「律……?」





 嘘だ。





「律っ!」





 嘘だろ。



 部屋には誰もいなかった。
 静かで痛々しい沈黙を貫いていて、私の荒々しい動悸の声が漏れてるだけ。



 なんで。
 なんで律がいないんだよ。



 私はベッドの上を見た。
 携帯電話だけが、ポツリと置いてあった。
 なんで。




 私はゆっくりベッドに近付いて、携帯を手に取った。




『早く帰ってこいよ。待ってるかr』





 打ちこんでる途中。


 どういうこと?
 何かあったの?
 打ちこんでる途中に、『打ちこめなくなる』状況になった?








「……嘘」




 嘘、だよね。
 そんなの、私、認めない。



 嘘でしょ、律。
 ねえ。
 返事しろよ。







 決壊した。
 泣くの、別に堪えてたわけじゃないのに。
 私は膝をついて、声を張り上げた。


 律――。





 嫌だ、嫌だよ。






 おいてかないで。消えないで。



 私、律の隣にいたいんだよ。一緒にいたいんだよ。
 だから、行かないで!




「りつ……りつっ……ひっく、っ……りつぅ……」




 名前を呼んだ。





 律。



 帰ってきてよ。



 律がいなきゃ、私、駄目なんだ。
 別に、失ったから気付いたわけじゃなくて。
 律がいなきゃ駄目だから、幽霊になっちゃって悲しんだし、泣いたんだよ。




 律がいなきゃ、駄目なんだ。
 律じゃなきゃ嫌なんだ。

 律が、いなきゃ。



 だから、いなくならないで。



 戻ってきてよ!



 後は何にも要らないから。
 もうそれ以外、何にも望まない。
 知りたいこともないから。




 律が傍にいれば。
 隣にいてくれれば。
 笑ってくれれば。
 話せれば。


 それで、十分だったのに。



 私はそんなささやかな日々が、本当に大好きだったのに。
 なんで、なんでこんなの――。




「律――」




 呼びかけは虚しく響いて、誰も返事はしなかった。
 私は、泣いた。恥なんて知らなかった。
 叫んで、もうわけがわからなくなるぐらい泣いた。











 その時、階段を誰かが駆け足で上がってくる音が聞こえた。







 えっ?






 恥ずかしながら、私は律のなんでもを知ってる。
 手を見ただけで律だってわかるし、当然お互いそうだった。


 もちろん、足音も。
 それが例え、走ってたとしても。
 律の駆け足はわかる。
 例え、階段を上がる音でも――。




 まさか。





「律っ!」




「澪っ!」




 ドアを突き破って入ってきたのは。




 緑の患者服を着た、律だった。





「り、律――うわっ」




 私が立ちあがって何かを言おうとする前に、律は思いっきり私に抱きついてきた。
 その勢いで、私たちは倒れて。私は尻餅をつきながら律の抱擁を受け止めた。
 律はその両腕を私の肩の上から首の後ろまで回して、きつくきつく抱きしめた。



 私は、いろんなことが一気に頭に入ってきて、何も言えなかった。



「あっ……」







 私は気付いて、声を漏らした。










 ――触れてる。




 声も、聞こえてる。





「り、律……触れるの?」
「澪……澪……」



 私が呆気にとられてるのに、律は私の鎖骨の辺りに顔を埋めて、私の名前を呟き続けた。
 律は泣いていた。私は驚きすぎて、もう何にもよく掴めなかった。




「澪…………っ……う、ひっく……みおぉ……」



 律は喘いで、咳と嗚咽を漏らしながら、名前を呼び続ける。
 律の泣き声は、悲痛だったけど、でも安堵に満ち溢れていた気がした。
 ただの、悲しみじゃなくて。
 いろんな感情が混じった、律の本気の泣き声だった。





「り、律…………」
「……怖かった、澪……みお……っ……」
「――……馬鹿」





 震えてた私の指先が、ゆっくり律の背中に回る。
 律の背中を掴めた。
 撫でることができた。
 ほんのりと暖かい。


 私は、律の言葉に、声を震わせた。視界が滲む。




 触れる、声も聞こえる……!
 そのことが、私の琴線をゆっくり撫でた。





「ばか、ばか馬鹿律……私だって、怖かったんだからなっ……」





 ずっと、怖かった。
 私は、律との距離が離れていくのが。
 消えちゃうのかなって思うのが。

 いつだって怖かった。
 誰にも見えないことも律に触れられないのも。


 言葉が届かないのも。
 手を伸ばしても掴めないのも。


 怖かった。嫌だった、悲しかった。辛かった。
 だから余計に愛しくて、胸が苦しくて。



 だけど今。
 律の声、聞こえる。
 律を、この手で抱きしめられてる。




「律……っ」




 律が、帰ってきた。



 そう思うと、私も律の肩に目を押し当てて泣いた。
 もうこの数日で、涙をどれだけ流したんだろう。
 わかんない。


 でも、どうでもいいや。



 律が戻ってきた。
 触れる。
 抱き締められる。
 名前を呼んでくれる。




「澪……」
「律……」




 ずっとずっと、長い間、名前を呼び合って抱きしめあった。
 二人とも、ここにいて、お互いのこと、確認し合うように。












 それから少しして、携帯に電話があった。
 おばさんだった。
 内容は、律が病院で目覚めた途端病院を抜け出したこと、そして多分秋山さん――つまり私の家に来ると思うから来たら連絡してくださいとのことだった。
 律は、目が覚めた後の検査もせずに駆け出してきたらしかった。

 律らしいと言えば律らしいのかな。それだけ、私のところに早く帰ってきたかったのだろうか。
 そんな律は、まだ私のお腹に顔を押し当ててメソメソしていた。
 私はおばさんにわかりましたと伝えて、電話を切った。


「律、おばさんが、もし律に会ったら連絡してくれってさ」
「しないで、いいよ」
「なんで?」
「だって、病院に連れ戻されちゃうだろ。嫌だ。まだ澪とくっついてたい」
「……ふふ」



 私は律の頭を撫でた。私だって、今、律に思いっきり甘えて、ずっとずっと律と触れ合っていたいって気持ちだった。
 だからおばさんごめんなさい。もうちょっとだけ、一緒にいたい。


 この温もりも声も、すっごく久しぶりな気がするから。
 連絡遅くなるといろいろ迷惑だから、あと十五分……いや、二十分。
 いや、ずっとずっとそうしてたいよ。
 律のこと抱き締めていたいよ。
 こういうの久しぶりだから。失ってたものだから。



「……澪」
「……本当、おかえり律」
「ただいま澪……ごめん。いろいろとさ」


 律は顔を上げ、目を細めた。見つめあう。
 この眼差しも。全然悲しそうじゃない、律のいつもの瞳で見つめられるのも、本当に久しぶりだった。
 もう何もかもが久しぶり。
 触られるのも触るのも、その声で名前を呼ばれるのも……本当に、私が取り戻したかったものなんだ。


「いいよ、謝らなくて。こうしてまた、元に戻れたんだから」
「うん……そうだな。本当によかった……」
「……触れる、律」
「うん、触れるよ澪」
「……よかった。すっごく心配したんだからな……」







「そろそろ、病院戻ろうか」
「嫌だ」
「……でも、このままじゃおばさんたちに心配かけたままだろ? 律は無断でここに来たんだから……」
「でも、澪といたい」
「そりゃ……私もいたいよ」



 私は律の甘い声に応えるように、さっき律がしてくれたみたいに思いっきり律を抱きしめた。
 律の匂い、とか息使いも、全部懐かしく思えて。


「……澪が一緒ならいいよ」
「えっ?」
「だから、澪も一緒に来てくれるなら病院に戻る」
「……馬鹿律。当たり前だろ。一緒に行くよ、病院に」



 ありがと、と律が小さく言った。
 今はお互いに抱き締めあってて、顔や表情は見えなかったけど、私の背中に回ってる律の手が、ギュッと服を摘んだ気がした。
 私もそれを受け入れるように、まだちょっとだけ震えてる律を、愛おしく抱きしめた。もうずっと抱きしめてたい。



「じゃあ電話するぞ」
「うん」
「おばさんたちにも謝れよな」
「うん……あはは」
「何笑ってんだ?」
「なんか、可笑しかったんだ。嬉しいんだよいろいろ」



 私も吹いてしまった。確かに、なんでもないのに可笑しかった。
 嬉しいな。
 こうやって律と笑いあえるの、やっぱり最高に楽しいよ。


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最終更新:2012年06月01日 09:36