私は言いようのないモヤモヤに包まれながら、メールを打ち始めた。
 場所は自分の家の廊下。私は廊下の壁に背中を預けて座っていた。
 私の部屋には律がいるけれど、顔を合わせたら泣いてしまうし、律も一人がいいみたいだった。


 律の声が失われた。





 それは、私にとって大打撃だった。
 私は、幽霊の律に触れなくても、会話するだけで救われてたし、会話することで律の存在を朧げでも、そこに感じていた。




 だけど、律の声が聞こえなくなってしまった。そして私の声は律に聞こえなくなった。


 律は喋ってるつもりでも、その声は一切私には届かなくなってしまった。



 考えたくない。
 考えたくないけど、でも、考えなきゃいけない。

 律と会話するためには、メールや筆談をするしかない。
 律は喋れないけど、まだ物には触ることができたから。

 だから、私は廊下に出て、真っ暗闇の中電気も点けず、携帯の画面の明るさだけを見つめて律とメールでやりとりをする。
 律はベッドの上にいるかもしれないし、床にあぐらをかいてるかもしれない。
 でも、やっぱり、声が届かなくなって一番辛いのも律だとは思った。




『なんで聞こえなくなったんだろう』



 私が、傷つけてしまうのを覚悟で送った。



『わからない』



 簡単すぎる返事だった。当たり前だ。



『私以外の声は聞こえるのか』
『聞こえる。ママさんの声は聞こえた。聞こえないのは澪だけ』






 なんで。

 なんで、私だけなんだよ。



 私は悲しいを通り越して、憎たらしさまで覚えるようになった。
 何がしたいんだかわからない。何のために、こんなことするんだよ。意味がわからない。
 なんで、私だけ。いっつも私だけだ。



 律のこと大好きなのに。
 どんどん距離が離れてく。



 幽霊だから? 
 私は生身の人間で、律は幽霊だからなの?


 お互いの声が聞こえないって、幽霊と人間だから起こっちゃうことなの? 
 でも、律には私以外の人の声が聞こえるって。


 なんだよそれ。






 私は三角座りして、奥歯を噛み締めた。



『メールでしか話せないのかな』
『それしかない』
『これからどうしよう』
『わからない』



 律は明らかに元気はなかった。答えが簡単すぎる。
 きっと、変換予測で、『わから』まで打って表示された『わからない』っていうのを選んでるだけだ。




 律の声は聞こえない。
 だから、音がない。私は廊下にいて、すぐそこに私の部屋はあるけど、誰もいないように静まり返っている。
 律が泣いてても叫んでても、私にはそれがわからないんだ。


 律を証明する手立てが、少しずつ減っている。
 それが、どういうことか、わかりたくなんかない。
 私は律を、ずっと感じてたいだけなのに。





『ごめん澪』
『謝るな。律は何にも悪くないって、言ってるだろ』
『でもごめん』



 律の悲しい顔が容易く想像できてしまって、私は目が熱くなった。
 そして、自分の情けなさが恥ずかしかった。


 律は何にも悪くない。
 そう言ったら、律が元気を出すとでも思ってるのか私。
 答えは違う。

 そんなのじゃ、そんな言葉じゃ律を元気にさせることなんて無理だ。
 私は、無力なんだ。
 全部全部。


 幽霊の律の、声も聞けないし触れもしない。
 できるのは、姿を見ることとメールで会話するだけ。
 それだけじゃ、何にも満たされないしほとんど干渉に値しなかった。


 こんなの嫌だ。
 私は、私はそんなの。律が謝ったり、悲しんだりするの嫌なのに。



『私もごめん』
『澪は悪くないだろ』
『私が悪くないなら律も悪くない』
『幽霊になったのは私だから、私が悪い』



 律はいつもそうだ。自分ばっかり責めて責任を取ろうとする。
 普段は元気いっぱいで溌剌としてて快活で、何事も大雑把なのに。
 でも私は知ってる。本当は几帳面で繊細で、変なところで力が入ってなんでも背負いこもうとする奴なんだって。
 でも、今回だけは本当に違うんだよ。




『律は幽霊になりたくなったわけじゃないし、声を失くしたくて失くしたわけじゃない』
『でも結果失くして悲しんでるの、澪だし』
『私だけじゃなくて、私たちどっちも悲しんでるよ』




 律の気持ちは痛いほどわかるけど、断言はしかねてた。


 でも、やっぱり二人とも悲しいよ。
 声を失くしたことだけじゃなくて、幽霊になったことや触れないことも。
 いつまでも元に戻らないのも悲しいよ。

 全部全部、悲しくて切なくて、寂しくて……胸が痛い。



『ごめん。一人にして。おやすみ』




 律がそう返してきた。
 私は息を吐いて、三角座りの膝の上に腕を組んで、そこに顔を埋めた。


 もう、こんなの嫌なのに。
 嫌なのに。
 なんで。
 私は胸の痛みを抱えたまま、静かにまどろみへ沈んでいった。









 廊下で眠ってしまっていたらしい。
 私は起き上がって、ゆっくり部屋の中に入った。


 律は一昨日の朝のように、窓際に立って外を見ていた。


 まだ随分早い時間で、お泊まり会をしたりした時は、こんなに律は早く起きることなんてないような時間。
 まあお泊まり会は、二人とも遊んだり興奮したりああいうことしたり、結局眠れなかったりするけど……でも、ちゃんと寝たら、律はあんまり起きないから。
 だけど、こんなに早起きだってことは。



 寝てないのか、それとも簡単に起きてしまったのか、どっちかだった。
 きっと、前者だろうな……。



 窓からは、気持ちのいいほど綺麗な光が差し込んでいて、やっぱり鳥だって高らかに鳴いていて、向こうには空が見えた。
 私は律の後姿を見つめて、何をすればいいのか、迷った。
 だって、声を掛けたって律には聞こえないのだ。



 どうやら、音は聞こえるようだから、私が入ってきた音には反応して、振り向いたけど。

 声だけ。声だけがお互いに届かない。
 律は悟ったように、静かに笑った。
 泣き腫らしたような、跡もあった。



 律はやっぱりミュートの動画のように口をパクパクさせて笑い、私の顔を指差して笑う。
 私は自分の顔を触った。



 何もない。
 鏡を見ると、やっぱり律と同じように泣き腫らした跡があった。
 きっとたくさん泣いたんだろうな、私も律も……。




 私は呆れて笑った。
 私、律のこと好きすぎだろ。
 あと、律も。
 私のこと好きすぎだ。


 私たちは言葉が通じなかったけど、身ぶり手ぶりのジェスチャーで十分に会話だって出来たし、やっぱり幼馴染だから、簡単にお互いの思ってることがわかるようだった。


 笑ってるだけでも、まだマシなんだから。
 笑ってるのに、やっぱり何処か陰りのある私たち。


 楽しくなんかないよ。まだ一緒にいれるけど、声が聞こえないなんて。
 私は身支度をして、制服に着替えた。律は学校に行かないことにした。


 律は今、筆談かメールでしか私と話せない。
 学校に行って律と会話するなら、メールか筆談しかないのだ。


 でも、律は物を持つと、それは他人には勝手に動いてるように見えてしまう。
 律が普通に携帯を構ってたら、携帯電話が浮いて見えるんだ。そんなのおかしいし、律の姿が見える分私は落ち着けない。


 それに。
 それに、今は距離をいた方がいいのかもしれないって思ったから。
 一緒にいた方が嬉しいとか安心できるって言ってたけど、でも、考える時間が欲しいのかもしれない。
 律は家で、ずっとベッドに潜っときたいと言った。
 私は……一人で学校か。
 通じないけど、行ってきますって律に伝えて家を出た。











『メールたくさんするから、覚悟しとけよな』


 一人で学校へ向かってたら、律がそんなメールを寄こした。


 私は泣きそうになった。



『うん、楽しみにしてる』




 それだけ返して、私は足早に学校へ向かった。
 やっぱり、律がいないと駄目だな私。










「今日はまた一段と顔色が悪いですね」


 梓がわざわざ三年の教室までやってきてそう言った。私はといえば学校に着くなり机に突っ伏していた。
 そこに唯とムギ、和がやってきて、さらには梓までやってきて私を取り囲んでいたというわけだった。
 そして、梓が開口一番にそう言ったのだ。私は顔を上げて皆に応対する。



「うん。昨日より悪いよ澪ちゃん」
「そんなに?」



 自分では気付かないものだろうか。



「無理しないでね。りっちゃんといない澪ちゃん、澪ちゃんのいないりっちゃんなんて、必要十分条件のなりたってない、カレーのないカレーライスみたいなものよ!」
「ムギ先輩、意味不明です」
「ま、確かに澪は普通じゃないわ。なんというか、疲れてるっていうよりも何か抱えてるみみたい。律のこと以外で、何かあったの?」



 和が私を見つめた。
 鋭い。
 確かに私は、別に律がいないだけに悩んでるわけじゃない。
 いろんなことが折り重なって、疲れてるし落ち込んでるんだ。
 特に今は。いや、ずっと。そういうのが全部、顔や体に出ちゃったんだろうか。



「大丈夫だよ。うん。皆が心配するほどでもないって」




 私は笑った。



 だけど、四人は私を、まだ深刻な顔で見下ろしてた。


「……もっと私たちを頼ってもいいからね澪ちゃん」


 唯。


「そうですよ。あんまり一人で抱え込まないでくださいね」


 梓。


「りっちゃんがいないと澪ちゃんが駄目なの知ってるから。なんでも言ってね」


 ムギ。


「やっぱり落ち込み方が半端じゃないものね。私たちのこと、もっと信用していいのよ」


 和。




 皆の言葉が、昨日はちょっとだけ煩わしかったのに。
 今は胸に響いた。
 私、律のことばっかりだったけど、でも私と律だけの世界じゃないんだ。
 私はちゃんと、皆に囲まれて、繋がりの中に確かにいたんだ。


 私と律の二人だけの世界を生きてたんじゃない。
 私は、皆に心配されてるし、皆を不安に思わせてしまってる。


 だから私は、一人じゃない。友達がいる。



「ありがとう……」



 取り繕った言葉じゃなくて、素直にそう言った。ちょっとだけ安心できた。
 皆の表情も、ちょっとだけ穏やかになった。


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最終更新:2012年06月01日 09:32