


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最終更新:2012年06月01日 09:29